2018年4月27日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい4 黄土眠兎はサムライである。  叶 裕

 黄土眠兎第一句集「御意」。絶滅寸前といわれる活版印刷に正字を奢るページからは正しく清潔な匂いがする。表紙画に速水御舟「翠苔緑芝屏風図」。この俳人の矜持は表紙からしてあきらかだ。そして手に感じる重さ。それはこの俳人の視座の質を表すものに他ならない。

まだ熱き灰の上にも雪降れり

 阪神淡路大震災から二十三年。長田付近の大火災は今も脳裏に焼き付いている。人間の狭小を、無力を嗤うように天災のあぎとは容赦無かった。心折れる罹災者の上に降り出す雪の純白のなんと残酷なことだろう。放心の先に見る六弁の白い結晶を俳人は今も忘れていない。

朝寝して鳥のことばが少しわかる

 人間の聴覚はよく出来ていて、脳でフィルタリングしている。音は音と認識して初めて存在するのだ。いつも慌ただしく過ぎてゆく平日朝の狂騒曲。そこに一拍の休符が入る。休日だろうか、それとも、、休符とは無音を意味しない。休符に鳴る音こそサウンドを決すると言ったのはマイルス・デイビスだったか。 「鳥のことばが少しわかる」悔しくなるじゃないか。 朝寝という休符に彼女は何を聴いたのだろう。それを問い詰めてみたくなった。

病葉や男の日暮さびしいか

 下五の「さびしいか」この問いに五十路のぼくは絶句する。
声が聞こえる。諦観滲む芯のある俳人の声だ。斧の一撃のように虚勢が割れる。ひでぇじゃねぇか。知ってるくせに、、と弱々しく返すしかない。まるで姉貴だ。全部知ってて言ってやがる。さびしかねえや、こうみえたって男だぜ。長男だぜ?と下を向いてついに嗚咽してしまう。
 この句集には迷いがない。俳人として生きることを選択した人の句集だ。まるで侍じゃないか。と独り言ちて「御意」というタイトルにようやく合点がいったのである。
彼女がどこに属しているかは問題ではない。研ぐのは常にひとりの時だ。

1 件のコメント:

  1. こんにちは、裕さん。大関です。
    「御意」の観賞文、とても分かりやすくて心に沁みます。

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