2019年10月25日金曜日

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測202 戦後の風景を思いだしてみる ――秋野弘を誰が覚えているか  筑紫磐井

(前略)
昭和二十二年に馬酔木新人会が秋桜子の肝いりで発足し、わずか二~三年の間に多くの新人が登場したのだ。新人は登場すべき時に集中的に登場する。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌  能村登四郎
弥生尽追ひ着せられて羽織るもの
老残のことつたはらず業平忌
曇りゐてさだかならねど日脚のぶ 藤田湘子
茶摘唄ひたすらなれや摘みゐつつ
秋風の路地や哀歓ひしめける
しら玉の飯に酢をうつ春祭    水谷晴光
遠蛙愁ひはやがてあきらめに   林 翔
門掃きて雷の来ぬ日の夕ながき 馬場移公子


私は以前、能村登四郎、藤田湘子を調べるために、この時期の新人たちの作品を詳細に研究したことがある。若い世代の情熱が迸っているようで好ましいが、今になってみると印象に残っているのは、その後名をなしたこれらの作家たちではなかった。

片蔭をいでてひとりの影生まる  22年
光りつつ冬の笹原起伏あり    23年
ひさびさに来れば銀座の時雨る日 
風荒れて春めくといふなにもなし 
蝶の息づきわれの息づき麦うるる 
青芝にわが子を愛すはばからず 
七月のかなかななけり雑司ヶ谷 
椎にほひ病むともなくてうすき胸  24年
見えねども片蔭をゆくわれの翳 
夏ふかししづかな家を出でぬ日は
雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ 25年


 ここにあげたのは秋野弘という作家の作品だ。先にあげた新人たちの作品は今になってみると言葉が先走って、当時の若い人たちの心情が本当は充分伝わっていないことに気付く。しかし秋野の句は、私でも辛うじて記憶にある、昭和二十年代の風景や心情に、ぴったりと寄り添った詠み方となっているように思う。孤愁の影が漂うのだ。
(中略)
 秋野弘は戦前から句作していたようだが、戦後発足した馬酔木新人会では藤田湘子と並んでリーダーとなり、話題を呼ぶ句を多く作っていた。当時の馬酔木は昔の風景句から主観的・心象的人事句に移っており、秋桜子さえそうした傾向に染まっていたのである(実際この時期、秋桜子も「寒苺我にいくばくの齢のこる」などと詠んでいた)。
一方、韻律に厳しい波郷が二十三年に馬酔木に復帰しているが、新人たちは波郷の句に関心を持っていたものの、波郷復帰以前にすでに馬酔木新人会の文体は確立していたようである。だから当時の新人たちが口々に賞賛するのは次のような句であった。

風荒れて春めくといふなにもなし 秋野弘
春愁のむしろちまたの人群に  岡野由次


しかし秋野弘は昭和二十五年五月をもって馬酔木への投句を廃止している。まだ馬酔木は年刊句集を出していなかったから何の記録もなく、秋野の生年も、出身も、句歴も詳細は分からない。三菱の俳句会に入っていたと言われているから、三菱系の会社員であったのだろう。当時親しかった人達もみななくなり、また秋野のことを記録に残そうとした人もいなかったから、秋野に関して分かることは、もはや馬酔木誌上に残った俳句だけと言うことになる。
ではなぜ秋野は馬酔木を止めたのだろうか。当時の句を見ると患っていたらしくも思われるが、競い合った湘子、登四郎たちが二十四年末を以て一足先に新人賞を受賞し、自選同人に昇格していることにも原因があるかも知れない。とかく新人たちは、そうしたことに神経質となるからだ。
以後秋野弘の名は二度と馬酔木で見ることはなくなる。いや、俳句界でも見ることもなくなった。彗星のように現れ、彗星のように消え去ったというべきだろう。ことによったら、後世、湘子や登四郎を凌ぐ俳人となっていたかも知れない。新人の扱いは、主宰者たるもの注意してほしいものだ。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」11月号をお読み下さい。

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