2026年2月27日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)2 横山航路

今村俊三『鳩の頸』の再評価——あるいは俳句的遺産の発掘について 横山航路(北大俳句)   

はじめに

 病むは罪か初蝶に手をさしのべぬ

 掲句は今村俊三の第一句集『鳩の頸』の巻頭二句目に掲載されている。病涯にあった作者の主情的な叫びが初蝶へ伸ばした手に仮託されている悲痛な句と解せる。

 いま俳句に取り組んでいる作家の中でも、今村俊三の名を聞いたことがある人はほとんどいないだろう。国立国会図書館の資料に限ると、その名は平成十二年四月の『角川』に見られるのが最後であり、もはや忘れられた俳人とも言える。しかしながら、十句集をすべて通読する中で、魅力的な俊三句に出会う機会も多く、忘れ去られた俳人のままにしておくのは俳句の共同体にとって損失があるのではないかと考えた。

 そのため本稿では、第一句集となる『鳩の頸』を取り上げながら、その境涯的作品群の表現上の巧みさと、俳句という詩型への信頼という二つの側面を中心に論を進めていく。

 

一、今村俊三の経歴

 俊三は昭和三年に大分市に生まれる。昭和十八年に右上葉浸潤、昭和二十一年には左肺上部空洞、左腎臓結核を併発し、その青春時代は闘病のさなかにあった。それは「青春は病臥に潰ゆ柿甘し」からも見て取れる。

 昭和二十五年に「学苑」(のちに「霜林」)へ参加し、俳句の出発点とするとともに、昭和二十八年の「鶴」復刊と同時に参加した。「霜林」の桂樟蹊子、「鶴」の石田波郷に師事しながら、昭和三十四年には「霜林」同人、翌年には「鶴」同人となっている。

 『鳩の頸』が刊行されたのは昭和三十六年八月であるため、昭和二十五年からの約十年間、その初期衝動が散りばめられた句集でもある。吉野裕之は自身のブログでこう評している。 

 「二十代でこの世を去るべき病床の肉体が、現代医学のおかげで、還暦まで生きのびて、…」と句文集『桃滴記』(昭和62年、桃滴舎)の後記で自ら記すように、この第一句集に収めた作品の制作時期の俊三の病状はそれほど重く、しかし、「若い魂を病ましめることなく、(略)短小十七字詩たる俳句に、傷痍の青春を賭け、日々の生命を刻みつけて」(石田波郷『鳩の頸』序)いた。天性の明るさが、それを支えていたのだと思う。(1、原文ママ)

 俊三自身も『鳩の頸』のあとがきに「私の十数年に及ぶ闘病生活も、明日が知れないとあっては、眼の開いているうちに句集を作ってあげようという皆さんのご援助を、時期尚早と断る理由もなく……(後略)」と記している。結果的に平成二年まで生きたとはいえ、その当時においてはこの句集が唯一の碑となってもおかしくないという切実さが、強く句集を印象付けている。

 

二、『鳩の頸』の特徴

 本句集を方向づけるキーワードとして、「病涯」と「青春」を欠かすことはできない。句集全体が十一章に章立てされている中で、その始まりは昭和二十六年頃の入院・手術の日々を題材にした「無影燈」という章である。

 

 短夜を母に水乞ふとめどなし

 昼夜なく汗の拳を投げて耐ふ

 稲妻の硬き翼を握れる死

 鵙われを謗りつゞけて雨となりぬ

 

 こうした「短夜」「昼夜なく」の句における身体性と切迫感の表出、「稲妻」「鵙」の句における景の大きさと把握の巧みさ。痛ましい病涯詠を読者が受け止めやすい形に保っているのは、小さな技術の重なりの賜物であろう。

 しかし、病状の悪化により再入院を余儀なくされていた昭和三十三年の「波濤」の時代にはすこし変化が見られる。

 

 シクラメン医語の端々盗み臥す

 日傘まだ冷めざる母を帰しけり

 神想ふべし円錐の蚊帳の底

 湾あくびして白鷲を漂はす

 

 句群を通して無影燈時代のような切迫さではなく、日常の小さな出来事に対する客観的な眼差しに主眼を置いた句が増える。だが、「日傘まだ」の「まだ」の挿れ方、「神想ふ」「湾あくび」の把握には無影燈時代からの進展が窺える。

 また、青春という観点では、石田波郷がこう評している。

 

 苺つぶす若さ次第にあはれなり

 青春は病臥に潰ゆ柿甘し

 胡桃割るどこも傷つく木のベッド

 この期間に作者を苦しめたのは病苦の他には、自身の青春の意識だったにちがひない。「苺」「青春」の句は文字通りに自らの虐げられ失はれゆく青春を嘆いた句だが「胡桃割る」の句は、直接青春の文字はないが、作者自身が「どこも傷つく木のベッド」として把握されてゐることを見逃してはならないのである。闘病生活といふ現実を詠出しようといふ念願と、作者の内部にある浪漫性が希求するものとが、混然と同居し、……(後略) (2)

 波郷が引いた三句はいずれも俊三の苦しみの発露として受け取れる。「青春は病臥に潰ゆ」は嘘偽りのない俊三自身の魂の叫びだが、それを「柿甘し」の一筋の明るさが支えている。

 他にも、句集の後半にある「茶色の瞳」という章では、恋愛体験を主題とした連作形式を採っている。

 

 ロケ来ると五月のベッド揺り誘ふ

 海吠えて晩夏傷つきやすき愛

 雪晴に愛がすべての茶色の()

 

 この中でも「海吠えて」の句は主情的な叫びの強い句だが、海に「吠える」の動詞を斡旋する把握、「傷つきやすき愛」のフレーズの象徴性、季語としての晩夏を一句のこの位置に挿し込むことの韻律構成が連作内でも群を抜いている。

 

三、俊三の「信頼と覚悟」

 吉野裕之は俊三の第七句集となる『翼』を念頭に置きながら、「この作品に限らず、俊三の作品を支えているのは、俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟ではないか、ということにあらためて気づきました。」と述べている(3)。この、「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」というのは何であろうか。

 詩型への信頼は、句材の豊かさと規定の強引さの両面から説明できるだろう。

 林樟蹊子は『鳩の頸』の跋文でこう評している。

   

……(前略)俊三さんが、自分の狭い拾材範囲の中を、いかに刻銘に見すえているかということを知ることが出来るが、さらに、

  胡桃割るどこも傷つく木のベッド

  倖か眼鏡に凍てし星の数

  仮に置く七夕竹が書架隠す

  画鋲ひとつ落ちし壁の絵四月馬鹿

  東風や喪の消毒液を波立たす

 俳句になる題材はいくらでも我々の周囲にあるのであり、もつとそこに詩情を掘下げなければならないことを、これらの句から教えられる。 (4)

 

 また、吉野裕之は第五句集となる『立歩』を踏まえた上で、

「立春の二日後屑屋来てゐたり」「墓地ありて奥に暮春の寺ふたつ」「裏に車庫ありて年逝く耳鼻医院」「白魚を食べたる宵の火事近し」。普通はこのような拾い方をしないのではないだろうか。「立春の二日後」「墓地ありて奥に」「裏に車庫ありて」「白魚を食べたる宵」。こうした規定のしかたに、ある強引さとしたたかさがある。俊三の俳句に対する姿勢のひとつの断面である。 (5)

と指摘している。

 両者が評するように、俳句という詩型の豊かさを信頼し、その懐の深さというものに身を委ねていればこそ、「白魚を食べたる宵」という一見あやうい規定の仕方・一句の立ち上げ方が可能になるのだという観点が、俊三俳句を見つめる上では重要になるのではないか。

 それと同時に、俳句という詩型に対して俊三は韻律という形で応えていると言える。たとえば「万愚節飲食をけふ地下街に」(『翼』所収)「化石この億年の黙蕗の薹」(『摘花集』所収)などの句では、「けふ」や「この」が意味からの要請ではなく韻律面からの要請として挿し込まれている。前出の「海吠えて晩夏傷つきやすき愛」の「晩夏」も季語としてのイメージ喚起だけではなく、韻律を形作る意味合いが強く出ている。俊三は師・波郷から韻律への強い意識を継承した上で、独自に昇華させたとも言えるだろう。

> また、石塚友二は『鳩の頸』について、「〝地蟲出づ病者はおのが影に佇ち〟から始まって、巻尾の一句に至るまでの悉くが病床句、若くは闘病句でありながら、その病状の最悪を思はせる折節の句に於ても、不思議に底明るい一筋の光の如きものを感じさせたのは、疑ひもなくその巌にも似た性根の据えから来たものであったのだと思はれる」と評している。(6)

 俊三の生まれ持った向日性は「ベッド逆さに寝て母待てば涼しかり」「聖夜とて猫に臥食の汁頒つ」などからも垣間見ることができる。俊三は、俳句という詩型の懐の深さを信頼し、韻律を以て応え、天性の明るさを以て病涯を詠み抜いた、と評することもできよう。

 

四、まとめ

 これまで『鳩の頸』における「病涯」「青春」と俊三俳句に通底する「詩型への信頼」「俳句に対する覚悟」というトピックに注目しながら論を進めてきた。その上で、青春期を病とともに過ごした俊三にとって、韻律や構成の巧みさと生まれ持った明るさとの両輪が、その境涯を謳い上げるための支えとして機能しており、その発露として『鳩の頸』の句群と向き合う必要があるのではないか、との結論に至った。

 俊三は『鳩の頸』以降「どの屋根も鳩待つごとし花芙蓉」(『家』)、「息かよひ飽かぬわが身ぞ終戦日」(『翼』)などを経て、「白木槿いのちは息にほかならず」(『摘花集』)の境地に至っている。これらの句に触れるたびに生への明るい肯定を思う。そして、それを可能にしているのは「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」であるだろうし、その信頼と覚悟について考えることはすなわち俳句という詩型そのものを問い直すことにも繋がるだろう。そうした意味で、俊三を今読むことに少なからぬ意義があるだろう、と私は考えている。

 本稿では俊三を取り上げたが、魅力的な句を残しながら俳句史上に埋もれてしまった俳人は決して俊三だけではないだろう。そうした“忘れられた俳人”の遺構を掘り起こし、正当な日の下にさらすこともまた、今の俳人に求められる仕事のひとつなのではないだろうか。

 

参考文献 カッコ内は引用部

今村俊三『鳩の頸』S36,竹頭社 (2)(4)

今村俊三『家』S47,福岡鶴俳句会 (6)

今村俊三『翼』S53,桃滴舎

今村俊三『摘花集』S63,桃滴舎

吉野裕之『今村俊三作品選』 (1)(5)

吉野裕之『Madein Y』  (3)

 

【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

横山航路 「➀俳句とは何なのか:俳句甲子園をきっかけとして作句開始。日常を能動的に生きる一環として創作活動、特に短詩に傾注。➁俳句で何をしたいか:200年生きる。関心は今村俊三、林田紀音夫。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句的遺産の発展。」

 

【筑紫磐井感想】

 メジャーでない俳人は引き出したのはよいことである。今村を選んだ理由が聞きたいと思ったが、この論ではそうした個人的事情は伺えなかった。ただ、横山の論が『鳩の頸』を中心に考察した為に、今村の生涯に及んでいないこと、またそのために今村の全生涯の俳句に対する評価が抜けていることーーそれは結局『鳩の頸』の評価にも微妙な影響を与えることとなると思われるのである。

 例えば今村の略歴を見ると、昭和3年生れ。28年鶴参加。35年鶴同人。44年波郷死亡。54年「桃滴舎」創刊、協会・鶴同人辞退。H2没(62歳)となる。句集は『鳩の頸』36年、『家』47年、『蟹曼荼羅』47年、『冬の樫』48年、『立歩』50年、『至順』50年、『翼』53年、『樫のほとりに』54年、『摘花集』63年、『深養集』令和3年、エッセイ集は『桃滴コラム』58年、『桃滴記』63年、『桃滴日録』令和4年。

> これを見ると、今村の全活動は俳句と身辺エッセイとなる。特に後半生は俳句より文章に傾いている。今村の全存在を見ると、後半生は散文へのシフトが大きく、論者の考察も晩年の句集及びエッセイ集まで広げると厚みのある研究となったと思うのである。

 これを考えると、協会・鶴同人を辞退し、「桃滴舎」を創刊することに重い意味を感じる。波郷一辺倒であった今村が協会のみならず鶴同人を辞退したことは誠に衝撃的である。なぜ波郷との縁を切ったのか。最晩年の「桃滴舎」9月号の巻頭鑑賞で、俳句は境涯を詠うことだ、波郷はそれが俳句の基本だと教えてくれたと述べているのは今村らしいと思う一方、これほど波郷に忠実だった今村にしてなぜ「鶴」から離れたのかが不思議に思われるのである。

 さてこの新しく得た場である「桃滴舎」は今村と同人の文章を多く発表する場でもあった。そして前半生が句集を中心とする時代とすれば、「桃滴舎」以降は俳句とエッセイを同時発表する時代に移り変わる。文章とは俳句の補完であった。俳句とは物言えぬ文学であることを実感し始めたのではないか。「桃滴舎」の新しく得たこの場で今村は境涯を詠う(語る)ことを始めている。

 私の個人的経験から言うと、「鶴」の出身が多かった「沖」では、今村俊三ファンも多かった。その中で、「鶴」の元同人であった久保田博は今村の親しい友人であり結社外の注目作家として今村を取り上げている。実は「桃滴舎」以降の時代に今村を論じた作家論は珍しい。それくらい中央俳壇から忘れられていた今村であった。その中で特に注目するのは、久保田が、第1句集『鳩の頸』の「俳句の凝縮」から第2句集『家』で「散文精神」に移動していると指摘している点である。私が、今村の後半生では、俳句だけではなく文章の比重が高まり、今村の全存在は俳句+身辺エッセイとなったのではないかと言った点と重なり合うように思う。俳句とは物言えぬ文学であるとの自覚が出たのではないかと思う。(「鶴」には、波郷、麦丘人ほか散文の名手も多かった)

 最後に付言であるが、今村俳句はこうした特質を分析すると、現在話題となっているAI俳句に最も対峙する作家となっており、現代性のある研究となったと思う。