2015年10月2日金曜日

【俳句時評】 徳川夢声『夢声戦中日記』を読むための覚書 / 堀下翔



第二次世界大戦の終結から70年を迎え関連書籍が相次いで刊行・復刊されている。当時を証言する肉声を耳にする機会が世代交代を経て物理的に困難になっている昨今、その任が活字に求められるのは致し方ない。非肉声的なものをできるだけ肉声的に読んでいく作業がこの先ほとんど無限に待っている。「どんな作品が残っているか以上にそれを受け手がどれだけ読んでいくことができるのかという点が問題となりつつある」とは先々月の本欄に述べたとおりである。


この8月に刊行された徳川夢声『夢声戦中日記』(中公文庫/2015)もまたそうした非肉声の証言のひとつである。大正から昭和中期にかけて活躍した芸能人・文筆家の徳川夢声(1894-1971)が、大戦中に詳細につけていた日記を活字化したもので(ただし一部に欠落があり、そこに関しては夢声本人が当時の随筆などで埋めている)、同書には昭和16年12月8日から20年3月31日までの記事が抜粋掲載されている。もともとは戦後15年にあたる1960年に中央公論社から刊行された『夢声戦争日記』という本だが、こちらは函入の全5巻。昭和20年10月18日までの記事が現存のかぎりで収録された。ひもとけば巻末には『実録太平洋戦争』(監修:伊藤正徳、富岡定俊、稲田正純)の広告が掲載されている。1960年はまさしく日本が大戦を冷静に回想しはじめた時期であった。


のち、1977年に全編が7冊に編みなおされて中公文庫より再刊されたほか、2001年には中公文庫BIBLIO20世紀というレーベルから『夢声戦争日記(抄)敗戦の記』として昭和20年4月1日から8月31日分を採録したものが出ている。今回刊行された『夢声戦中日記』はこの『敗戦の記』の姉妹編と銘打たれている。刊行から10年以上が経過し、レーベルも違うのだからその位置づけは無理があるのではないかと思ったのだが、今回書店に行って『敗戦の記』を確認してみたところ、知らないうちにレーベルが中公文庫に変わっていた。奥付を見ると2013年の第3刷だったので、今回の『戦中日記』に合わせたものではないらしい。調べてみるとBIBLIOは2008年には消滅していた。このレーベル、2000年代の前半には石原莞爾の『最終戦争論』や海野十三の『海野十三敗戦日記』など貴重なタイトルを多数収録していたものだった(つい近年まで大きな書店にはふつうの中公文庫とはデザインの違うこのレーベルが何冊か並んでいたものだったが、あれは売れ残りだったか)。


とかく初出レーベルや刊行時期には隔たりがある両書であるが、先に述べた収録記事の時期を見るとなるほど姉妹編と呼ぶにもふさわしい構成を取っている。『敗戦の記』は終戦にスポットを当てた結果、長大な夢声日記のうちの最後の数か月しか収録できなかった。1945年3月10日の東京大空襲ほか、いくつかの主要記事が抜けている。いっぽう今回の『戦中日記』では開戦から東京大空襲にいたるまでの記事をバランスよく採用、生活史としてひじょうに読みごたえのある編集になっている。記事の採否を請け負ったのはライターの濵田研吾(1974-)である。夢声没後の誕生でありながら夢声に惚れ込み、膨大な資料を蒐集、すでに『徳川夢声と出会った』(2003/晶文社)という著書を持っているほか、存命人物としては随一の夢声通として、関連書籍の解説には必ずと言ってよいほど顔を出している。その濵田が選んでいるのだからまずもって記事の選別には間違いがない。

『夢声戦争日記』の初版本を底本とし、重大時局と考えられる日の日記、芸能史的に資料性が高いと思われる記述、夢声のプライベート上の重大事を中心に、底本の原文に手を加えず、本解説者の判断で選んだ。


とは本人の弁である(同書解説)。

ところで徳川夢声というひとを知っている人はもうほとんどいないだろう。明治生まれで没後すでに40年が経過している。はじめ活動弁士として一世を風靡したがトーキーの普及で職業が消滅した。そのご漫談家に転身、古川ロッパなどと共に喜劇もやったし、「文学座」で新劇もやった。ラジオ放送では黎明期からいろいろな仕事をした。もとが活動弁士なので、声がよかった。弁士時代は、主流だった美文調の映画説明を捨て、シンプルで間をとった説明をおこなった。顔や動きで売る芸人とは違い、喋りが商売道具だった。声しか聞こえないラジオの時代が来て、寵児になった。物語放送はその最たるで、1939年の『宮本武蔵』(原作:吉川英治)がもっとも当たった。いっぱんに徳川夢声といえば『宮本武蔵』を朗読した芸能人、ということになっている。戦後すこししてテレビの時代になったが、すでに芸能界の大御所の座を手にしていた彼は、やはりここでも引っ張りだこだった。

いっぽうで文筆家としても知られた。随筆、小説、自伝を大量に執筆した。エログロナンセンスの時代にはユーモア雑文の書き手として重宝された。どれもくだらなくて面白いが、たとえば「即席実話」(『広告漫談』東京朝日新聞社広告部/1933年/以下の引用は『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』清流出版/2009から)という短編小説のこのくだりなどは、往時の笑いのスピード感が横溢していて堪らない。

温泉宿に来たあやしい客が遺書のようなものを残して失踪する。そこに居合わせたA・Bふたりの湯客が探偵の真似に興じる。番頭が立ち会って失踪した客の鞄を開けると、「明治のチョコレート」だの「カルピス」だの当代の人気商品七点が出てくる(企業とのタイアップ小説なのである)。AとBはそれをみて、めいめい勝手な推理をする。たとえばAの推理はこうだ。「ふふむ、この男は少くとも四十歳以上だな。海貴来を用ひる所を見ると、脳溢血中風其他の老衰現象を防がうとしている証拠だ。しかも、梅毒から来る動脈硬化、もしくは、脳溢血を恐れている事が判る、ベンツ丸がそれだ。この両者を兼用する所から思ふに、この男中々、科学的にも、しっかりした頭脳の持主だな」(ママ)。まるでタイアップの意図が見え見えである。Bもこののち同じ調子で推理を進め、はんたいに40歳以下であるという結論に至り、Aと口論。ところが番頭があとになって宿帳を持ってきて、男の年齢はあっさりと判明する。

「丁度キッカリ四十歳としてありますが」
「え? 四十チョード?」
「ぢゃマア、二人とも当ってる訳さ」
と、俄然、両探偵は握手した。

こののち物語は、ある人物の登場であっけなく完結するのだが、とかく、どの文章をとっても万事がこの調子で洒落とナンセンスの連続である。

戦後に向かって文体は徐々に油が落ちてゆく。初期より自分を主人公にした随筆とも小説とも分類しがたいものをしばしば書いていた夢声は、しだいに過剰な笑いは避けた、身辺雑記的な文章を活動の中心にしてゆく。ある時期から、夢声は自作に「私小説」という言い方をよくしている。たとえば1953年に六興出版社から出ている『徳川夢声代表作品集小説篇(下)』をひもといてみると、各作品に「変形私小説」「みな変名になつてるが、私小説のたぐい」「純然たる私小説」「完全にありのままの私小説」という自解をしている。薄味の筆致のなかでほのかなユーモアがただよう作も多いが、純文学を意識した、ペーソスに一貫したものも少なくない。『小説篇(下)』から、「無駄な時間」を引こう。映画撮影の合間に氷イチゴを食べたことで、前妻との死別にまつわる記憶が俄かに引き出される、という筋だ。展開に理屈っぽさはあるが、執拗な氷イチゴの描写は味わいぶかい。戦後まもなく、甘味にもなかなかありつけなかった時期に、どうにかうまい氷イチゴを食おうとする夢声。氷店で桃が売られていることに気が付き、それを入れたらどうかと試みる。

見たところスイミツのようだつたが、コチコチに固い実で、アマ皮を指で剥ける例のヤワ肌と違う。私はナイフをボストンバツグから取り出し、皮を剥ぎ、肉を削いで、六・七片を氷の山に埋め、心もち時間をとつてから試食してみた。/氷はあくまで冷たく、桃は聊かナマ温かく、これが同時に口中の粘膜を二重奏となつて刺激する。

基調となる文体は淡泊。そこにうち混じる「スイミツ」「コチコチ」「アマ皮」「ヤワ肌」「ナマ温かく」といった独特の片仮名づかいは、いかにも古くさくはあるが、執拗な感じが出ている。氷店に入る前に道をぶらぶらしているところの描写も同様で、〈迷いながら私は、ホカホカと熱して粉となつてる畑の中を歩いた。風がソヨリともない黄昏である。虫がジイイイと鳴いている。豆も草も、枯れようとしている〉といった具合だ。声に出したら強調して読まれる感じがある。文章のアクセントになっているのだ。「粉となつてる」が、きわめて口語的に書かれているのも、この文章の流れ方をよく示している。枯淡とも近い世界を独自の筆致でつづるところに夢声の文章の魅力がある。

ところで夢声が自身の散文について自嘲的に記した文章がある。編集部に「わが文学」というテーマを与えられて執筆した「含宙軒文学」(「文学界」1950.12/含宙軒は夢声の号)がそれだ。ここで夢声は、自分の文章に自伝が多いこと、随筆も小説も自伝の読み切りのようなものであること、たまにフィクションを書くと評判が悪いことなどを足早に挙げていったのち、自身の性格を「ウソが苦手」と分析し、こう述べる。

この性癖が、モノを書く場合にも出てくるらしい。それが、私をして自伝業者たらしめて一つの原因だろう。だからと云つて、フイクシヨン小説家の人たちを、ウソツキの名人だという意味では毛頭ない。私だつて、これから大いにフイクシヨンものを勉強すれば巧く書けるようになるのかもしれない。私が、いつまでたつても、自伝的なものばかりしか書けないのは、勉強が足りないからであるとも思う。/要するに、なんと云つても、私のブンガクはアマチユアの域を出て居ないからだ。だから自分の持ち味をそのまま放り出して、世間から買つてもらう、というやりかたが一番ラクなのだ。

いかにも無責任な口吻であり、こういうところは夢声の悪癖ではあるのだが、しかしこの自省は的を射てはいまいか。夢声の文章だから面白い、だ。若いころから芸能の世界で売れに売れ、年を重ねるごとに文化人としてのキャラクターも持ち合わせてきた夢声である。各界の著名人と対談を重ねた「問答有用」(「週刊朝日」1951-1958連載)をはじめ、芸能界にとどまらない広範さでさまざなな仕事をこなしている。身辺雑記といってもただの身辺ではないのである。いまとなっては喜劇通か役者通でもないとなんのことやらさっぱりということになっても仕方がないが、当時はこれが面白かった筈だ。事細かに記される巡業や映画撮影の裏側などは、いま読んでも興味深い。

夢声の著作は膨大である。前出『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』の巻末に、濵田が作成した著作目録が掲載されているが、生前刊行の分を数えてみると、なんと111冊もある。選集や別版を含むし、対談集、座談集も多いが、それを差し引いても並の量ではない。その中で目を引くのは、自伝の多さである。『現代ユーモア叢書第五編・夢声半代記』(資文館書店/1929年)、『くらがり二十年』(アオイ書房/1934年)、『自伝夢声漫筆』シリーズ(早川書房/1946-1947/のち数度タイトルと版を変え、『夢声自伝』上・中・下/講談社文庫/1978年として夢声の自伝の決定版に)、『あかるみ十五年』(世界社/1948年)、『放送話術二十七年』(白揚社/1951年)、『銭と共に老ひぬ』上・下(新銭社/1968-1970)。稿の重複はあるが、夥しい。このうち活動弁士時代を語った『くらがり二十年』について、濵田研吾は、2010年に清流出版が復刊した同書解題においてこのように書いている。

夢声のほかにも、生前に著作を出した元映画説明者はいた。(中略)しかし、映画館名、映画タイトル、サイレント作品のスタッフとキャスト、同時代の説明者・楽士・映画関係者の名前など、『くらがり二十年』ほどたくさんの固有名詞が登場する本はない。『新青年』連載時より、サイレント映画の歴史を記録するつもりで、夢声が意識的に多くの固有名詞を出したとも考えられる。

同様の指摘は他の著作にも自伝、随筆、小説を問わず当てはまる。生涯にわたって断片的につけていた日記は、『夢声戦争日記』のほかは断片的に雑誌などに公開されたにとどまるが、それ以外の場所に書かれた膨大な文章を時系列で丁寧に整理して再構成したならば、それだけで、彼の生活の大部分がたちどころに詳らかになってしまうだろうと推測される。おびただしい役者、芸人、文人、文化人の名前の羅列であり、社会状況のスケッチである。筆者などは彼の書いたものを読むとつい、藤原龍一郎の〈世界とは時代とは数限りなき固有名詞の羅列にすぎぬ〉(『夢みる頃を過ぎても』邑書林/1989)という短歌を思い出す。夢声とはかなり年代が離れているが、同じ放送業界に関わった作者の歌である。時代というものが固有名詞の織りなしたものだとすれば、それをめぐる無数の文脈を知らない限り、後世の人間はついに時代というものの内実を知ることはできないかもしれない。夢声が書き散らした人・もの・ことの名前は、筆者たちが決して見ることのかなわなかった昭和という時代を、かろうじておのれに繋ぎとめるためのよすがなのだ。

いささか遠回りをしてしまったが、『夢声戦中日記』に戻ろう。この日記もまた固有名詞の奔流だ。

冒頭には1960年夏の時点で夢声が書いた「まえがき」が載っている。そこには彼自身による〈私の戦争日記も、緒戦のしばらくは、戦勝に酔った記述になっているが、間もなく形勢が悪くなって悲観的となり、それからドーニデモナレという虚無的な気もちとなり、いよいよ、広島の原爆に到って、“人類の滅亡”という文字が、日記に出てくる〉といった日記のあらましのほか、以下のような刊行の動機が述べられている。

戦争の記録も、現在までに各方面の人々によって、いろいろと出た。もう沢山だと云えないでもない。そんなところへ、私の日記など無駄も甚だしい、と世間様から云われそうである。/しかし、大政治家や大軍人の書いたもの、各大学者、文学者の書いたものはあっても、一般俗人の書いた記録はあんまりないようである。一般俗人が実は国民の正体なので、その意味においてこの日記は、読む人によっては最も注目すべき内容なのかもしれない。

自ら一般俗人と名乗っているが、芸能家としてラジオに出たり日本中を巡業したりする人を一般の人間とは言わない。戦局に関わる政治家や軍人はまだしも、学者や文学者とであれば同じ列に置いてもよい。また、夢声自身、1941年12月13日、新しい日記帳を買ったさいの記事に〈分量の定った日記帳は不自由でいけない。大いに文学の如き日記をつけることにしよう〉と、「文学」の語を用いている。このあたりに、彼の無責任さというか、無定見がある。

市井の代表を自らに任ずる一方で、文学者でもあろうとする。夢声の日記は、この二つの属性のあいだを行ったり来たりしながら書かれている。どちらかが嘘なのではない。どちらも本心なのである。

市井の人の日記としての側面は、これまで多くの読者が語ってきたことである。長部日出雄は、「小説新潮」2008.4が日記文学特集をやったとき、夢声戦争日記を取り上げ、その内容を〈戦前は自由主義的な知識人であった一市民が、戦争をどのように体験したか〉(「正直な日記」)と紹介している。〈さよう、夢声戦争日記のいちばんの魅力は、なによりもこの正直さなのだ〉。古い喜劇人のことになれば存命人物ではまずいちばん詳しい小林信彦も、同じ見方をしている。彼が「週刊文春」でやっているコラムの連載、もうずいぶん長いが、いまから十年前、すなわち戦後六十年の年に、夢声戦争日記を取り上げている。

失笑したのは、三月十日の大空襲を体験した人の手記か日記かが発見された、という記事(堀下註:本文冒頭、戦争を経験していない新聞記者が頓珍漢な記事を書くことを嘆いている)である。/〈無名の人の手記〉というのでびっくりしたらしいが、実は無名の人の空襲被災記録(本になったもの)は、ぼくが持っているだけで、何十冊とある。目につく限り、買っているのだ。/記録といえば、あれがなぜ出版されないのか、と思う。マルチ・タレントとも称すべき徳川夢声が、太平洋戦争の開戦の日から敗戦までを、ことこまかに書きつづった「夢声戦争日記」である。 
(「本音を申せば」第363回「夢声戦争日記」のすすめ/「週刊文春」2005.6.23)

まるでこれでは、夢声の日記もまた〈無名の人の手記〉に数えられているようではないか。いや、むろんきちんと読めば、「記録といえば」のところで話題が転換しているので、そうではないことは分かる。なにより小林信彦ともあろう人は徳川夢声を無名の人とは言わない。がしかし、この文脈には、夢声戦争日記を、そういった〈無名の人の手記〉と同じような手つきで受け取っている様子がうかがえてならない。小林はこのあと、〈ぼくは子供だったが、夢声と同じ気持だった/日本人は乗り易くダマされ易い〉〈当時の日本人と戦争を描いて、これ以上の本はない〉といった記述をつづける。やはり夢声を、市井の人の代表的存在として見ている。

今度は、彼が一方で目指していた〈文学の如き日記〉がどのようなものであったのか見てみる。そろそろ本文に当りたいところだが、長大な日記なので、どこを引こうか迷った。東京大空襲の記述が印象的だったので、そこにしてみる。

十日(土曜 晴 温)
凄観! 壮観! 美観!
B29が青光りに見える。いつもより低空を飛んでいるので、いつもの三倍ぐらい大きく見える。それが炎の色の補色だろう、青く見える。時々、眩ゆいほどに、照空灯の光を全反射する。(中略)いずれも高速度で、落ちたり昇ったりしているのだが、遠いのでそれが夢のような、ゆっくりした運動をする。美しい! と言ってはいけないのだが、他にそれを現わす言葉がない。

この数行に夢声戦争日記の特性は顕著である。夢声宅は空襲からは少し離れていたので、彼はこの出来事を遠くから眺めている。B29が都心を爆撃している様子がよく見える。夢声はその様子を事細かに描写する。あざやかな光線が飛び交っているのがよく分かる。文筆家としての本領発揮である。

だが一方で〈美しい! と言ってはいけないのだが、他にそれを現わす言葉がない〉という記述は、いかにも説明的だ。かつ何より筆者には、この〈凄惨美-倫理的な反省〉という小市民的な構図が陳腐であることこそ、夢声の散文の性格をもっとも体現しているように思われてならない。ときに文学者として、己が任じた記録者以上の役割――それは華美ないし精緻な文学的表現であり、文化人としての批評眼である――を目指そうとする夢声だが(後者に関しては戦後如実になったその性格を濵田研吾が『徳川夢声と出会った』の中で〈夢声流小言幸兵衛風独断的風俗お小言エッセイ〉と称して残念がっている)、多くは簡明な情緒、単純な論旨に終始している。いや、筆者はそれを惜しむのではない。そうであればこそ夢声戦争日記は市井の日記なのだ。


ところで本稿は俳句時評ということになっているけれど、今月はまだ俳句のことを書いていない。そもそもなぜこの本を取り上げたかというと、実は夢声戦争日記は、本文に多くの俳句を含んでいるのである。夢声は昭和期の伝説的な文人句会として記憶される「いとう句会」の同人、それどころか言いだしっぺである。句会の成立事情は、作った全ての句を収めたという第二句集『雑記・雑俳二十五年』(オリオン社/1959/同じく全句集の第一句集の増補版)に詳しい。


1933年ごろ、のちに病没する前妻が入院したおり、病院へ行く車中で夢声は、ふいに俳句を書く。それがきっかけで俳句を本式に習いたいと思い、数日後に会った明治製菓重役・内田誠に句会の立ち上げを持ちかける。翌年春、句会は実現。宗匠は文人俳句の雄、久保田万太郎であった。


その他のメンバーに関しては村山古郷『昭和俳壇史』(角川書店/1985)が〈その後の長い歴史の上でかなりの変遷があるが〉と断った上で、渋沢秀雄、秦豊吉、森岩雄、鴨下晃湖、五所平之助、堀内敬三、川口松太郎、宮田重雄、内田誠、高田保、槙金一、大場白水郎、久米正雄、小糸源太郎、佐々木茂索、小島政二郎らの名前を出している。俳人からは秋櫻子、風生、汀女がときおり現われていた。〈こうした文雅の士ばかりの句会は、俳句史上でも珍しい〉〈この人たちの作る俳句は、すべて余技のたのしみであり、風雅であり、むずかしい俳句の格式には一切こだわらぬ〉(同村山)

こうして俳句との接点を持った夢声は、日記にその日の句を大量に書きつける。句会がないときにも、一日の出来事をそのまま詠ったり、気が向いて目の前の風物を写生したりしている。大方は凡作である。〈俳句も好きでしたね。専門家に言わせると、お前のお父さんの俳句はうまくねえ、ということらしいですが(笑)〉とは息子・福原一雄の証言である(「父・徳川夢声を語る」/「清流」2010.4)。

ここでは1944年10月6日の記述を見よう。

雨。北海道南瓜ノ味噌汁。流石北海道南瓜、栗ノ如シ。飯一杯。
午前中吾家ニ在リ。ロッパ君ニ手紙ヲ書ク。放送局ヨリ電話、十五日ノ放送ノ件。昼飯。北海道南瓜ノ煮付、コレ亦結構。
晴れもよし秋の長雨またよろし
阿寒湖エハガキ
秋長雨原色版の湖は晴れ
悼翁逝去(堀下註:前日に亡くなった頭山満)
秋出水千年の巨木流さるる
弟の刈田如何にや秋長雨
今年始めての穫入れに、斯う長い雨では、弟の刈り取った稲が芽を出しはしないか。心配である。翁の死に心痛むより、この方が私には強く響く。


この中では「悼翁逝去」と前書きが付いた〈秋出水千年の巨木流さるる〉が読ませる。長命の頭山を巨木に譬え、また折しも降る雨に大水を想起した、二重の飛躍がある。なかば隠棲していたとはいえ、運動家として貴重な仕事をした頭山がいなくなることが惜しまれる、その気持ちが「流さるる」に出ている。「千年」はチトセと読むのだろうが、この読みの荘厳ぶりにも、頭山への尊敬が裏うつりしている。だがしかし、夢声はこんな追悼句をなしておきながら、それよりも弟の刈田が心配だと書く。夢声の中で俳句と日記の本文とが、断絶してしまっている。俳句の一句一句が、まるで箱庭のように、工芸品のように書かれている。


日記に手控えられた句を読むうちに、その工芸品が、彼の好んだ文学的空間につくづく立脚していることに気が付いた。古き良き、簡明な情緒である。本文中から拾ってみる。


曇り日の浪白々と竹の秋 
夜光虫たなごころにぞ映し見る 
旅帰り吾が庭に見る野分あと 
さゝくれし菜畑にして春立ちぬ 
古椿梢一輪咲き初むる 
花冷えの銀座歩くや五円持ち

情が過剰であったり、説明的だったりする句も多いが、いずれも伝統俳句の枠組みのなかで書かれている。これらを読むと筆者は、彼が「私小説」と呼んだ作品群を思い出す。自然や人事が純朴に、淡々と書き連ねられていたあの世界である。先に引用した〈晴れもよし秋の長雨またよろし〉の、秋雨を〈またよろし〉とする風雅趣味がどの句にも見え隠れする。この情緒の中に夢声の生活が入り込んだとき、たとえば〈五月雨のある日メイコと旅に出づ〉などの句が生まれる。だしぬけに飛び出す意外な固有名詞が魅力的だ(彼としては他愛のない日常をそのまま言っただけなのだが)。夢声が愛した世界を一緒に愛せる人はハマる。

戦争日記中の作としては、

一千機来襲の春となりにけり 
おのが死ぬ話春の夜高笑ひ

なども外せない。




足早に見てきたが、このボリュームは実際に読んでみないと分からない。濵田の解説で指摘されているが、この日記には前身となる『負るも愉し』(二十世紀日本社/1951)という本が存在する。同時期の日記の抄録だが、夢声戦争日記との差異も多い。詳細に検討すれば見えてくるものがあるだろうが、大部分は誰も手を付けていない。また別に、詩歌畑の者にとっても興味深い問題がある。上記の通り、俳句を含む日記であるが、実を言えば、短歌や詩もときおり混じっているのだ。俳句と違って他の場所で本式にやっていた形跡はないし、分量も俳句が圧倒的なのだが、無視できない。詩形にこだわらぬ昔ながらの文人趣味とも言えようが、異なる詩形の性格が日記とどのように絡み合っているのか、考えてみる必要はありそうだ。


それにしても、この傑物がほんらい一世を風靡した話芸の仕事は、21世紀に入って殆んど顧られなくなっている。『宮本武蔵』の晩年の朗読あたりはいまでも入手が簡単だが、そのほかのおおかたは散逸している。


先にも引用した「清流」の福原一雄の談話に「元祖マルチタレント徳川夢声の本領は、文学者たること」という大仰な見出しがついていてびっくりした。あとで、夢声研究の嚆矢三國一朗による「徳川さんの話芸の核心には、文学があった。徳川さんは日本人の話芸を近代文学にタッチさせた最初の功労者で、徳川さんの本領はむしろ文学者たることにあったのではないか」(「言葉についての断章」/「放送文化」1971.10)という文章から引いたものと気が付いた。三國の言葉は、夢声の声の仕事が文学的素養に裏付けされていることを指して言ったもので、文筆業を振り返った「清流」の記事に付されるのはお門違いなのだが、しかし皮肉なことに、多くの出演作が視聴困難になった現状、徳川夢声その人をもっとも当時に接近して知る媒体が、文章の方になっているのもまた事実なのである。何十冊彼の古本を漁ってもついに日本中を沸かせた話芸には接触できないと気づくとき、非肉声と肉声との断絶を埋めることの困難が改めて思われる。



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