堀下:
ちょっと間が空いてしまったので、前回までの話を確認してみますが、まず花尻万博氏の「鬼」50句についてのことがありました。
柊や 街
祀られ鬼
言の間虎落笛する
といった、定型を大きく外れた50句に対して、僕はこれが詩型融合の作品に似ていることを指摘し、また、そのことが、行間の緊張がきわめて弱く、一行の独立性をあやうくしているのではないか、という印象を述べました。
いっぽう磐井さんは、これを〈自由律〉と〈連作〉という二つの視点で説明されました。形式を突き詰めた結果の産物なのではなく、世界最短の詩を確立させたい、という作家意識がもたらしたのがこの『鬼』であること。〈連作〉は、必ずしも作者がはじめに構成したとおりには読者のもとに届いていない、すなわち、不定形なものであること。この二点が、おおまかな磐井さんのお話でした。後者の話をもっと具体的に思い出してみますと、誓子の例が出てきました。句集に5句の連作として収録されている「蟲界變」が、「ホトトギス」初出時には、虚子選を経た4句であった、というくだりです。〈五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない〉という誓子の発言は、まさに、連作に行間の緊張が必ずしも求められないことの証左ですね。誓子はこの問題を、一句の完成度で解決しようとしていて、結局この課題は、古今、『鬼』に至るまでの多くの作品が、結局クリアしきれていない部分だと思いますが、さておき、行間の緊張と一句の独立性とは、決して必要条件として結ばれているものではない、ということが分かりました。ありがとうございます。
それから、山頭火の文章、ようやっと確認しました。『其中日記』昭和13年10月4日の記事ですね。以下の引用は『山頭火全集』第9巻(春陽堂書店/1987)より。
よい句はよい人からのみ生れる(よい人とは必ずしも道徳的人物を意味しない)、人間として磨かれ練られてゐなければならない。
作りつゝ味はひつゝ、――制作と鑑賞とは両翼の如し。
句は飽くまで推敲すべし、一句に拘泥するは非。
古池や蛙とびこむ水の音
―――蛙とびこむ水の音
――――――――水の音
――――――――――音
芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界
なにせ日記なので断片的だし、文脈も判然としていないのですが、この日の日記が、引用部分の前からずっと、「よい句」とは何かということについて雑然とメモしている点から判断して、まず芭蕉の〈古池や蛙とびこむ水の音〉が「よい句」であり、そのよさの中核が「音」にある、ということを山頭火は言っているのでしょう。同じ放浪の詩人として芭蕉に心を寄せていた山頭火が、「よい句」のことを考えていたときに不意に思い出した句が〈古池や蛙とびこむ水の音〉だったのは、いかにもなるほど、の感があります。
磐井さんはこの山頭火の日記の記事を読まれ、古池の句に山頭火が見出したのは〈俳句の本質は沈黙にある〉ということだったとお考えになったようですが、ほんとうに山頭火はこの句に何も残っていないと思ったのでしょうか。むしろ、〈古池や蛙とびこむ水の音〉を何度も何度も洗い出してみて最後に残った〈音〉という言葉の存在感を山頭火は大切にしたいと思ったのではないでしょうか。
この〈音〉と花尻万博の〈小火と蛾〉とが、導き出される手順こそ逆であれ、作者にとって同質の言葉であるのには、異論はありません。言葉を足し、再構成して、〈小火と蛾〉が十七音の俳句になったとしても、その詩情の中核にあるのは依然として〈小火と蛾〉でしょう。でも、その前後の二つの句が、どうしてまったく同じ作品でしょうか。〈音〉はたしかに〈古池や蛙とびこむ水の音〉の中核でしょうが、けっして〈古池や蛙とびこむ水の音〉と同じ句であるわけはありません。〈音〉に凝縮された作者の手ごたえを、〈古池や蛙とびこむ水の音〉に展開、再構成する作業こそが必要です。花尻万博「鬼」に覚える一行のおぼつかなさは、そういった作業を経ていない点にあると思います。そして、その作業は、作者自身の手になされるべきものでしょう。書くことの責任が作家にはありますから。
もう一つ、『関西俳句なう』の話もしていましたね。
磐井さんはここに収録された26名の作家を〈消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している〉と特徴づけられていました。自己規律的表現、というのが具体的にどういうことなのか、もう少し説明していただきたいのですが、もう一方、消費的であるというのは、僕も、ひしひしと、そして悲痛に感じていた部分です。収められた作家は、半分が「船団」所属であることを抜きにすれば、ほかは「樫」「いつき組」「火星」「晨」「草蔵」「花組」「百鳥」「運河」「狩」「円虹」と多様で、伝統俳句に身を置いている場合も多いのです。それぞれが違う場所で書きながら、ある種のトーンの統一をもって、耐久性のない書き方をしているので、これが時代の空気感なのか、と思わざるを得ません。
耐久性がない、ということの内実もいろいろあって、意味に偏重していたり、句のすがたが似通っていたり、などがそれですが、そのうちの一つに、一句の消費性が、着想の段階から見られる、ということがあるのではないでしょうか。
たとえば、この句などを見てみますと、その成り立ちが既存の時代性の消費にあるというのが分かります。
この声も山寺宏一かき氷 黒岩徳将
夏休み終わる!象に踏まれに行こう! 山本たくや
不揃いのビー玉背の順にして、夏。 舩井春奈
黒岩の句は、声優の山寺宏一(1961-)が、業界のオールラウンダーとしてしばしば取り沙汰されることをうたった句です。山寺といえば1990年代以降、多様な声を演じ分けられる人気声優として、アニメ・洋画を問わず同時代の声優の中で突出した出演本数をほこる人物です。この人を傑士と思わせる伝説めいたエピソードがファンの間ではしばしば語られています。同じ作品の中で複数の役が山寺ひとりに割り振られ、まったく違う声質で演じきったといったものがそれです。有名なところでは、リメイク版『ヤッターマン』(日本テレビ/2008放送)において、ナレーションのほか、何種類もいるメカキャラクターを一人で担当したエピソードなどが語り草になっています。だから〈この声も山寺宏一〉というフレーズを聞くと、アニメファンは大喜びなんです。でも、この句が読者に与える喜びは、詩情というよりも、お笑いの「あるある」ネタですよね。すでに流布している、世代に共有のノリを定型に当てはめている。時代を消費することで一句がなっています。
山本の句だって同じだと思うんです。〈象〉と〈踏む〉といえばサンスター文具が1960年代に放送していた「象が踏んでも壊れない」という筆入のテレビCMがすぐに想起されます。もちろんこれだけでそのCMに結び付けるのは乱暴ですが、この句はさらに〈夏休み〉と取り合わされているので、いよいよ夏という季節の少年性が、筆入のイメージを喚起するでしょう。1988年生まれの山本が過ごした1990-2000年代という時代において、ノスタルジーの対象になったのは、ちょうど彼の親世代にあたる世代にとっての幼少・少年時代ですから、山本の時代のテレビには、ひどく画質のわるい往時のテレビCMが、なつかしの、などと冠されてふたたび映し出されていました。仮にこの句がそのCMを出発点にしていなかったとしても、山本が俳句を書いている時代にあって、〈象〉と〈踏む〉と〈夏休み〉とが癒着した文化的土壌が成立している、というのは言い過ぎでしょうか。この句が〈行こう!〉という勧誘の形で終わっていることも、〈象に踏まれ〉ることの意味性が、この句の書き手と受け取り手との間に共有されていることの暗示である気がしてなりません。とかく、この山本の句を読んでも、分かりすぎてしまう、という印象を受けます。
舩井の句も、もっと説明が難しいのですが、やはり「不揃い」「ビー玉」「背の順」という語彙が「夏」の青春性を基軸に、それぞれ既存の結びつきを以て一句に組み込まれているのではないでしょうか。この句を、ビー玉を並べることの無為性から青春のけだるさを感じるといった、言葉通りの受け取り方をするとして、でもこの情感は、二十一世紀の俳句が書く以前に、J-POPや、テレビCMや、テレビドラマなどで、いくたびも比喩的に挿入されてきたものなのではないか。たとえば、このある種陳腐な情感をういういしく扱おうとするときに、〈不揃い〉なんて言葉を使ってしまったら、どうしたって『ふぞろいの林檎たち』(TBS/1983放送)のタイトルが頭をもたげるし、さらには、このドラマが典型化した結果、『男女7人夏物語』(TBS/1986放送)といった青春群像劇が多作され、それが1990年代の〈月9〉的世界観(『東京ラブストーリー』(フジテレビ/1991放送)etc…)をバックボーンにする恋愛至上主義へと繋がっていく時代の空気感なども思われ、〈不揃いのビー玉背の順にして、夏。〉という句じたいが、そういった空気感に回収されてゆくのではないか、と、そう思うのです。
三句とも、うまく説明できそうな句を恣意的に選んだきらいはありますが、説明し尽くせるかどうかに限らず、『関西俳句なう』には、このような世代が共有する既存の情感を俳句という詩形において再生するという書き方が通底している、それが僕の感想です。
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