2025年10月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第17回各論―テーマ:「風」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 

(投稿日:2011年12月23日)

★―1近木圭之介の句/藤田踏青

 己の影 風にめくれもしない

 平成17年の圭之介93歳の作品である。凍てついた地面に貼りついた己の影をじっと見つめる作者の姿がそこにある。その影は最晩年のもう動かしようのない己の人生そのものを示唆しているのであろう。影とは原像に対する二次的存在である故に、変化の源である風さへその影を動かす力はないと言えば身も蓋もない話となる。やはり影とはその人の可能性や生きられなかった面を象徴しており、その否定的な意味合い故に人間の自我に陰翳を与える立体的な存在なのではないか。ユングの述べた「影を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識し、影を自我に統合することが自己実現の道である」の境地に達するにはもう体力も時間もあまり残されていなかったのであろう。

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ   平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ    平成19年作

 今という風 己れにあり生きる       平成19年作

 風と一体化して風と共に消え去って行く己れという存在を冷静に視つめつつ、圭之介は平成21年に97歳で没した。

 人だか風だか渦を巻き一さいが過ぎ去る   昭和31年作  注①

 冬木というものが躯のなか風ふく      昭和38年作  注①

 私の眼が入って行くのは風のおく      昭和59年作  注①

 小さな驕り身に溜る風にふかれる      昭和60年作  注①

 風という存在を自我の内部に見い出すという事は、その流動的な不安定性を示すとともに、受動的な対応に身を委ねていることでもある。また各作品に於いては、視覚や触覚が意識としての風によって攪乱され溶解されてゆく経過の中で、無時間性というものに至っている。風とは人生そのものかもしれない。

 月夜の石に中也の風の詩刻まれたまま   昭和58年作  注①

 山口遊歩の折、中原中也の詩碑「これが私の故里だ。さやかにも風も吹いている・・・」(注②)の風に立つ、との前書きのある句である。この中也の風も人生への問いかけであり、それを圭之介自身に投影しているかの如くである。ちなみにこの詩碑は小林秀雄の筆により山口県湯田温泉の高田公園に建っており、同公園内には山頭火の句碑「ほろほろ酔うて木の葉ふる」も建っている。山頭火が一時、湯田温泉に住んでいた折には中也は既に亡くなっていたが、中也の弟・中原呉郎とは詩人の会などで昵懇となり、次第に呉郎は山頭火に心酔してゆく。また呉郎の母フク等を含め中原家の人々に山頭火は暖かく受け入れられていたようで、中原家に泊まり込んだり、家族と共に記念写真を撮ったりもしている。そんな山頭火であったが、再び漂泊の思いを風が運んで来たのであろう。山頭火晩年の姿を圭之介は下記の様に冷徹に捉えていた。

 風 狂気匂う背   (山頭火晩年)  平成3年作


注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注②

<帰郷>跋   中原中也

これが私の故里だ

さやかにも風も吹いている

  心置きなく泣かれよと

  年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・・

吹き来る風が私に云ふ


★―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 渦潮の風の岬の薄羽織 『冬濤以後』所収

 渦潮は年中見られるものと思っていたが、春の彼岸の頃は一年のなかでももっとも干満の差が大きく、見事な大渦ができるため、「観潮」「渦潮」は春の季語となっている。荒々しい自然を前にした、薄羽織は風をはらみ、まるで岬の上で羽ばたいているような風情である。

 きくのの第三句集『冬濤以後』には連作が多くみられるが、その冒頭に登場するのが掲句を含んだ渦潮作品である。昭和42年、鳴門と前書された26句からなる作品には

 渦潮に呑まれし蝶か以後現れず

 渦潮に生きる鵜なれば気も荒し

と細やかな視線に裏打ちされたやさしく、あるいは力強い句が並び、また

 観潮船揺れてよろけて気はたしか

といった、歯切れ良いユニークな句も紛れている。


 きくのは前年に大切な人を亡くしている。その後、住居を移し、心機一転を考えながらも、身も心もあやうい時期を経ての鳴門吟行であった。

 まざまざと覗く渦潮地獄なり

 すさまじい轟音とたて奈落のような渦潮を目の当たりにして、恐怖を感じながらも、その偉大なる自然現象から目を離せないきくのがいる。

 そしてそれは、船上で足元を掬われるように揺れたことによって、一転して自らの関心がしっかりと過去から解放され、確かにひとりの人間としての自分が、現実の世界に生きていることに気づかされたのだ。

 よろけた足を踏み出す先は、新しい恋への一歩なのかもしれない。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花山椒みな吹かれみなかたちあり

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 掲句は風そのものを詠んだ句ではない。山椒の黄色い花が風に吹かれると、一瞬だが花々は形を失って黄色の塊だけに見える。だが、風が止むとまた花のひとつ一つの形が見えてくる。〈みな吹かれ〉でいっせいにそよいでいる山椒の花の群れた姿を描き、〈みなかたちあり〉と抑えたことで、〈花山椒〉の細かな花ひとつ一つに個性らしきものすら感じ取っている玄の視線を読み取ることができる。

 深読みをするならば、人は「流行」や「風潮」に吹かれるとき、山椒の花のように一斉になびくものである。しかし、風が収まれば、また普段の顔を取り戻して、ひとり一人の個性を示していく。自然界の現象を写しているように見えながら、そうした人間心理の暗喩としても読めてくる。強度のある句。こうした強度のある句の源流を探るとき、思い出される句がある。

 阿羅漢のつくる野分や切通   昭和17年作『飛雪』

 昭和18年、齋藤玄は石川桂郎にすすめられて「鶴」に入会、石田波郷に師事した。初投句で「鶴」2月号の巻頭を飾ったのが、この〈阿羅漢の〉の句。その後、石田波郷が9月に応召するまでに玄は、8回投句し、うち4回が巻頭になったという。(*2)

この句はうまい句ではない。叙法などどちらかといえば下手糞だ。……が叙法が下手でも粗野でも何でもこの句はがつちりとおさまつて了つて、もはや一言の抜差もならぬ蕭条たる風景が現出している。

と、波郷は〈阿羅漢の〉の句を絶賛した。ことに「句の末に至つて益々緊つてくる<や>のひゞきは誠に強大である。俳句の斯かる<ひゞき>といふものを現代の俳人は余りにも忘れすぎている。」と俳句の《ひゞき》を高く評価する。

 句の成立過程をたどるとすればこうだ。山を切り開いて通した路を野分が吹き抜けていく。前方には阿羅漢の石像が立ち並んでいた。そうか、この強い風は阿羅漢たちがつくり、吹かせているものに違いない。そうした作者の発見と断定が、〈阿羅漢のつくる野分〉という表現を生み出したのだろう。作者の断定を中七〈や〉で切り、下五を景物〈切通〉で抑える。韻文精神徹底を説いた『風切』時代の波郷の主張を補完するような作品として、この句は「鶴」の巻頭を飾り、波郷門下に何がしかの影響を与えた。しかし、今となってみると波郷の言うとおり「うまい句」ではない。無機物を作中主体に据えて、その動作や意思によって眼前の景物が現出したという擬人化の手法は、今では新しいものではなく、むしろ古典的ですらある。戦後俳句が終わった後に俳句を始めた現代の我々にとってみれば、ある傾向を想起させる俳句でしかない。

 そこには、掲句のような風景を通して人間の普遍に到達するような強度は持ち合わせてはいない。だが、技法や型から自由になり、凝視と独白によって普遍に達する道を探った玄の晩年の句群は、〈阿羅漢の〉の句に代表される古格との格闘から生み出されたことを確認しておきたい。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  細川加賀 「玄の一句」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊



★―5堀葦男の句/堺谷真人

 蟹生まる諸樹(もろき)うなずく瀬のほとり

 『山姿水情』(1981年)所収の句。3年後、『朝空』に再録されたときに「うなずく」が「うなづく」に改められている。

 山深い渓谷。明るい瀬々には潺湲たる水の音がひびく。そんな浅瀬のほとり、湿った土の上に小さな沢蟹がひょっこりと姿を現した。その甲羅は柔らかく、か弱い。さやさやと吹く風の中、新緑をまとった木々は互いにうんうんと頷きあうようにゆれている。まるでこの幼い生命をうべない、見守る先輩たちのように。

 湿潤な日本の気候風土には多様な生物相が息づいている。国土の約7割が緑に覆われた先進国など世界のどこにもない。ゆたかな樹木と土壌によって高い保水力を備えた日本の山々はそれ自体がとてつもない貯水量を誇るダムといってよいのだ。

 葦男の見た沢蟹はそのような環境を象徴する生き物であった。風にゆれる諸樹とは「多くの木々」であると同時にまた「さまざまな種類の木々」でもあるに違いない。

 縄より窶(やつ)れて竜巻あそぶ砂礫の涯  『火づくり』

 かつてメキシコの荒ぶる竜巻に挑んだ葦男が、今は日本の新緑の木々をやさしく頷かせるそよ風に目を細めている。これら二つの作品を並べて読むとき、彼我の風土の気の遠くなるような懸隔に改めて気づかされるのである。


★―8青玄系作家の一句/岡村知昭

 おろんおろんと風来た 手紙焼き捨てた    坂口芙美子

 作者は1964年(昭和39)に掲出句を含めた30句によって青玄新人賞を受賞。多彩なオノマトペを駆使した作品の数々は、「青玄」が進めた「俳句現代派」運動が生み出した作家の中にあっても異彩を放っており、「音楽性を採り入れた話し言葉とオノマトペ使用によって、未開拓の世界へ果敢に切り込んでいった」(森武司『青春俳句の60人』より)彼女の作風は、口語・現代語使用のあり方を見ていく上において欠かすことのできない存在である。オノマトペ使用の作品についてはまた機会を改めて紹介したい。

 たとえば、今をときめくアイドルグループが「風が強く吹いている」と唄うとき、聞き手の脳裏では「ビュービュー」とか「ごうごう」といった強風にふさわしい音のオノマトペが、これから訪れるであろう困難の数々とそれに立ち向かう決意とが思い浮かんでいることだろう。「そよ風」という言葉が出てきたとき、脳裏には柔らかさと温かさとを兼ね備えた風が肌に当たるときの心地よさ、また風とともにもたらされる柔らかな陽射しといった穏やかな空間がたちまちに浮かび上がってくることだろう。では1960年代の女性の手による掲出句においてはどのような風が、空間が浮かび上がってくるのだろうか。

 この一句においてのオノマトペとして選ばれた「おろんおろん」、まず並大抵の風のありようではなさそうなのはたちまちに想像がつくのだが、さらにただごとではない雰囲気を醸し出しているのが「風来た」との措辞である。確かに風はいきなりどこかから自分のもとへ訪れてくるものではあるのだが、風が自分のもとへ「来た」と見立てる、ありがちとも思える擬人法であるにもかかわらず、掲出句においては女性が感じる不安や恐れに対する隠喩的な役割を帯びた物象として立ち現われている。肌触りもまず気持ちいいものではなさそうである。そう「おろんおろん」は風の音の響きでもなければ風の温かさ冷たさを表したのではない、自らが迎えている危機のありようを示す存在なのだ。

 そんな「おろんおろん」と来る風を受け止めるひとりの女性(とひとまず見ておく)の足元では、かつて自分あてに届いた手紙がすっかり焼け焦げて、まもなく灰となるのである。「手紙を焼く」という行為からは誰かとの関係を断ち切ろうとする意思は十分にうかがえるし、女性ともなれば恋人との別れの一場面と想像するのは正直安易すぎるきらいもある。だが一方においてこの女性は、自分が誰かの「手紙焼き捨てた」事実に対してどこか現実感を感じていないところも見受けられる。「来た」「焼き捨てた」との末尾のT音の連打は、風の訪れと誰かとの関係を断ち切る決意の訪れとの取り合わせを確かなものとして形づくり、そのどちらに対しても心からのおののきを感じずにはいられない、ひとりの女性の姿をまぎれもなく写しだしているのである。

 貝殻に風棲む わたしのてのひらで

 風が聞いてる ねぎ刻む音 一つの音

 掲出句と同じく新人賞受賞の30句から風が登場する2句を引いてみた。貝殻に潜む風を感じたり、家事に励む姿を風が覗いているかのように感じたりというのはどこかモチーフとしてはありがちかもしれないが、風棲む貝殻は手のひらにあるとの見立ては、今このとき風は自らの手の中にある、風は自らのものとしてあるとの喜びにつながっているし、風に「ねぎ刻む音」を聞かれている彼女はその代わりに風の音を「一つの音」として聞きながら風と対峙しているかのようである。自らに吹く風を表すのに「おろんおろん」とのオノマトペを手に入れたこの作者は、もしかしたら自分で意識していないうちに風という存在に対して、どこか原始的な生命のうごめきを感じてしまっていたのかもしれない、風は「強く吹いている」ものではなく、「風は強く生きている」ものなのだと。


★―9上田五千石の句/しなだしん

 凍鶴の景をくづさず足替ふる   五千石

第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和五十七年作。

凍鶴の凛とした情景を捉えた句。

     ◆

 凍鶴のいる景色はそれだけで美しい。原野、もしくは雪原。棒のごとくに動かない鶴。

 その鶴に対峙してじっと見つめていると、微動だにしないように見えていた鶴が、脚を組み替えた。それはあたかも周りの景色に馴染んでいて、その動作自体が幻だったかのように思える。

 掲句はその情景を比喩に頼ることなく、詠み当てている。「凍鶴の景」は、凍鶴が、という意味合いでも読めるが、凍鶴の居る全体の景色を読み手に把握させることにも成功している。

     ◆

 今回は「風」というテーマだが、実はこの句には「風」ということばは出現していない。

 風は目に見えないもの。頬などに風を感じるように、身体で風の存在を認識したり、落葉が吹かれるなどの風が引き起こす現象によって人はそれと理解する。

 人は古来からこの風を、神のように敬い、時に悪魔の使者のように恐れもして暮らし、季節ごとに風に名を付け語り継いできた。無風という状態でも実は風は確実に在る。この風、大気の流れが無ければ、人間は生きられないのだから。

     ◆

 掲句には「風」は吹いていない、と読むのもひとつだが、花鳥諷詠の心持ちでこの句に対するとき、鶴が脚を組み替えたのは、目に見えないが、鶴に吹いた一陣の風のせいだったのではないかとも思えてくる。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


★―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 「風」の句と言うとこのような観念的な句にこそ憲吉の特色があるように思われる。松風や春風のような俳人好む風とはいっぷう違う「風」だ。しかし残念ながら、この2句とも前回の「鳥」で取り上げてしまったので、舞台裏が見えすぎてしまう。そこで、風に縁のある(鳥にも縁があるが)飛行機を取り上げて見る。

 翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

 「いやな渡世」雲上を航く梅雨の航

 第1句は昭和50年。『方壺集』より。流行に敏感な憲吉らしく、ジャンボジェット機を取り上げた極めて初期の句ではないかと思う(昭和45年7月に日航で就航している)が、これは素材だけが新しく、内容的に憲吉らしさがそれほど出ているとは思えない。

 これに比べて第2句はいかにも憲吉らしい。昭和51年の作。「いやな渡世」は勝新太郎主演の『座頭市』(昭和37年第1作、40年代にブームになる)で語られるセリフだが、相変わらずそのパロディ。憲吉自身の俳人ともタレントともつかぬ行き方は確かに「いやな渡世」というべきかもしれない。俳人の中の『座頭市』とは、カッコつけたがり屋の憲吉のポーズのようである。

     *

 さてこの「戦後俳句を読む」を始めるにあたり、旧知の俳誌「都市」主宰の中西夕紀氏に参加を勧め、桂信子を論ずると言うことで了解をもらったのだが、都合により「詩客」への執筆は辞退された。主宰誌の編集が忙しすぎたからだ。ただその時の約束は、しばらくして「都市」で桂信子論の連載を始めたから、約束の半分は果たされたとみてよいだろう。「戦後俳句を読む」はどこで行ってもらってもよいのだ。

 その中西氏から、私の取り上げている楠本憲吉の批判が来る。憲吉と桂信子は日野草城門のきょうだい弟子であり、そこで私の勧めで楠本憲吉全句集を買って読んでみたのだが驚いたらしい。憲吉の句は男には面白いかもしれないが、まったく女性を馬鹿にしており、女の敵である、というのである。例えばこんな句。

 呼べど応えぬひとまた殖やし夏去りぬ

 夏靴素直に僕を導く逢うために

 風花やいづれ擁かるる女の身

 しかしその後、新潟から出ている「喜怒哀楽」と言う雑誌で中西氏は3回にわたって「クスケン」の俳句鑑賞を連載、編集部によると「毎回大反響」とか。この3句も丁寧に鑑賞に取り上げていた。最終回では、「男の恋歌を長年詠ませた正体を、ダンディズムと言う人もいる。クスケン亡き後、女より、男にもてているのではなかろうか。」と結んでいる。どうやらクスケン俳句は人を元気にするらしい(それも私などより上の世代)。私の僻目でいえば、また楠本憲吉ファンが増えたのではないかと思うのである。


★―12三橋敏雄の句/北川美美

 新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

 この句が作られたのは昭和33(1958)年(『まぼろしの鱶』収録)なので今から53年前になる。『名句の条件』(アサヒグラフ増刊・昭和63年7月20日号)での楠本憲吉との対談の中で敏雄自身、「名句の決定は最低100年かかる」と定言している。敏雄の設定する殿堂入りまであと約50年。中間地点として考証してみたい。

 まず「場末」とういう舞台設定。一昨年のあるシンポジウムで司会進行役がこの句の「場末」を「バマツ」と声にしていて驚いた。シャープ電子辞書の中の『やっぱり読めそうで読めない漢字』には、「場末」が入っていた。現在、使用頻度が少ない言葉である可能性があり、「バマツ」とは、どういう場所を想像していたのだろう。「場末」といえば、「スナック」。「酒場」の形容で用いられる例をみる。「場末」は、街外れ、末枯れの意味と同時に「落ちぶれた」「恨みがましい」感もあり、悲しいエレジーが伝わる。俳諧味は充分である。この句の「場末」には世紀末のような緊張感や危機感がありハードボイルド、暗黒なイメージを抱く。どこからか、歌謡曲(@美空ひばり・ちあきなおみ)、シャンソン(@エディット・ピアフ)、ジャズ(@マイルス・デイビス)が聴こえてきそうだ。やはり「バスエ」と読みたい。絶望感漂う場所でありながら、どこか摑み切れない言葉であることも確かだ。

 続いて主役である「新聞紙」。捨ててあるものと仮定できる。金成日の死去を掲げる新聞各紙、「われわれは99%」のデモを報じるNew York Times、盗聴疑惑で廃刊に追い込まれたThe News of the World 等々、銘柄にこだわる必要はないだろう。一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報を印字したエコロジカルな紙は、世界のどの末枯れた街角にも存在する。身近なマスメディアを生き物のように俳句の中で立ち上がらせたことに驚きが生まれた。まさしく詩の「身体性」である。

 社会を垣間見ることのできる紙がすっくと立ち上り飛んでいく。「場末」にも関わらず、「すくと立つ」が妙に健康的である。末枯れた路地からクラーク・ジョセフ・ケント(@スーパーマン)が立ち上がって飛んでいく、あるいは、紙に代わるインターネット、電子書籍の普及予言にも思える。そして実際に「新聞紙」が生き物のように「すく」と立てば、それは恐ろしい光景である。新聞紙を「捨てられるもの」と考えれば、男達を震撼させた映画・『危険な情事』の中の不倫相手である女が復讐に行くサイコサスペンスすらも連想する。

 戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉

 敏雄は「戦争」でない主体(「新聞紙」)を無季(「場末」)の中で「立たせた」ということか。白泉の有名句に多少の糸口を発見したような気休めを覚える。

 新聞紙は風を受けなければ、立ち上がることもなければ飛んでいかない。それにふさわしい時期、すなわち年末、冬のイメージがある。場末の街に見るのは、枯葉、ゴミなどが冷却するアスファルトに吸い付きながら這うように吹かれる風景である。新聞紙が風を受けて本当に立ち上がるのだろうか。しかし立つと思えるのである。リアルだと読み手に思わせる。意表をついた取り合せが説得力をもつのは、「新聞紙」に置き換えた社会という現場に対する批判精神があるからだろう。

 2011年の日本の場末にすっくと立つのは戦争でも新聞でもなくブルーシートである。53年経過する句の着地点はどこなのか。読者を混沌と惑わせることが敏雄の狙いなのだろうか。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 田仕舞ひの後杳として北吹けり

 千空作品の中で最も多い風の季語は「北風」である。秋風(およびその派生季語)はまだしも、春や夏の風の作例は極めて少ない。津軽の五所川原に生きた千空だから、当然の結果と言えるかもしれない。

 さらに、北風を季語とする作品のうち相当数(8句を数える)は第1句集「地霊」所収のものであり、それ以降の句集では各々数句のみである。帰農生活も経験し、また居住環境も厳しいものがあった時代において「北風」は生命や生活の安寧を脅かすものとして身近に意識せざるをえないものだったのだろうが、インフラを含め生活環境が改善していくに従い、「北風」がもたらす脅威の切迫度が低下していったとみるのは穿ち過ぎだろうか。

 さて、掲出句は第2句集「人日」に所収された作品である。中七の後に切れがあり、米の収穫が終わった後、ある男(或いは一家)の行方が知れなくなったことと冷たく吹きつける「北(風)」との取り合わせから成る句である。なぜ行方知れずとなったのか。一家挙げての離農も考えられるが、まず想起したのは出稼ぎに行った男の失踪である。

 かつて、雪に閉ざされる寒冷地の農閑期で、出稼ぎは不可欠だった。そうしなければ、生活が成り立たなかったからである。だが、出稼ぎにはやるせない思いがどうしても付きまとう。家族を置いて都会に働きにいく男たち。一方、農村に残された家族たち。どちらも辛く長い冬を過ごさなければならなかった。また、出稼ぎが契機となって人生が狂い始め、家族の崩壊や離散につながることもあった(注)し、そうした事態が社会問題化したこともある。「出稼ぎがなくても雪国で暮らせるように」と日本列島改造論を唱え、地方での公共事業を大幅に増やしたのは、やはり雪国出身の田中角栄である。

 そうした大盤振る舞いの甲斐もあり、出稼ぎは徐々に姿を消していったという。だが、千空の暮らした津軽地方ではまだ出稼ぎは続いていたのだろう。千空の後の句集には、次のような句もある。

 もの言へば出稼ぎのお父(ど)冬帽子   「白光」

 津軽から出稼ぎが消えたのはいつの頃だったのだろうか。


(注)こうした題材を採り上げた例として、同じ青森県出身の作家三浦哲郎の小説「夜の哀しみ」が挙げられる。



●―14 中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】45.46.47.48/吉村毬子

2014年9月19日金曜日


45 絡み藻に三日生きたる膝がしら

 前回にも「絡み」の句があった。

 41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く

 41.は髪に絡んだ鐘の音であり、今回の句は、膝がしらに絡んだ藻である。「絡み藻」は、その形状から抜けた女の髪を思わせるので、仮に、41の続編だとすると、鐘の音の絡みついた髪が「膝がしら」に3日間絡んでいるということになる。その状況だけで充分怪談めいているのだが、それだけではない。「に」の格助詞が句意を怪しくさせているのである。助詞が「の」であれば、「絡み藻」は3日経つと「膝がしら」から離れたことになるが、「に」によって、「三日生きたる」は「膝がしら」に掛かってくる。3日経つと「膝がしら」が死んでしまうような読みも浮上してくる。「絡み藻には」と理解し、前者の解釈も成り立つが、「絡み藻」によって、3日間だけ生きた「膝がしら」は、たとえその後死んでいなくとも、生き生きとしていない状態、死んだような状態であることになる。「膝がしら」にとって「絡み藻」は、3日であっても生きた証なのである。「絡み藻」が髪に象徴される女であり、「膝がしら」が男のものであるとすると、艶かしい話となるが、「絡み藻」が女の髪のみであるので、成仏しない女の怨念が絡みつく「水妖」の世界ともとれる。

 もう一漕ぎ 義足の指に藻を噛ませ      鷹女『羊歯地獄』

 三橋鷹女の句は「義足の指」である。生の足ではなくなった「義足の指」に「藻を噛ませ」ているのである。上五の「もう一漕ぎ」は、その後に一字空白があるけれども、義足の主の動作であろう。鷹女は、義足になった不自由な足でも「もう一漕ぎ」と自身を奮い立たせる。この句を所収する句集『羊歯地獄』の「自序」を思い出さずにはおられない。

  (前略)一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である

      一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ

      一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に

      『生きて 書け―』と心を励ます

 「自序」で誓った言葉そのものの如き一句であるが、苑子の句との共通点がある。それは「藻」の力である。鷹女は、「指に藻を噛ませ」勢い立つ。苑子は、「膝がしら」に「藻」を絡ませ、3日の生命を与える。そして、二人が尊敬する先達の女流俳人、杉田久女も「藻」の力を信じていたようである。

  春潮に流るる藻あり矢の如く       久女『久女句集』

 久女の句は、上五中七の平凡で控えめな表現から、下五の「矢の如く」は意表を突く。当時の女流俳人の多くは、台所俳句と呼ばれる類に傾注していた。(そんな中にあって、〈短夜や乳責り泣く子を須可捨焉乎(ステッチマオカ)〉を発表した竹下しづの女も異才を放ち、久女も「花衣」で取り上げている。)久女の句は、昭和4~10年の間の作品であり、自ら創刊し、僅か5号で、昭和7年に廃刊してしまった「花衣」時代に該当するため、久女が俳句に最も奮起していた頃の作品である。「矢」のごとき「藻」は自分自身であろう。〈久女よ。自らの足もとをたゞ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも魂に宝石をちりばめよ。〉の辞を掲げ創刊した頃なのか、〈私もまだへ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事情をも、も少し忠実にして見たく存じて居ります。〉と廃刊の辞を述べた頃なのかは判然としないが、久女は、「花衣」廃刊後も俳誌「かりたご」(清原枴道主宰、朝鮮釜山発行)の女性雑詠選者を続けており、昭和8年9月号の文章を抜粋してみる。 

いつ迄も無自覚に類型的な内容表現にのみ安心してゐるべきではなく、漫然と男性に模倣追従してゐるばかりでは駄目だと思ひます。女流という自覚の上に立って、自らのよき句境涯をきりひらいてゆく努力勉強がぜひ必要です。

 久女の句が「花衣」廃刊の頃の作品で〈春潮に流されてしまう藻〉を詠んだとしても、その「藻」は「矢の如く」流れの先へ直進していくのである。しかしながら、「花衣」廃刊の辞が、たとえ語られる通りであれ、久女ほどの向日性を以てしても、女性が一誌を発行し続けることは難しかったのだ。

 昭和29年、8名の発起人(加藤知世子・鈴木真砂女・池上不二子・桂信子・細見綾子・横山房子・野澤節子・殿村菟絲子)によって創刊された超結社誌「女性俳句」の創刊理由は、家を空けることのできない全国の女流俳人達の勉強会と懇親のためであったと、創刊後ほどなく入会した苑子から聴いた。平成4年に入会した私は、その時初めて女流俳句の歴史というものを考えた。家事も便利になり、交通機関の発達とともに女性が全国どこへでも出掛けられる時代になり、女性の社会進出とともに、本来の目的のひとつを果たせられたことも終刊(平成11年)の理由であったらしい。

 冒頭に述べたように「藻」は、女の髪に似ている。日輪の日射しを透かして水中にゆらゆらと泳ぐ様は、美しく優雅でさえある。そして、藻刈りをしなければならないほど繁茂する生命力をも持つ。嫋やかで強靭ともいえる「藻」に、自身をなぞらえて女流俳人は詠う。

 久女は凛然と、鷹女は剛直に、そして苑子は妖艶な深い撓りを持って……。

  くらがりに藻の匂ひして生身魂     苑子『花隠れ』吟遊以後


46 くびられて山鴉天下真赤なり

 あれは、5年前の苑子の忌日(1月5日)のことである。私は、俳人の連れ合いと冨士霊園へ墓参し、墓を立ち去ろうとした時である。私達二人の頭上をすれすれに大きな鴉が行き過ぎた。苑子と重信の墓碑に俳句の精進を誓った直後なだけに、二人の遣いとして、我らの頭上でバサバサと羽音をたてたのではないかと、一羽の鴉が寒風の真冬の空に去ってゆくのを放心状態で視つめていたのである。

 苑子は、鴉が好きだったような気がする。鴉の濡羽色の美しさを語り合ったことがある。彼女はその狡猾さもしきりに語っていたが、嫌悪感というよりも、頭の良さが不思議でならないと言った表情がひどく印象に残っている。

 3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと     『水妖詞館』 

 6.鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ        〃 

   鴉らよわれも暮色の杉木立      『四季物語』 

   羊歯刈るや羽づかひ荒き山鴉     『花隠れ』「春燈」時代 

(『四季物語』にも所収)

 苑子の鴉の句を掲げてみた。1、2句目は、すでに鑑賞済みのものである。俳句は、物に自己投影する手法が多く摂られるが、苑子の「鴉」は他者であるようだ。しかし、1句目の「鴉らと」や、3句目の「鴉らよわれも」の表記から、同志的なものを感じているようである。「陽の裏へ」翔ち(2句目)、「羽づかひ荒き」(4句目)鴉らに好奇心を持って凝視している様子が伺える。

 苑子は、『四季物語』(昭和54年)刊行以後、「鴉」の句を発表していない。(『四季物語』には、もう一句〈空谿(からだに)を鈍な鴉が啼きわたる〉がある)。『花隠れ』所収の句も「春燈時代」と記されている。高柳重信が長逝したのは昭和58年である。以前〈3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと〉の鑑賞で、


 私には、「鴉」らが、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが……。


と書いた。「鴉」もまた、重信ではないかとの憶測が私にはある。手元にある句会での資料(私が指導を受けていた平成3年~没年の前年12年迄であるが)を探ると、平成7年2月5日東京、駒込の「六義園吟行句会」に出句した〈雪の園人恋ふごとく鴉啼き 苑子〉の一句があるのみである。「園」が「苑」であり、名園の雪の中の苑子に「鴉」の重信が啼いているのか――。

  喪を終へて喪へ生涯の鴉らと   鷹女『羊歯地獄』

 下五が、「鴉らと」置かれ、苑子のように鴉を同志として扱った三橋鷹女の句であるが、上五中七が鷹女らしく意味深長である。この句は、昭和33年に書かれているが、その年「薔薇」を発展的に解消した同人誌「俳句評論」が創刊された。鷹女は、昭和28年に高柳重信に誘われて「薔薇」の同人になっていた。(昭和15年「紺」を退会して以来の俳誌参加であった。)在籍8年の「春燈」を辞して、高柳重信とともに発行所を立ちあげた苑子は勿論であるが、鷹女にとってもまた、新たなる俳句道への覚悟の気持ちの引き締めがあった筈である。

 「喪を終へて」は、前年母を亡くしたことや、10年余りも時を経た終戦なども考えられるが、その次の「喪へ」と続くことで、「喪」は俳句を指しているのではないか。俳句革新を懸けた気鋭の仲間達と茨の道を進んで行くことが、「喪へ生涯の鴉らと」に込められていると思われて仕方がない。句集に収められた次の句もまた感慨深い。

  濤狂ふ濤のゆくてに渚無く    鷹女『羊歯地獄』

 さて、苑子の掲句であるが、他の鴉の句に比べると唯事ではない事が起こっている。以前〈36.狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる〉は自らの手で鸚鵡をくびる句であったが、今回は、山鴉が「くびられて」いるのを見ているのである。人は、自分が無惨な行為に堕ちていっている時は、無我夢中であるが、見る側に立った場合、沈着冷静なだけにその無惨さに恐れをなすことがある。「天下真赤なり」という状況はその色彩から鮮血さえもイメージすることができよう。一日が終わる時刻、日輪は沈み、西天を、天が下を血の色に染め上げる。くびられた鴉が西方浄土を彷彿とさせる真赤な西の空にうなだれているのか――。「なり」の言い切りが、客観的な語法を強めながら、山鴉と山鴉を包み囲む山々の黒さと、真赤な夕焼けのコントラストによる、鮮やかな色彩を、非情な美しさとして浮かびあがらせてくるのである。

 因みに女流俳人の「鴉・烏の句」を拾ってみた。

  人を人と思はぬ浜の寒鴉          鈴木真砂女 

  低く飛ぶ寒鴉敵なく味方なし        津田清子 

  塔古るぶ気触れの烏棲みつきぬ       福田葉子 

  万のこと恃みし愚か梅雨鴉         稲垣きくの 

  熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに       橋本多佳子

 水鳥や鶯、雲雀などよりも、鴉の声と姿は敬遠される特異な存在なのではないか。

 自己の心情を詠う句にも、鴉は独特の位置を占めているようだ。真砂女の境涯、清子の個性、葉子の幻妖さ、きくのの人生等を感得できる。多佳子の句は、没年の昭和38年(64歳)のものであるが、衰えゆく身体と精神を見据えて吐露した呟きが鬼気迫る。

 歴代の有季定型作品には、生活の一端や背景を描く作品が見受けられたが、情緒のある美しい作品を掲げてみる。

   初雪や鴉の色の狂ふほど          加賀千代女 

   身を透明に春の鴉が歩き出す        柴田白葉女

 江戸時代、各務支考に師事し、画も熟(こな)す千代女ならではの黒い鴉と、一面の雪景色の純白が、鴉の濡羽色を狂うほどに際立たせている。白葉女の句の、「透明に」は、「春の鴉」が見事に設えられていて繊細な明るさが醸し出されている。

 柴田白葉女は、いわれなき不幸な殺人事件で非業の死を遂げている(昭和59年、77歳)。江戸時代、一般女性には遠かった俳句を千代女や遊女・歌川らが残し、近代の久女やしずの女、4Tたちが切り開き、継承され花開いた現代女性俳句の歴史に残されたこの奇怪な事件は、誠に悲しむべきことである。(栗林浩著『新・俳人探訪』で詳細に記されている。)前回記述した「女性俳句」や「俳句女園」を創刊し、女流俳句の発展に努めた、名の知れ渡った女性であるが故に起こった事件なのである。この21世紀は、女であることが芸術の妨げにならないことを祈るのみである。それはきっと、先達の願いでもある筈だ。

   落日の巨眼の中に凍てし鴉          赤黄男

 冒頭の5年前の苑子・重信の墓参の際の鴉は、その後の苑子忌の墓参の折り再びは訪れてはくれない。一度、7月8日の重信忌に行ってみようかなどと思っている。あの鴉の濡羽色が夏富士ともよく似合いそうである。


47 船霊や風吹けば来る漢たち

   男らの汚れるまへの祭足袋         飯島晴子『寒晴』

 御輿は男性が担ぐものである。(近年は女性の担ぐ姿も見られるが)船も、女性が乗ると海が荒れたりするとして、忌む傾向がある。それは、船霊が女の神とされるからである。漁民の大漁や航海の安全などを願い、男女一対の人形、女の髪、櫛、簪、銭、さいころ、五穀などを船に奉納するが、女の髪が一番古くから伝わっていると云う説がある。命懸けの航海に家族の形見として持って行くという意味もあるらしい。

 前回、〈41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く〉、〈45.絡み藻に三日生きたる膝がしら〉では、女の髪の妖艶さに関連付けたが、今回の、神事の髪は男たちが崇めるものであろう。

 晴子は、神体や御(お)霊(み)代(しろ)が乗るとされる、御輿を担ぐ前の男達の溌溂とした姿を「足袋」に託し、清々しい男の色気を詠んでいるが、苑子は、航海から帰らなかった男達の静寂且つ清爽な御霊を詠っているようである。中七「風吹けば来る」の寂寥感が、〈28.放蕩や水の上ゆく風の音〉を彷彿とさせる。

 航海の前に、神仏を「船霊」に奉ると、海風に乗って現れる「漢たち」。漁に出掛け、遭難し波に消えた「漢たち」や、戦争の犠牲となり海に散った「漢たち」が、海に囲まれたこの小さな島国を、女たちを、懐しみふわりとやって来るのだ。女の神である「船霊」が、大らかな風にのせて手招いているような神話性があり、御霊を詠んでいるのに妖しさは感じられず、子守唄のような調べさえ持つ。

 高柳重信の句集『日本海軍』もまた、海に散った軍艦やその地名を歌枕として、日本の地霊を悼み、慈しんだ男の子守唄の如き、多行形式の詩である。


        一夜

   二夜と

   三笠やさしき

   魂しづめ             


   夜をこめて

   哭く

   言霊の

   金剛よ


   海彦も

   疊を泳ぐ

   嗚乎

        高千穂

高柳重信『日本海軍』昭和54年(56歳)


 巻末に随筆「富士と高千穂」を加え、〈昭和の子供〉について自身の体験や思を語っているこの句集は、刊行当時、「戦場へ行った者には(とても)書けない(はずだ)。」という意見もあったと聞く。それならば、胸部疾患のため、戦場へ行けなかったからこそ、まとめあげられた、重信晩年の入魂の仕事だったのではないだろうか。(昭和58年没、60歳)

   戦争と女はべつでありたくなし          藤木清子 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ            〃 

   黙禱のしづけさ空にとりまかれ            〃

 藤木清子は伝説の俳人である。生年、出身地も不明である。昭和8年に藤木水南女名で「蘆火」(後藤夜半主宰)に投句し始め、同誌終刊後、「天の川」「京大俳句」などに出句。昭和10年創刊の「旗艦」(日野草城主宰)へ参加し、新興俳句最初の女性として同誌同人となる。昭和15年10月号を最後として俳句から身を引き、その後は不明である。

 3句とも、戦争を詠んでいるものであるが、昭和15年が最後の投句であるため、昭和16年の太平洋戦争開戦から昭和20年の終戦、そして戦後も清子が無事であったならば、掲句の3句よりも過酷な情況にあった訳である。清子は、俳句を書くことを本当に辞めてしまったのだろうか。詩人は、窮極の果て、魂の叫びを詠うものである。富澤赤黄男のように戦場での慟哭や哀絶は綴りようもないが、1句目の毅然とした覚悟、2句目の冷静な怒り、3句目からは、哀切の嘆きの詩を書かずにはおられないという思いが痛切に伝わってくる。清子にはたとえ薄汚れた紙片と言えども、一句でも俳句を書き留めておいて欲しかった。反戦的な内容だと周囲の人々に止められたのか、戦時状況の悪化のために、已むを得ない理由があったのか、誰にも解らない事だが、時代は、一人の貴重な俳人をまた一人失ったのである。

 苑子は、戦死した夫の遺品の句帖を手渡されたことが、俳句を始めた切っ掛けとなった。苑子は、生涯、戦争の句を作らなかった。20年近く前の句会でのことである。


   爪噛んで血の出ぬ八月十五日      広美(毬子)


 私の拙い句を何人かが褒めてくれた。しかし、苑子は選句しなかったので、二次会の席でどう修したら良いのか尋ねると、「修すところは無いと思います。でも私は、戦争の句は作りません。あんなに惨めで屈辱的な思いは二度としたくありません。」―― 静かな口調であったがきっぱりと言った。私なりに、祖父母や父母、俳句教室の先輩達から聞いた話や、映画や小説で感じた思いもあったため、私は苑子の言葉に驚き、落胆した。その様子を見て「あなたに作っていけないとは言っていません。書きたいと思えばお書きなさい。」と笑顔で言ったのであった。現金な私は、(若気の至りである)「はい。作り続けます。私たちの世代が伝えなければならないと思います。」と元気に答えたのである。しかし、その後8月が来るたびに慎重にならざるを得なかった。少なくともこのやり取りが、私に、簡単には戦争の句を作らせない結果となったのである。苑子が選ばなかった拙句は、戦争を知らない世代のひとりよがりで曖昧なだけの句であった。

 苑子は戦争にこだわらず、直接的な表現ではない、もっと遥かな人間愛としての鎮魂詩を書けと教えてくれたような気がする。

 今回の句を、子守唄のようであると先述したが、苑子が女の神である「船霊」となり、遠い処から「漢たち」が引き寄せられて来るような爽やかな艶をも持つ。いつかは、この心境に近付きたいと思っているのだが……。

 研ぎ澄まされた才能を持った藤木清子を女流俳句が失ってしまったことを、さらに、現代の女流俳句をともに築きあげてきた飯島晴子(大正10年生まれ)の自死(平成12年6月、79歳)を無念だと語っていた。平成12年7月の句会後、「吉村さん、私は自死はしないわ。」と呟いてから半年後(平成13年1月、87才)苑子は静かに永眠した。

   しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ           清子 

   白き蛾のゐる一隅へときどきゆく            晴子『蕨手』 

   白地着て己れよりして霞むかな             苑子『花狩』

 

48 はるばると島を発ちゆく花盥

 「花盥」とは美しい言葉であるが、上五中七から受ければ盥舟に花が散り降る中、島を発つということであろうか。盥舟といえば、佐渡ヶ島が有名であるが、佐渡ヶ島とともに芭蕉の『奥の細道』に名を残す、結びの地、〈蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ〉と詠われた岐阜の大垣でも観光のひとつになっているそうだ。

荒海や佐渡によこたふ天河               松尾芭蕉『奥の細道』

 芭蕉が、出雲崎から眺めた佐渡を「海の面ほの暗く、島の形彩雲に見え」と感動し、順徳天皇、日蓮上人、世阿弥など遠流された人たちを思い浮かべ、悲痛な流人の境涯として、佐渡の歴史への回想を込めて詠まれた。

 苑子の戦死した新聞記者の夫は、佐渡出身である。以前も、

   22.行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨

の回で、苑子が佐渡の歴史や文化を愛していたことを書いたが、今回の句に佐渡情話を思い浮かべたのである。佐渡情話は、佐渡おけさを基に浪曲師寿々木米若が脚色し、口演したレコードが売れて有名になった。佐渡の漁師の娘お弁は、越後国柏崎の船大工藤吉と恋仲になったが、佐渡での仕事を終えた藤吉が柏崎へ帰ると、お弁は盥舟に乗って逢いに通った。妻子のある藤吉は、煩わしくなり、お弁の目印にしている常夜灯を消してしまい、お弁は波にのまれ翌朝柏崎の浜に打ち上げられていた。藤吉は罪の深さに自身も海に身を投げて後を追うという話である。

 「花盥」と「はるばると」に、花の盛りの華やかさと春の伸びやかな海と空を思い描く。前句〈47.船霊や風吹けば来る漢たち〉は、海から「来る漢たち」であったが、今回は、「発ちゆく花盥」に女を乗せている様子がうかがえる。満開の花の下、盥舟も女も春陽に舞う花片を浴びながら、島を発つのである。旅人であろうか。「瀬戸の花嫁」という流行歌があったが、佐渡の花嫁なら尚、艶(あで)やかである。佐渡情話のお弁が、花嫁の如き心情で藤吉の元へ毎晩通いつめているその情景こそ、掲句に適うものであろう。お弁は愛しい人へ逢うために「はるばると島を発ちゆく」のだ。小さな盥舟に、小さな己が身と溢れる恋情を乗せて、やがて散りゆく花の中を――。

   濠の菱舟むかしむかしの音きします     加藤知世子『太麻由良』

 佐渡ヶ島を有する新潟県出身の俳人、加藤知世子は、加藤楸邨の妻である。昭和4年、楸邨と結婚後、ともに「馬酔花」で水原秋桜子の選を受け、15年楸邨が「寒雷」を創刊し、同人となる。昭和29年創刊の「女性俳句」発起人の一人である。(明治42年生、昭和61年没、76歳)

   横顔の夫と柱が夕焼けて        知世子『冬萠』 

   稲光り男怒りて額美し            〃   〃 

   夏痩せ始まる夜は「お母さん」売切です    〃 『朱鷺』 

   夫婦友なる刻香りけり机上の柚子       〃 『太麻由良』 

   めをと鳰玉のごとくに身を流す        〃 『菱たがへ』

 夫婦ともに俳人の家庭は、苑子も同じであった。(重信と苑子は入籍はしていなかったが)苑子の場合は、寡婦となってからの後半生25年間をともにしたが、知世子は56年間である。知世子の作品から夫や子を詠んだ句を拾ってみた。2句目は夫とは表記されていないが、同句集に〈怒ることに追はれて夫に夏痩せなし〉があるので楸邨のことであろう。楸邨は怒りっぽかったのだろうか。その2句目の下五「額美し」や、4句目の「夫婦友なる刻」の様子、5句目の瑞々しさ溢れる情愛など、夫婦俳人のひとつの典型が見受けられる。

 苑子は、知世子を慕っていたようであった。私が「女性俳句」へ入会した頃は知世子は亡くなっていたが、その貢献ぶりをよく語っていた。山梨県甲府に「中村苑子俳句教室」で旅吟した際、小淵沢の「加藤楸邨記念館」(平成13年に閉館、資料等は埼玉県桶川市の「さいたま文学館」に引き取られた。)へ足を延ばし、夫婦句碑の知世子の碑を撫でては感慨深げであった。

   落葉松はいつ目ざめても雪降りをり        楸邨 

   寄るや冷えすさるやほのと夢たがへ        知世子

 苑子が「女性俳句」の懇親会で私を紹介してくれた女流俳人がいる。上品で美しいその姿について話す私に苑子も笑顔で相槌を打った。その人は、知世子とともに「女性俳句」創刊時の発起人の一人である、福岡県小倉市出身の横山房子であった。(大正4年生、平成19年没、92歳)

   夕顔の闇よりくらき蚊帳に入る          房子『背後』

 横山房子も夫婦ともに俳人である。房子は昭和10年より「天の川」に投句。吉岡禪寺洞に師事。12年、横山白虹主宰の「自鳴鐘」創刊同人。13年にら白虹と結婚。33年、山口誓子の「天狼」に白虹とともに同人参加。58年、白虹没後「自鳴鐘」主宰継承。

   客たちて主婦にあまたの蚊喰鳥          房子『背後』 

   秋燕駅の時計を子に読ます             〃  〃 

   夫の咳やまず薔薇喰ふ虫憎む            〃 『侶行』 

   夕顔の数の吉兆夫に秘す              〃  〃 

   枯芝に柩の夫を連れ還る              〃 『一揖』

 房子の家族の句も引いてみた。3、4句目の夫を思いやる句々を読むほどに、5句目の夫の死の悲しみが静かに伝わってくる。房子も白虹との夫婦句碑が建立されている。

   梅寂し人を笑はせるときも               白虹 

   欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲                房子

 俳人同志の夫婦であり、夫が主宰誌を持つという事の苦労は計り知れない。夫を理解し、夫を立て、客人のお世話をする。主宰誌の同人への気遣いも勿論あったであろう。しかし、家庭の主婦、母としての役目もある。そして何よりも自身の俳人としての仕事がある。知世子も房子も、女流俳句の発展のために「女性俳句」を他の6名の俳人と設立もした。俳句とは無縁の日常生活においては、著名な女流俳人といえど、「○○さんの奥さん」と、ご主人の名で呼ばれることが多い。夫の知名度が高かったとしても、知世子、房子、苑子は、自らの作品が世に出ても、相変わらず「奥さん」と呼ばれることがあったであろう。それでも笑顔で皆にお辞儀を繰り返す日々、心の芯は常に折らずにしっかりと張りつめていたはずだ。苑子が二人に特別な好意を持っていた(ように私には思えた)のは、半世紀に渡り、蔭になり日向になり夫を支えながら、女流俳人としても一家を成した二人に、尊敬に価するものがあったからであろう。

   初泣きや二階の我を夫知らず            知世子『頬杖』 

   白菊や暗闇にても帯むすぶ              〃 『朱鷺』 

   納骨のあとの渇きに蟻地獄             房子『一揖』 

   声出して己はげます石蕗の花             〃  〃

  佐渡へ遠流された世阿弥の『風姿花伝』に、

   家、家にあらず。次ぐをもて家とす。

とある。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだと世阿弥は云う。縁者として主宰誌を継ぐ苑子や房子に残されたものの大きさは、その運命に立たされた者にしか解らない。房子は白虹亡き後の「自鳴鐘」主宰を継承した。苑子は重信亡き後、「俳句評論」を200号まで存続させ、終刊した。苑子に「俳句評論」時代の話は時折り聴いたが、その事については一言も語らなかった。加藤知世子、野澤節子が天上で見守る「女性俳句」は、現代女流俳人に様々な奇跡と軌跡を残し、さらなる女流俳人の躍進を誓い合い、平成11年その幕を閉じた。天上の苑子も房子も終刊の際の中心的存在であった。


 世阿弥の『風姿花伝』を再度引く。

   秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。

 花は一年中咲いておらず、咲くべきときを知っている。能役者も時と場を心得て、観客が最も花を求めている時に咲かねばならない、と説いている。

 前述したように、今回の掲句は佐渡情話のお弁によせる「花盥」の悲愛へと趣いてしまったのである。お弁をのせた盥舟は、水草のように揺れながら、命短かい花散る中を沖へ沖へと小さくなって行く。お弁は、花の咲くべき時を知り、藤吉への愛を貫いたのだろうか―。

   野は雪解越後女は荷が多き               知世子『夢たがへ』 

   追憶の淵へは行かず螢飛ぶ               房子『一揖』 

   風落ちて水尾それぞれに月の鴨             苑子『吟遊』