★ー3 高柳重信の風景8 後藤よしみ
八 終章
本連載では、高柳重信の句業における「風景」の概念に着目し、作品の変遷を追ってきた。敗戦後、従来の俳句概念を打ち破り、多行形式による新たな表現を切り拓いた重信の軌跡は、西洋的な象徴主義(『蕗子』『伯爵領』)から、日本的な言霊と呪術の思想(『山海集』『日本海軍』)へと、作風と形式を劇的に転換させた点に特徴づけられる。この大きな転換を駆動した力の源泉こそ、重信が向き合い、そして遊戯的に再構築した風景であった。
㈠ 規範化された風景への遊戯的な対応
重信が生きた戦中・戦後の時代は、風景が二重の意味で規範化に晒されていた。一つは、志賀重昂の『日本風景論』に端を発し、近代国家が精神的な国土を措定するナショナル・アイデンティティとしての規範的な風景である(第二章)。もう一つは、桑原武夫の「第二芸術」論をはじめ、俳壇内部からも突きつけられた形式・美学の規範である(第五章)。
重信は、これらの重圧的な規範化に対し、巧みな「遊戯」性をもって対応した。初期の多行形式による視覚的な「カリグラム」は、五七五という定型の形式的規範を打ち破る、大胆な「遊び」であった(第六章)。
森 森 の 奥 の
の 夜 夜 の
更 け の * 雪 の お く の
拝 眞 紅
火 の 彌 撒 の ま ん じ
に
身 を 焼
く 彩
蛾 『伯爵領』
さらに、関東大震災と戦災により物理的に喪失した小石川の原風景(第三章)の代償として、詩人の想像力のみで架空の自治領『伯爵領』を創設した。これは、国家による国土の上からの「図式化」という空間的規範に対し、個人の詩的意志が仮構された空間を置くという下からの主体的な応答であった。
遂に
谷間に
見いだされたる
桃色花火 『伯爵領』
この遊戯的な構築は、後期の『日本海軍』においてさらに進展させ、挑戦的な局面を迎える(第七章)。軍艦の艦名や地名という、かつての皇国史観と結びつくモチーフをあえて取り上げながら、それをパロディ(松島句)や、少年期の私的な愛着(日本海軍の組み写真)を基盤とする「遊戯的な構築」の題材に組み替えた。そのことにより、重信は公的な歴史の規範から切り離された詩的言説として、自己の深層にあった「日本的なるもの」を「図と地」の反転のように表象することに成功したのである。
㈡ 原風景への転回と多様性の確保
遊戯性をもって規範化の圧力を相対化し、形式の限界という課題に直面していた重信に、新たな道筋をつけたのは、一九六五年、宿痾の悪化による入院期の風景の再発見であった(第六章)。日光・筑波の山々との対話は、少年期の眺望体験を再生させ、自己の内省と遡行を促した。このとき、風景は、単なる外界の眺めから、個人の精神と歴史的な古層が繋がる場へと転回したのである。この転回は、それまでの象徴主義から日本的なるものへの反転であり、いわば「図と地」の反転のようであった。
この転回は、一九七一年の飛騨行で結実する。重信は飛騨の地に、日本的なるものの根源としての言霊や呪術を見出し、風景を神霊の依代と捉えた。ここで生まれた「飛騨十句」は、ゲオルク・ジンメルのいう「感情的統一」や、ニコルソンのいう「崇高」の美学を、日本的な文脈で達成している(第七章)。
みことかな みことかな みことかな
「飛驒」 『山海集』
重要なのは、この風景が、重信の詩的伝統における「多様性の確保」の場となった点である。西洋象徴主義の暗喩(心象の連鎖)と、富士谷御杖の言霊倒語論(言葉に宿る力)という、一見相容れない二つの詩的伝統が、飛騨の神話的空間において、「みことかな」の響きと共に統合された。この統合こそが、重信が長年希求してきた、西欧の概念に回収しきれない日本的なるものを、詩として定着させるための道であった。
また、風景の獲得は、戦後の象徴主義により姿を消していた「私」(一人称)の再浮上を許容した(第六章)。
天に代りて 目醒め
死にに行く * がちなる
わが名 わが尽忠は
橘周太かな 俳句かな 『山海集』
規範から解放された風景は、重信の深層に沈んでいた死の体験、父母への思い(『遠耳父母』)といった私的な記憶を再び詩的言説の核として機能させ、内面の真実を語る主体を回復させたのである。一行形式の山川蟬夫作品にも、その系譜は見て取れる。
㈢ 創造性のトリガーとしての風景
高柳重信の句業を総括すれば、そこで獲得された風景は、単に自然を写し取ったものではなく、喪失を抱え、規範に抗い、遊戯によって解体され、内省によって再構築された多層的な心象の場であった。
この風景の獲得こそが、多行形式の実験が行き詰まりを見せていた重信に対し、四行形式・総ルビという新たな形式と、言霊・地霊に満ちた新たな内容をもたらし、重信後期の創造性のトリガーとなった。
高柳重信の全生涯は、風景をめぐる個人の精神の抵抗と創造の軌跡であった。彼は、外界の風景の深部に潜む詩的契機を逃さず掴み、それを遊戯と呪術という詩的な行為によって、創造の磁場へと転回させる実践者であった。高柳重信の残した風景は、今もなお、私たちに、失われたものこそが創造の源泉となるということを示している。
★―7:藤木清子を読む5/村山恭子
5 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ③
夫病みて十年めぐりぬ秋の蚊帳 京大俳句10月
夫が病んで十年になりました。〈めぐりぬ〉から十年の間に起こった様々な出来事が想い起こされます。また〈秋の蚊帳〉で休んでいる夫は、長年の闘病からやつれており、その姿を見つめる眼差しは、やさしくもあり冷ややかでもあります。
季語=秋の蚊帳(秋)
心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり 同
〈心の瞳〉とは普段は隠している、自身の心眼です。物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きを表し、〈幾夜〉も砥ぎ澄ましてきました。夜の静寂の中、身ほとりについて深く考え、また内観する姿が、虫の音と呼応しています。
季語=虫鳴く(秋)
夫かなし野鳥鳴く音にさへ怯え 同
〈かなし〉は「悲しい」と「愛おしい」の二つの感情を併せ持った言葉です。自分の手ではどうしようもない状態に堪えて、野鳥の鳴く音に怯える夫の姿は、みじめでもあり、守り続けたい存在でもあります。
季語=無季
初秋よし静脈透きて脈搏つよ 旗艦11号・11月
秋の初めの頃は、暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配が感じられます。
〈初秋〉はよいと言い切り、青い静脈が透いて見える白い手首をしっとりと見つめています。また〈脈博つよ〉に命の鼓動を感じます。
季語=初秋(秋)
初秋よしオークル色のわが肢体 同
〈オークル〉はフランス語で「黄土」を意味し、黄みと赤みのバランスのとれた肌色です。〈オークル〉の長音が視覚と聴覚により、手足と身体の伸びやかや様子を表します。
秋の気配を感じながら、自身の肢体を賛美しています。
季語=初秋(秋)
秋讃へミレーの落穂わが拾ふ 同
秋を優れたものとして心からほめています。
ミレーの『落穂拾い』のように農作業をしている実景とも取れますが、〈わが拾ふ〉から内面性が感じられ、貧しくとも生存していく清廉さ、美しさがあります。
季語=秋(秋)