2025年10月10日金曜日

【連載】現代評論研究:第16回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会➂ 仲寒蝉編

(筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉、コメント:堀本吟)

投稿日:2011年11月25日


3.戦後の政治と遷子について


 筑紫は〈東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった〉、〈東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない〉が〈取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない〉と述べる。

 その上でこうした政治的不満が自然へ目を向けることにつながり、〈開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだった〉と考える。

 は「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」が端的に表すように〈誠実な良識的知識人〉であったと言う。

 中西は遷子には政治の句が少なく、それらは『雪嶺』に集中していると言う。例句として次の句を挙げる。

 人の言ふ反革命や冬深む(昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判)

 誰がための権力政治黒南風す

 夏痩の身に怒り溜め怒り溜め

 会議陳情酒席いくたび二月過ぐ

 三句目は昭和35年5月19日の強行採決以後ますます激しくなった岸内閣への批判や安保反対デモの様子を連日のように伝えるマスコミの報道に基くのではないかと推測する。しかし遷子の怒りは〈あくまでも一般的な受け止め方だと思う〉と述べる。また四句目を〈遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句〉として挙げる。

 深谷は「ストーブや革命を怖れ保守を憎み」など多少の政治的言辞を含んだ作品もあるが〈ごく常識的な感覚〉であり、〈特定のイデオロギーに傾いた様子は見受けられない〉と言う。

 また〈税務署に対するやや皮肉めいた視点、あるいは核実験や「プラハの春」鎮圧に対する怒りは、やはりヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と考える。

 は政治についての句は『雪嶺』に多く〈選挙や核実験、果てはプラハの春を蹂躙したソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車まで詠んでいる〉が〈核実験を愁い、戦争が終わって欲しい(ベトナム戦争の頃)と願う気持ちは通常の市民感情の域を出るものではない〉と言う。「人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む」には定家の「紅旗征戎わが事にあらず」に通じるものを読み取る。

 ただ東西冷戦の最も激しい時代に詠まれた「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を〈遷子にしては珍しく己の政治観を表明した句〉とし〈革命は困る、しかし保守にもまた与しない。つまりリベラル派というか良識ある一知識人として中立を守るという姿勢が読み取れる〉と言う。〈但し語調の激しさから単なる日和見ではなく積極的中立とでも言える立場〉と読む。


まとめ

 全員に共通した認識として、遷子には『雪嶺』を中心に政治的な出来事や世界史的事件に触れた句が見られるものの特定のイデオロギーに傾いたものではなく知識人としての良識、一般市民の感覚の範囲を出るものではなかった。また複数の人が「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を彼の中立的な立場の証左として挙げる。

 ただ筑紫はこのような〈開業医としての社会的意識とリリシズム〉が大切であったと述べ、深谷は〈ヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と判断する。


コメント

堀本 吟:『相馬遷子 佐久の星』は、相馬遷子に関する殆ど初めての集中的な読書会記録(らしい)。らしいというのは、私は「馬酔木」圏内のこれまでの動きについては、殆ど知ることがなく、多少関心は持ってもその知識は教養以上のものではなかったからである。で、さきごろのウェブ「俳句空間—豈—weekly」でほとんどはじめて目にとめたのである。その全体的感想を先ず記しておく。

 ただし、水原秋桜子と「馬酔木」への私の関心が高まったのは、すでに数年前に遡る。角川選書385『12の現代俳人論(下)』(平成19年・角川学芸出版)の筑紫磐井の《水原秋桜子論》がくわわっている。これはさらにさかのぼる雑誌「俳句」誌上にシリーズ連載され、それが集成され同社の刊行で単行本に作り替えられたのだが、筑紫のこの評論は、山口誓子、西東三鬼、篠原鳳作、または高柳重信らに代表される「新興俳句」という運動のもうひとつの読み方を示唆した視点として、私の今回の関わり方にもかなりの影響をあたえている。(といっても全面賛成と言うことでもないが)。

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 しかし、この過程では、筑紫磐井の評文には、まだ、相馬遷子の名もその例句もピックアップされていない。この角川選書の評文は全体としてわたしにいわせると、論者の論の締め方に緩いところがある。大阪で読書会をしていてもそつなくできてはいるがけっきょくは飽きてしまったのであった。が、「水原秋桜子論」は、その中でも読んでいて多少は新たな場所にわれわれの思考を導いてくれるようだった。秋桜子と馬酔木は、ホトトギス独裁からの離脱と言う役割を果たした後は、新興俳句から落ちこぼれていったとされる。だが、そこからはみ出した異端が、例えば山口誓子、高屋窓秋、石田波郷、加藤楸邨、金子兜太たちが作り上げた支流、それが勢いよく俳句活性化をもたらしたのである。筑紫の論調は、その支流の系譜化のような役割があったのではないだろうか?それは、誰かがやるべきことであるが、まだ集大成はなされていないのである。いわば、現代俳壇の土壌たる「結社史論」の整理であった。そのなかで、今回新たに相馬遷子をその支流のひとつであることが、提唱されている。当時の筑紫磐井は位置づけてはいなかったのである。

 筑紫は「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

 この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。【2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?】(筑紫磐井の発言(下線堀本)

とまで言いうるようになったのか、もうすこし強力な立論の過程と根拠がききたかった。

 相馬遷子が魅力的な作家であることは私にも解った。それはこの読書会が誇るべき発見である。しかし。「馬酔木」の美意識を脱したことは、秋桜子の美学に呪縛されてきた馬酔木イズムの雰囲気の中では個人としては重要だが、「きりすてられた社会意識の代表」というように、わざわざここまで持ち上げていいものかどうかは私には疑問だ。こういうカリスマ化が、結社制度の反近代性を等閑視することにもなろう。

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 それから、彼のイデオロギーではない社会意識についてであるが、すでに戦前にこういう例がある。

 私は現在、関西で【京大俳句を読む会】というあつまりにいれてもらって、昭和9年や10年ごろのバックナンバーを逐次読んでいっている。ここでは、山口誓子が、新しい時代の事象を積極的に俳句に読み込む、という提唱が盛んに実践されていて、また誓子が言わなくとも、都市化してゆく現実はおのずから投句の中に現れている。私がレポートを担当した昭和10年8月号では、例えば、こういうのがある  。

 野に遊び子供の肢体汽車となる 山口誓子《青郊思慕》5句・(連作)

 闇そこの白蛾のひゞき壁にせり 清水昇子 《留置場》6句(無季・連作)

 禁断の書(ふみ)よセードの綠光に 岸風三楼《學の感傷—M博士に与ふ》(5句)

(註・「禁断の書」とは、それまで法学上の必読書であった美濃部達吉「天皇機関説」の排撃がおこり、貴族院議員辞職。政府が「国体明徴声明を出した。一連の事件。(昭和10年〜11年)を指していると思われる。「M氏」は、美濃部のことだろう。

 一瞬の孤独地獄の汗つめたし    西東三鬼

 黄に燃ゆる孤独地獄に耳きこえず   同

 西東三鬼は、《株式取引所》《武蔵野》各4句(年風俗と田園にともに「孤独地獄」という内面世界を取り合わせている。全8句の連作)

 古りし靴に風青くどこぞピアノの弾奏 三谷昭《すてられた古靴》(4句自由律)

 疫痢児のうはごとなるを母は知らず 藤後左右 5句

 森に佇つ風癲守に月墜ちよ 平畑靜塔5句   (以上、「京大俳句」第三巻、昭和10年8月号)

 新興俳句の牙城となった京大俳句の同人達のこれらは、いずれも、近代社歌会の現実に直面した題材を真っ向から取り入れている、しかし、これらはだんじて社会イデオロギーではない。かれらはむしろ戦後はイデオロギーをさけている。藤後左右や平畑靜塔は医師として究めて職業的に感性的に俳句的に特異な題材を生活詠として自然に詠んでいる。俳句に於けるイデオロギーと単純な社会意識の分岐点はまだはっきり分析されていない。筑紫の提案はそう言う意味でも過渡的な説として意義がある。

 俳句を始めた頃の相馬遷子がこの「京大俳句」の購読者であったかどうかは私には解らないが、生活が都市化されるし専門職が増えてくるにつれ、このような生活意識が日本人の感性に入り込んできた、山村のエリートであった遷子にもそれを受け入れる感性が芽吹いていたといえるのではないだろうか?

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 が、そのことは、筑紫磐井の相馬遷子発見、と本書の共同研究のありようをを過小評価する理由にはならないのである。

 昭和十年遷子が秋桜子の門下として出発したころは、新興俳句が台頭し俳句弾圧事件でリベラリスト達が弾圧された。また石橋辰之助は。昭和10年に句集『山行』を刊行し、単なる登山俳句ではない、と平畑靜塔の共感ふかい評をもらっている。(「京大俳句」同年8月号)。石橋は都会人であるが、馬酔木同人が「自然の真と藝術の真」と追究してゆくはてには、人間存在の真に行き当たる機会が必ず誰かのうえに生じてくる。そういう秋桜子の俳句思想具体化の過程とも考えてみると、私達の現代俳句にとっても一層意義深いところがあると思う。(この稿了)