2025年10月10日金曜日

【新連載】口語俳句の可能性について・3  金光 舞

  前稿では、市川一男『口語俳句』(1960)を参照し、口語俳句が決して新奇な潮流ではなく、「生活と詩の直結」を目指す理念のもとにすでに理論的基盤を有していたことを示した。口語俳句とは単にくだけた言葉遣いとは違い、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉を俳句という器に定着させる試みであると位置づけた。

 そのうえで、越智友亮『ふつうの未来』より〈すすきです、ところで月が出ていない〉〈草の実や女子とふつうに話せない〉〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉の三句を分析し、伝統的な季語や自然詠の型に口語的なリズムや現代語を重ねることで生まれる表現の新しさを検討した。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉では、「すすき」と「す好き」の音の重なりから、恋の告白を仄めかす二重性を指摘し、理想と現実の落差をそのまま提示することで生まれる欠けの美学を明らかにした。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉では、率直な口語によって青春の不器用さをそのまま俳句の中に定着させた点を評価し、「ふつうに」という語がもたらす日常的リアリティが新たな普遍性を生み出していることを確認した。

 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉では、SNS的スラング「なう」を取り入れることで、俳句の本質である「いま・ここ」の瞬間性を現代語で再定義していることを論じ、俳句が依然として「生きた言葉の実験場」であり得ることを示した。

 これらの分析を通して、口語俳句は「生活」「青春」「SNS」など現代的なリアリティを積極的に取り込み、俳句の瞬間性を新たな表現形式として更新していることを明らかにした。その一方で、言葉の古びやすさや軽さといった危うさも抱えるため、口語俳句を「生きた言葉としての俳句」の延長上に位置づけつつ、その表現の成熟や持続可能性を今後も検討していく必要があることを確認した。


演出として

 次に、髙田祥聖の指摘を踏まえて考えたい。髙田は、1 口語俳句を特徴づけるもののひとつとして「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」を挙げている。


 2由緒書きをさーっと読んで梅の花

 3肩こって気疲れかしら林檎に葉

 4マフラーに顔をうずめる好きと言おう


 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉この一句における最大の焦点は、何といっても中七に置かれる「さーっと」という語にある。由緒書きというのは、寺社や史跡に赴けば必ず目にする解説文であり、そこには歴史的背景や伝承、文化的価値などが丁寧に記されている。本来であれば、参拝者はそれをきちんと読み込み、対象物のありがたみを理解した上で花を鑑賞するのが真面目な態度だとされるだろう。しかし、この句の語り手はそうしない。あえて 「さーっと」と、軽く目を通す程度に読み飛ばしてしまうのである。

 この「さーっと」という副詞の効果は絶大である。もしここが「由緒書きを読んで梅の花」であれば、句は単なる観光記録、あるいは少々事務的なスナップにとどまっただろう。だが「さーっと」という言い回しが入ることで、そこには人物の気配が立ち上がってくる。几帳面に活字を追うのではなく、まぁ大体のことはわかったという軽快な態度。堅苦しいものに縛られず、むしろ今この場の梅の花を早く見たいという衝動が優先している。つまり、この句はただの風景描写ではなく、その場に立つ語り手のキャラクターを直接的に表現しているのである。

 ここで重要なのは、この「キャラクター性の立ち上げ」が、俳句という最小の言語形式の中でいかに鮮やかに行われているか、という点だ。わずか五音の「さーっと」が加わることで、読者は几帳面で理知的な人ではなく、肩肘張らず気楽に物事に向き合う人の声を聞き取る。俳句は十七音の限られた空間の中で景物を描く芸術だが、この句はそれを超えて、まるで小説の人物描写や映画のワンシーンのように人となりを立ち上げてしまうのである。高田が指摘する「言い回しによるキャラクター性の立ち上げ」が、まさにここに端的に示されているのだ。

 このキャラクター性は魅力的である。几帳面に全てを理解してから梅を眺める人物よりも、まあまあ、細かいことはさておき、まずは花を楽しもうという態度の方が、むしろ読者には親しみやすく映る。観光地で由緒書きを熟読するよりも、気楽に眺めてああ、きれいだと感じる方が人間らしい。そうした軽やかさは、むしろ現代的な感性とも響き合っている。つまり「さーっと」という言葉によって、この句の語り手は、几帳面さよりも自由さ、理屈よりも感性を大切にする人物として、鮮やかに読者の前に姿を現すのである。

 そして下五に「梅の花」という典雅な対象が置かれることにより、その軽やかさは決して浅薄なものにとどまらない。由緒や歴史を完璧に理解せずとも、梅は梅として美しく咲いている。その美しさに対して、「さーっと」読み流した人間の眼差しが直に向けられる。ここにあるのは、学知や教養を超えた生の感覚の信頼であり、だからこそ句は爽快で読む者を笑顔にさせる力を持っているのだ。

 要するに、〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉は、由緒ある場を訪れた人間の性格の断片を、たった一語の副詞によって浮かび上がらせるという離れ業を成し遂げている。俳句が景物の描写だけでなく、語り手のキャラクターをも描きうることを、これほど見事に示した句は少ないだろう。そのキャラクターは几帳面さとは無縁であり、むしろ気楽で軽やか、どこかユーモラスで人間味に満ちている。読者はそこに共感し、好ましさを感じ、そして自分も同じように、つい由緒書きを読み飛ばしてしまうかもしれないと微笑むのである。この句は、言葉ひとつで人が立ち上がるという俳句表現の可能性を力強く証明しているのである。


 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉この一句で先ず注目すべきは、中七の「気疲れかしら」である。上五の「肩こって」だけであれば、それは単なる身体の状態の描写にとどまる。肩が凝っている、というのは誰にでも起こる日常的な感覚であり、俳句として取り立てるほどのことではない、とも思える。しかしそこに「気疲れかしら」という言葉が添えられることで、句は一気に人の声を帯びるのだ。

 この「かしら」という終助詞による断定を避け、どこか独白的で柔らかなニュアンスを湛えるその響きは、語り手が自分自身に問いかけるような、あるいは隣にいる誰かに軽く打ち明けるような調子を生む。もしここが気疲れだと言い切られていたならば、句は硬直してしまい、語り手の人柄は立ち上がらなかっただろう。しかし「かしら」と疑問形にずらすことによって、そこには自己観察と同時に微笑ましい曖昧さが生まれ、読者はこの人はきっと几帳面に自己診断をするのではなく、気軽につぶやくタイプなのだと感じ取る。この句は景物や状況の描写にとどまらず、語り手のキャラクターを鮮やかに提示しているのである。

 さらに「かしら」には、独白だけでなく誰かに向けた語りかけの気配も潜んでいる。強く訴えるわけではなく、さりげなく問いかけるような柔らかさ。読者はそれを受け取り、まるで語り手の隣で話を聞いているかのような感覚に包まれる。肩が凝っているんだけど、気疲れかしらね、と言われて、ああ、そうかもしれないねと応じたくなるような親密さが、この句の中で自然に立ち上がるのだ。俳句という短詩が、単なる情景のスナップではなく人と人とのコミュニケーションにまで広がっているのは、この終助詞の選択によるところが大きい。

 そして、下五の「林檎に葉」がこのキャラクター性をさらに補強している。林檎の実に一枚の葉が残っている。その小さなディテールは、身体の疲れを語る人物の前に、ふっと差し出されるように存在している。林檎の瑞々しさ、葉の青さが「気疲れ」という内面的なつぶやきと対比され、句全体に生活のリアリティと柔らかいユーモアを与えている。もし「かしら」がなければ、この林檎の風景はただの季語的な補足にすぎなかっただろう。しかし「かしら」という声があることで、この林檎はまるで語り手がつぶやくときに目に留めている具体物として、ぐっと生き生きと輝き出すのである。

 このように見てくると、「肩こって気疲れかしら林檎に葉」は、単なる身体感覚の報告や自然物の描写を超えて、「声を持った人物」を立ち上げている句だと言える。几帳面に説明するのではなく、ふっと気持ちを漏らす。深刻ではなく、むしろどこか可笑しみを帯びた軽やかさ。そんな語り手の人柄が「気疲れかしら」の一言に凝縮されている。そして読者は、その人柄に自然と惹かれ、句を読んでいたはずが、打ち明け話を聞く時間に変わってしまうのだ。

 俳句の世界において、キャラクター性をこれほど端的に、しかも魅力的に立ち上げてみせる例はそう多くはない。ここでは「かしら」というたった三音が、声の質感を与え、人物像を照らし出し、さらに読者との関係性を生んでいる。俳句が景色の写生である以上に、人の存在そのものを描く文学であることを、この句は力強く証明しているのである。


 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉この一句で、先ず私たちの心をとらえるのは下五の「好きと言おう」である。俳句という形式のなかで、ここまで率直に、しかも直接的な言葉が置かれることは稀だ。伝統的な俳句では、感情を余情として漂わせ、読者に汲み取らせるものだという美意識が長く支配してきたのである。ところがこの句は、その伝統的な態度をあっさりと飛び越え、「好き」という直球の言葉を句の中核に据える。その瞬間、この句はただの叙景から、読者の心に直接届く告白の場面へと一変するのだ。

 ここで重要なのが、「言おう」という意志形である。すでに「言った」わけではない。まだ心の中にありながら、これから口に出そうとしている。つまり、語り手は読者に向かって私は今、好きと言おうとしていると、その瞬間の揺れを曝け出す。これは単なる事実の描写ではなく、心の動きの実況中継である。勇気を奮い起こそうとする気持ち、言葉が喉まで出かかっているのにまだ声になっていない、その緊張の刹那が、この「言おう」に凝縮されているのだ。ここに現れるキャラクターは、決して完成した人物ではなく、むしろ未完成で揺れ動いている。その不安定さこそが魅力的なのである。

 さらに、上五中七の「マフラーに顔をうずめる」という描写が、このキャラクター性を際立たせる。寒さから顔を守る仕草であると同時に、照れや不安から顔を隠しているようにも読める。つまり「マフラー」は防寒具であると同時に、語り手の感情を象徴する小道具なのだ。その中に顔を埋めながら、「好きと言おう」と心に決めている姿を想像すると、私たちは思わず微笑んでしまう。そこにあるのは、無防備で等身大の人間像である。俳句の中に、これほどまでに具体的で愛らしいキャラクターが息づくこと自体が驚きであり、革新である。

 「好きと言おう」という言葉は、また読者との距離感を変える力を持っている。伝統的な俳句では、読者は景色を鑑賞する第三者に過ぎなかった。しかしこの句では、語り手がまるで目の前にいるかのように、直接「好きと言おう」とつぶやきかけてくる。私たちは単なる傍観者ではなく、その瞬間を共にしている存在として巻き込まれるのだ。つまり、句の中で生まれているのは、語り手と相手だけでなく、語り手と読者のあいだの親密な関係性でもある。俳句がここまで読者に肉声を届けることができるという事実は、驚異的であり、同時に非常に魅力的である。

 このように見てくると、〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉は、俳句の新しい可能性を開いている句だといえる。自然や季語に感情を託すのではなく、感情そのものを口語で直接表現することで、語り手のキャラクターを前景化する。そしてそのキャラクターは、不安を抱えながらも勇気を出そうとする、まっすぐで可愛らしい人物として描かれている。読者はその人物に強い親近感を抱き、まるで隣で告白の準備をしている友人を応援するかのような気持ちになるのだ。

 つまりこの句の魅力は、単なる告白の場面を描いたことにとどまらない。「言おう」という意志形に込められた揺れによって、読者の前にひとりのキャラクターが鮮明に立ち上がり、その声が直接届いてくる。俳句の中で、ここまで具体的で親密な人間像を立ち上げるのは容易なことではない。しかしこの句はそれを成し遂げ、俳句を「人間の声を描く文学」として新たに提示しているのである。


 三句はいずれも、口語的な言い回しによって、客観的な叙景よりもむしろ語り手の声を前景化している。「さーっと」「かしら」「好きと言おう」といった言葉は、単なる描写の補助ではなく、語り手のキャラクターを立ち上げ、同時に読者との関係性を演出する装置である。つまり、高田が論じる「言い回しによるキャラクター性・関係性の演出」という口語俳句の可能性は、これら三句において具体的かつ鮮明に体現されているのである。


 1 『俳句雑誌「noi」vol.2』(2025) 寄稿:髙田祥聖 49頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 58頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 66頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 71頁より引用