2025年10月10日金曜日

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」  米田恵子

  『天狼』昭和23年3月号の「実作者の言葉」に「書」と題した随筆が載り、続けて「書 ふたたび」と出てくる。そして、5月号の「実作者の言葉」にも「書 みたび」、8・9月号に「書 よたび」と出てくる。

 誓子の書は、少し丸みを帯びた、細い字であるが、芯の強そうな書である。しかし、決して達筆とは言えず、書道をきちんと学んだというより、誰も真似のできない独自の書である。しかし、そこに至るまでには、いろいろと変遷が見られるのである。いきなり、「誓子流」が完成したのではない。むしろ、誓子ほど書の変化がみられる俳人はいないのではないだろうか。私は「誓子と書―「誓子流」の完成―」(『日本文化論年報』第14号、神戸大学大学院、2011年)において、いわゆる「誓子流」の完成までを、誓子の揮毫や署名の変化から5期に分けて考察した。

 学生時代の書が野風呂記念館(京都市)に保存されているが、書道を学んだとは決して言えない、素朴な楷書である。「素朴」と言ったが、晩年の書から想像できない書である。そこから、誓子は独自の「誓子流」を編み出していった。

 そんな誓子には「書」に関して転機が2つあると私は考える。

 1つ目の転機は波津女との結婚である。波津女は少女のときから、奈良高等師範学校の書道の教授に家に来てもらって、家中で習っていたのである。波津女の書は、誓子とは正反対で、流麗なくずしで「水茎の跡麗しく」と形容されるが、まさにその通りの書であり、誓子とは違い、終生その書は変わらなかった。その書道の教授の手本帖が残されているが、驚いたことにその書はまったく波津女の書と同じであった。波津女も真面目で几帳面な性格であったためか、お手本と寸分たがわぬ書であった。

 ところで、誓子は、良寛のような字を書きたいと目標にしていたが、波津女との結婚によって、誓子の書の先生は実際は波津女であった。ご遺族のお話によると、芭蕉などの江戸時代のものや短冊や色紙もくずしが分からない時は、誓子は波津女によく聞いていたそうである。草書のくずしも、波津女から学んだのである。だからかもしれないが、俳句の作品展で、波津女の清書を誓子の自筆だとした解説があり、これは誓子の自筆ではなく波津女の清書ですと何度か指摘したことがあった。夫婦とは、やはり似てくるものである。わたしなどは、ほほえましく思うところである。

 2つ目は、戦争中、誓子は結核の療養のため四日市市にいたが、空襲のため防空壕に避難するが、そこで誓子は一巻本の『草字彙』を持って入り、指で宙に草書を書いて練習したという。空襲時に何という悠長なことをしているのかと批難を受けそうであるが、誓子の気持ちは、いつ死ぬかわからない時だからこそ、自分を鍛えられるだけ鍛えよう、このままで死んでしまうと恥ずかしい思いをする、だからこそ、俳句と書を極めようとしたというのである。私なら死を覚悟したとき、何を思うだろうか。山口誓子のことは、まだまだ分からないことがあり、私には理解できないところもある。だからこそ、山口誓子を極めようと思うのだろうか。

 ところで、「実作者の言葉」の「書」では、まず、永田耕衣から揮毫するときの遅筆を指摘され、遅筆に関する先人の考えを知ろうとして『玄抄類摘』や中国の書籍から漢文を引用したり、「書 ふたたび」では、漢文の他に鬼貫、藤村を引用する。「書 みたび」では、『孫過庭書譜』の漢文をそのまま引用したが、その読みに誤りがあると読者から指摘を受け、「書 よたび」に、書き下し文を載せる。誓子も書いているのだが、漢文が分かる人は読むだろうが、ほとんどの人は読まないと。私も漢文そのままのところは読みとばしていた。

 それにしても、「実作者の言葉」には、丹念に調べる誓子が出てくるのであるが、負けず嫌いの性格がそうさせるのだろうと思う。