2025年10月24日金曜日

【新連載】口語俳句の可能性について・4  金光 舞

 前稿では、髙田祥聖の指摘する「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」に注目し、口語俳句が単なる口語表現の導入に留まらず、語り手の人間像や声を立ち上げる表現形式であることを検討した。

 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉では、「さーっと」という副詞が軽やかで人間味あるキャラクターを鮮やかに浮かび上がらせ、几帳面さよりも感性を重んじる語り手の姿勢を書き出していた。

 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉では、「かしら」という終助詞が独白的で柔らかな声の質感を生み、語り手の親しみやすい人柄と読者との距離の近さを演出していた。

 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉では、「好きと言おう」という意思形の口語が、感情の揺れを生々しく伝え、俳句に直接的な人間の声と臨場感をもたらしていた。

 これら三句に共通するのは、口語的な言い回しが「景の描写」を超えて「声の表現」へと俳句を拡張している点である。すなわち、口語俳句は語り手のキャラクターや心の動きを十七音の中に立ち上げ、読者との間に新たな関係を生み出す文学として機能している。

 このことから、口語俳句の意義は単なる現代語化ではなく、俳句における人間の声の再発見であることが明らかになった。

〈声〉を伴う文体として

 堀切克洋『俳句界』(2025年9月号)は、文語と口語の思考の違いを〈世界〉と〈私〉のスペクトルとして論じている。堀切によれば、①話し言葉は実感を語り、必然的に〈もの=世界〉よりも〈こころ=私〉へ傾く。そして話し言葉は〈声〉を伴い、読者にとって「ひとりの人間が直接語りかけている」ように響くという。


 さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき②

 掃除機に床は叱られ夏のくれ③

 紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう④


 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉先ず季語に注目したい。「さんしゅゆのはな」とは静かな季語である。早春に黄色い小さな花をつける山茱萸は、古くから春を告げる植物として知られてきた。俳句において「花」といえば、桜を筆頭に、美や季節感を象徴する普遍的な存在である。しかし、この句は従来の花=客観的な美の象徴という構図を崩している。確かに山茱萸の花はそこに咲いているのだが、その描写はあくまで簡素で抑制されている。代わりに鮮やかに響いてくるのは「待ち人を待つどきどき」という主体の感情であり、ここにこそこの句の核心がある。

 「どきどき」という擬態語は、俳句の中ではきわめて異質である。従来の俳句が胸高鳴る感情を自然や景物に託して婉曲に表してきたのに対し、この句では感情そのものがむき出しに言葉として置かれている。胸の鼓動を直接に音で表すこの擬態語は、説明ではなく体感の言語化であり、読む者に即座に身体的な共感を呼び起こす。「待ち人を待つ」高揚と不安、その張り詰めた気配が、花の静けさを背景にして強く前景化されるのである。

 ここで重要なのは、この句が「もの」よりも「こころ」に重きを置いている点だ。俳句はしばしば自然や物の姿を描くことに力点を置いてきた。しかしこの句では、花はあくまで背景であり、中心は語り手の心臓の鼓動である。つまり、山茱萸の花がどんな風に咲いているかよりも、花の前で作者がどんな気持ちで待っているかが主題になっている。これは俳句が心をそのまま響かせる文学であることを強く示している。

 そして、「どきどき」という言葉が生み出す魅力のひとつとして挙げられるのは、語り手のキャラクター性である。この句を読むと、私たちは風景を見ているのではなく、まるで隣にいる人物の声を聞いているように感じる。「待ち人を待つどきどき」とは、単なる説明ではなく、胸に手を当てていま私、緊張しているのだとつぶやく声である。その声は飾り気がなく、等身大で、愛らしい。俳句が伝統的に好んできた「余情に託す」表現とは異なり、この句では語り手自身が真正面に登場し、直接語りかけてくるのである。読者はそれに巻き込まれ、他人事としてではなく、自分の胸まで一緒に高鳴ってしまう。

 また、下五に「どきどき」を据えることで、句は音響的にもリズムを跳ねさせる。柔らかな春の花を眺めながら、胸の内では鼓動が速まっている。その内外の対比が、句に生々しい臨場感を与えている。このリズムの高鳴りは、待ち人が現れる直前の高揚をそのまま閉じ込めたかのようであり、読者は一瞬でその人の心臓のリズムを一緒に感じる体験へと誘われる。

 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉は、花という伝統的な題材を扱いながらも、その中心をあえて対象の美ではなく主体の心に置いたという点で革新的である。そして、その心は決して抽象的に描かれず、「どきどき」という肉声のような言葉で表されることで、ひとりの人間の存在が鮮やかに立ち上がる。俳句の中で〈声〉がここまで具体的に浮かび上がるのは稀であり、そこに本句の魅力がある。

 つまり、この句は花の句であると同時に人の句である。さんしゅゆの花は美しい。しかしそれ以上に、花の前で心臓を高鳴らせ、待ち人を思い続ける一人の人物が、私たちの前に生き生きと立っている。俳句の本質をものからこころへと引き寄せ、さらにそのこころを肉声として響かせる──ここに、声が立ち上がるのだ。


 〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉この句を目にした瞬間、私たちの前に立ち現れるのは、ありふれた日常の一場面にすぎない。掃除機、床、そして夏の暮れ。特別に美しい風景でもなく、古典的な題材でもない。むしろ取るに足らない日常の断片である。ところが、この句はその取るに足らないはずの場面を、たったひとつの言葉によって驚くほど鮮やかに変貌させる。その言葉こそ「叱られ」である。

 「叱られ」という言い回しは、対象の「床」を擬人化しているように見える。しかしここにあるのは単なる擬人化ではない。これは、掃除機の音と振動に包まれながら感じた作者自身の心理の投影であり、自分の内側の気分が「床は叱られ」と形を変えて外界に響き出した瞬間なのである。つまり、この句の中心は掃除機でも床でもなく、それを眺めつつ「叱られ」と口にしてしまった語り手の心の在り方である。

 ここで注目すべきは、その言葉がいかに直接的に声として響いてくるかだ。「叱られ」と呟くときの声音を想像してみればよい。ちょっと肩をすくめるような、自嘲とユーモアが入り混じった柔らかい声。その声が句の中に確かに刻印されている。伝統俳句が床に掃除機をかけたという事実をただ写生するのだとしたら、この句は掃除機に叱られてしまったよ、と読者に直接語りかける言葉である。ここにこそ堀切克洋が論じる話し言葉の現前性が端的に現れている。俳句の中で、景色や対象を越えてひとりの人間の声が前景化しているのだ。

 さらに魅力的なのは、この〈声〉がもたらす親密さである。「床は叱られ」という表現は、厳密に言えば理屈に合わない。床は叱られるものではない。しかし、だからこそ読者はこれは事実の説明ではなく、作者の気分がそのまま漏れた言葉なのだと気づく。そしてその気分は、どこか愉快で、どこか疲れた日常の手触りを含んでいる。まるで友人が掃除をしながらなんか床に叱られている気分だわと笑い混じりに言うのを隣で聞いているような感覚が生まれる。俳句という詩形の中に、このような親密で会話的な場面が立ち上がるのは、まさに〈声〉の力による。

 また、下五の「夏のくれ」が、この声に独特の余韻を与えている点も見逃せない。夏の夕暮れ、どこか物寂しくもあり、けれども一日の疲れを包み込むような柔らかな時間。その空気の中で「床は叱られ」と呟く声は、単なるユーモアにとどまらず、一種の生活の哀愁や滑稽さをも漂わせる。ここで描かれているのは外界の情景ではなく、生活を生きる人間の心の声そのものである。

 結局のところ、この句は「客観写生」という伝統的な俳句の理念からは大きく逸脱している。だがその逸脱こそが価値なのだ。ここでは、ものの美しさや風景の客観性ではなく、「私の気分」が中心に据えられている。掃除機の轟音の中で、日常の疲れをどこか可笑しみを帯びた形で吐き出す語り手。その人物像が、句を通して生き生きと立ち上がる。そして読者はものを見るのではなく、作者の声を聞くのだ。


 〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉この句の第一印象は、ごく小さな日常の場面にすぎない。テーブルの上に置かれた紅茶が冷えてゆく。何の変哲もない光景である。しかし、その静物描写から後半へと視線が移ると、事態は一気に変わる。「帰省の君は元気そう」。この言葉が発せられることで、句の焦点は風景から人間へ、ものからこころへと劇的にシフトするのだ。

 この「君は元気そう」というフレーズは、伝統的な俳句の感覚からすれば、あまりにも口語的で直截的である。これまで俳句が培ってきた言語感覚は、余情や暗示を重んじ、直接的な感情表現を控えてきた。恋や人間関係を扱うときでさえ、それは花鳥風月の影を通して婉曲に伝えられることが多かった。だが、この句においてはその婉曲の幕が取り払われ、語り手はまるで目の前の相手に語りかけるように、率直に「君は元気そう」と声に出してしまうのである。この〈声〉の現れこそが、句の肝である。

 ここで立ち上がるのは、「帰省の君」と作者のあいだに流れる親密な関係性である。冷めゆく紅茶は時間の経過を象徴しつつ、同時に「君」と過ごすひとときの現実感を裏打ちしている。そしてその場で語られるのは、ただの事実確認のようでありながら、どこか照れを含んだ言葉である「君は元気そう」。これは単なる客観的な観察ではない。むしろ君が元気でいてくれて安心したという心の吐露であり、久しぶりに会えた喜びを遠回しに伝える愛情表現でもある。つまりこの句は、風物の美ではなく、人と人とが再会する瞬間の感情を、言葉の肌触りそのままに提示しているのだ。

 そして、この〈声〉の力は読者にも直接及ぶ。私たちは句を読むとき、あたかも語り手の隣に座り、その会話を傍らで耳にしているような感覚を覚える。紅茶の湯気がもう消えかけているテーブルを前にして、「君は元気そう」と語る声がこちらにまで届く。そのとき読者は、ただ景色を鑑賞するのではなく、人間関係の場に居合わせる傍聴者となる。俳句が一人の人間の声を生々しく響かせることによって、詩形の閉じた世界から読者を巻き込む「場」が創出されるのである。

 また、この句の巧みさは、静物と人間描写の対照にもある。「紅茶冷ゆ」という静かな観察で始まるからこそ、そのあとに続く「君は元気そう」という口語的で親密なフレーズが際立つ。紅茶の冷えゆく時間の中に、語り手と君との関係性がくっきりと見えてくる。この対照は、まるでクラシックな俳句的要素と、現代的な口語俳句の要素が同居し、せめぎ合う場である。その緊張こそが句を鮮やかに輝かせている。

 要するに、この作品はものを描く俳句の伝統を踏まえつつ、最終的にはこころへと舵を切る。その舵の切り方は驚くほど自然で、しかも読者にとって強い親密感を生み出す。ここには帰省した君という特定の相手がいて、その相手に元気そうだねと語りかける一人の人間がいる。その人間の声が確かに聞こえてくる。それがこの句最大の魅力である。俳句という形式の中で、人の声がこんなにも生々しく立ち上がり、読者に直接届く。その感動を私たちは「関係性の詩」と呼んでもよいだろう。

 これらの句が示すのは、口語俳句において「世界」が最終的に「こころ」の表出へと収斂していくということだ。そこに浮かぶのは詠まれた対象そのものではなく、それを語る人間の気分や声である。そしてその声は、俳句を単なる描写の器から「人間の生の断片を語る場所」へと変えている。


①『俳句界2025年9月号特集 文語・口語の思考』(2025) 寄稿:堀切克洋 40-43頁を参照

②『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 76頁より引用

③『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 90頁より引用

④『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 95頁より引用