2025年12月12日金曜日

【連載】現代評論研究:第19回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑥(仲寒蝉編集) 

2011年12月16日

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


6.自然と遷子について述べよ。

 筑紫は〈遷子が俳句という芸術に足を踏み入れる動機となったのは、秋桜子に教えられた自然観照の美しい風景によるものであった〉と指摘。ただこうした自然観照は独創的である必要はなく〈あらゆる青年たちが共感したからこそ、馬酔木俳句はこれほど広く展開した〉と述べる。それを示す事項として馬酔木の最初の歳時記『現代俳句季語解』(昭和7年)の例句に作者名の記述がないことを挙げる。水原秋桜子によると「作者名を省いたのは、お互いの共有の芸術であるという親しみを持ちたいから」、つまり〈虚子が確立した日本的季題趣味に対して、水原秋桜子は西洋美術的な自然趣味を導入した〉がそれは個性以前の〈当時の若者共有の感覚であった〉ということになる。

 さらに〈こうした共有感覚が壊れ、個人個人の悩みが個性の下で語られるようになるには、人間探求派を待たねばならない〉と述べ、〈戦前の遷子の叙景俳句と、戦後の馬酔木高原派の俳句は本質において何も変わるところがなかった〉、〈皮肉に言えば、少しばかり、近江俊郎風の「山小屋の灯」的通俗性を加えたに過ぎない〉と言う。


 は〈遷子の風景句に興味を持ったのは、自然への対し方が、初期と晩年では違うように感じられたから〉、すなわち〈初期の外側から描かれた風景が、次第に内面と重なってきた―自己と一体化した―〉その変化の過程に惹かれたと言う。


 中西は〈師の秋桜子は美しい風景句を作る人であったから、遷子の出発点は美しい風景句であった〉と言う。医師俳句を作っている『雪嶺』時代も吟行はしていたはず、と推測する。〈窓を開けると山が見える佐久という美しい山国の環境〉にあって〈美しい反面、寒さの厳しさや、雪の恐ろしさを常に身近にしていたことだろう〉と自然の厳しさを知った人の「わが山河」であったことを強調する。


 深谷は〈馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる〉と指摘。〈自分が暮らす佐久の山々や風土に対する国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあってふと心が和ませられる〉と述べる。


 は〈八ヶ岳、浅間山といった山々は佐久移住前の『草枕』時代、『山国』の昭和30年代までは分け入ってゆくもの、それ以後は遠望するものとして詠まれる〉と言う。これら故郷の山や川は〈『雪嶺』の終り頃から『山河』時代になると「わが山河」と呼んで愛するものとなった〉と言う。

 また磐井氏の論文にあるように遷子の俳句に星が多く詠まれていることを挙げ、〈佐久の方言で「凍みる」と言われる冬の気温の低さ、そのせいで空気中から水分が希薄となり星が美しくも冴えわたって見える〉と述べる。

 しかし一方で〈一つ一つの植物や動物の名前を挙げて詠むことは多くなかった〉ことを指摘。〈盆栽が好きだった父親と違い「生き物飼はず花作らず」と自分を規定しているくらいだから、高原派と呼ばれる割には生物に対して冷たい。人間も含めた生物とウェットな関係を持つことが彼にとっては煩わしかったのではないか〉と述べる。


6のまとめ

 ほぼ全員が若い頃の遷子が「馬酔木」特に秋桜子の美しい風景を描く俳句の流れの上にあったこと、佐久の自然の厳しさに触れた後には外から見るだけでなく内面的なものの反映として自然を捉えるように変わって来たことを感じている。


 筑紫は秋桜子の自然観は個性のない〈当時の若者共有の感覚〉であって、戦後の「馬酔木」高原派の俳句もその延長線上に過ぎず、それが個性的な様相を呈するのは人間探求派以後であると俳句史を概観する。


 は遷子の性質として人間も含めた生物とウェットな関係を持つことを煩わしいと感ずる所があり、単に自然が好きで俳句に詠んでいたというのと異なる点を強調する。