2025年12月26日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第17回)各論:後藤よしみ、村山恭子、佐藤りえ

★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第四章 敗戦と思想的転換

 1945年の敗戦は、日本社会全体にとって価値観の逆転をもたらしたが、高柳重信にとっても、それは精神の根幹を揺るがす出来事であった。戦前・戦中において皇国史観に深く感化されていた重信は、敗戦によってその思想的支柱を喪失し、虚脱と虚無の状態に陥る。彼はこの時期を「魂も身体も根こそぎ病んでいた」と回想している¹。

 敗戦直後の重信は、勤王文庫『保健大記』『中興鑑言』を筆写し、亡国を嘆いたとされる²。これらは江戸期の尊王論や後醍醐天皇の事績を記した書であり、重信がなお皇国精神にすがろうとしていたことを示している。また、同時期に小崎均一らと憂国の情に基づく行動を企画していたと推定されており、その志は後の三島由紀夫の自決事件と通底するものがある³。

 重信は、三島の死に対しても一定の理解を示している。「天皇についての見解も…たただちに狂気の沙汰だとは、簡単には言いきれないような気がする」と述べており⁴、これは戦前期に培われた皇国精神が、敗戦後も彼の深層に残り続けていたことの証左である。

 しかし、重信はこの精神的彷徨の中で、次第に思想的転換の兆しを見せ始める。1946年には俳誌「群」を復刊し、創作活動を再開。病床での闘病生活は、自己省察を促し、内面の追及を深める契機となった。翌1947年、重信は「敗北の詩」を発表し、戦前の思想との訣別を明示する⁵。

 この「敗北の詩」は、単なる敗戦の感慨ではなく、思想的再構築への宣言であった。重信は、戦時下に自己を確立せざるを得なかった世代として、その傷痕を抱えながらも、新たな思想形成に向けて歩み始める。彼は「新しい自分になってゆく」ために、評論活動を通じて自己の理念を鍛えていく⁶。

 このように、敗戦は重信にとって精神の崩壊であると同時に、思想的再生の契機でもあった。皇国史観に基づく忠義と献身の美学は、彼の深層に残り続けながらも、批評と創作を通じて新たな詩的世界へと昇華されていく。


脚注

¹ 高柳重信「略年譜」『高柳重信全句集』沖積社、2002年。

² 同上。

³ 高柳重信「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

⁴ 高柳重信「戦後俳句について」『俳句研究』1971年5月号、『集成第十二冊』夢幻航海社、2001年。

⁵ 高柳重信「敗北の詩」『全集Ⅲ』1985年。

⁶ 高柳重信「模糊たる来し方」『全集Ⅱ』1985年。


★―7:藤木清子を読む8 / 村山 恭子


8 昭和11年 ③


    不眠症          京大俳句3月

めつぶればこほる瞳に灯が憑けり

 目をつぶってみると、氷のような冷たい瞳に灯がつきました。「つく」は「灯く」ではなく「憑く」を用いて、霊が宿る意味合いを持たせ幻想的な心情を醸し出しています。

 なかなか眠れず苦しんでいる姿を「こほる」と「憑く」で表現しています。

   季語=こほる(冬)


寒き巨き夜の貌われをあざけりぬ    同

 寒くて巨大な夜の〈貌〉が、我を見下して笑っています。〈貌〉は物のすがたで、〈寒き巨き夜〉と擬人化し、眠れぬ夜のみじめさを表しています。

   季語=寒し(冬)


凍みる灯に脳蒼ざめて萎えほそり    同

 〈灯〉〈脳〉〈蒼ざめ〉〈萎え〉と漢字表記で印象的に展開しています。特に「青」ではなく「蒼」により「顔面蒼白」などブルーというよりは灰色がかった寒々とした色を呈示し、〈萎えほそり〉の様子がよく解ります。

   季語=凍む(冬)


   ひかりの幻惑        天の川3月

暖炉耀り白蠟の手のダイヤ燃ゆ

 暖炉が耀り、その光の中で〈白蠟の手〉のダイヤが揺らめきながら輝いています。〈白蠟〉がこの句の眼目で、蝋人形のような命を持たない冷たさの「白」とダイヤを取り合わせ、無限に続く煌めきを表現しています。

   季語=暖炉(冬)


    放浪の弟に寄す

飢えつゝも知識の都市を離れられず   同、旗艦17号・5月

 放浪の弟への思い。飢えていても都市を離れられないのは、田舎とは違う〈知識〉=文明が満ちているからです。遠くにいる者を心配すると共に、都市へ向かう若者の社会構造が見えてきます。

  季語=無季


凍えては国禁の書を手に触れな

 〈国禁の書〉は治安警察法などで発禁・販売禁止になった書籍を指します。

 文末の「な」は「~するな」「~してはいけない」という禁止を表し、〈凍えて〉いても

〈国禁の書〉に手を出すなと警告しています。

 石川啄木の〈赤紙の表紙手擦れし国禁の書(ふみ)を行李(かうり)の底にさがす日〉もあり、〈國禁の書〉は社会詠でよく取り上げられます。

   季語=凍る(冬)


★ー5:清水径子の句 / 佐藤りえ

 満月の下を下をとわがひとり  「鏡」(昭和四十年以前)


 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和38年6月号の特別作品「悪漢」20句内の「ひとりゆく満月の下を下を」。特別作品は同人の投稿制コーナーで、当時の同人作品欄「星恋集」とは別に自主的に応募を促すものであった。というのも、昭和30年代の同人作品は集まりが芳しくなく、創刊十周年の頃には80名を越す同人が在籍しながら、「星恋集」は毎回20人前後の掲載に留まっていた。他誌においてその鎮静ぶりを非難されるようなこともあった。

 径子自身も欠詠の多い同人のひとりだった。創刊の翌年、6号より同人作品欄が設けられ、最初の同人12名に径子も名を連ねた。昭和29年のなかば頃から欠詠が目立ち、31年2月には初期結核で長期の入院生活を送る。不死男の日記抄や編集後記に同人らと見舞いに訪れた記述がある。入院中はずっと欠詠、また翌年(昭和32年)作品を寄せたのは2月と6月の二回に留まった。


「悪漢」を発表した昭和38年も、事実上「氷海」に作品を寄せたのはこの一回きりであった(外部への執筆:角川「俳句」9月号に「邂逅」掲載 はあった)。特別作品は後日同人による批評が組まれ、「悪漢」評は「氷海」9月号掲載されたが、横山衣子の筆致はなかなか手厳しい。「一連の作品から新しい感動を得ることはなかった」とした後、「青麦の邂逅は小説のように」「もう童女ではなし雪を見つめおり」「乳児の掌がものを思わす青葉木菟」などの作品を引き、次のように批判した。

作者の実験室の試験管の中で生れた両親のない子供だと考えた方が、私にはずっと自由に話し合えそうだ。

 1950年代、ウサギの体外受精が初めて成功し、試験管という表現はそうした自然科学への関心の高まり、報道から来たものと推察するが、批判のための言説といった書きぶりで、繰り出した比喩の過激さに評者自身が陶酔している気がしないでもない。「試験管ベビー」にも両親はもちろんいるわけで、「親のない子供」なる言い方で評者が言いたいのは、径子の作品にたぐりよせるべき個人的な生活臭が感じ取りづらい、句の材料となった実生活の端緒が見えない、といったところだろう。引用した句を実験的な表現とみなし、それに対しての嫌悪とでもいうような忌避感が見える。何がどうなった、という5W1H的な見方では理解しづらい作品が多いことは確かではある。「邂逅は小説のように」はもう一段階かみ砕いてもらえまいかという気もするし、「邂逅」と「小説」のいずれかにウェイトを置き、片方に絞るのが望ましい気もする。「もう童女ではなし」は率直すぎるようでもあり、「ものを思わす」の中七の面白さは未整理な状態で提示されてしまったようにも見える。

 全反射せる雪何処より溶くる  津田清子(「氷海」昭和31年3月号「女流俳句鑑賞」)
 白く峻しく泣きそうになる迄雪嶺攀づ  加藤知世子
 寒き三畳の部屋をハガキへ御殿と書く  三浦ふみ(「氷海」昭和32年5月号)
 遅刻せし通勤区間風花す  村瀬寸未子
 鳩の首(なじ)啼かす硬く霜寄りて  大類悦子

 当時は特に破調の作品が横溢といっていい頻度で発表され、掲句の初出の形もそうした試行錯誤の中途に生まれたものであろう。字余り、字足らずの作品が多産されていたが、それらはリズムをどうこうする、ねらって外すといった効果より、「古い」文語表現からの脱却、言いたいことを言うために必要な要素が盛り込まれた結果であった。がたぴしとひしめきあうような音韻と、斬新さを求め「平凡」=花鳥諷詠を忌み嫌う格闘が続けられていた。

 ひとりゆく満月の下を下を

 満月の下を下をとわがひとり

 句集に収録されたかたちへの推敲は韻律としてもなめらかでありつつ、曖昧な意思の提示を思わせる自動詞「ゆく」が「わがひとり」へと姿を変えたことで、動きではなく意思が打ち出された。「わがひとり」は奇妙な表現ではある。「わが暮らし」でも「わが魂」でもなく、連体詞「わが」に「ひとり」を持たせている。この稿を書いていて、最近見たインターネット上のつぶやきを思い出した。

“わたしはわたしだけのものであり、人間としてさまざまな権利を有しております。”(金井球 2025-10-03 14:25:54)

https://x.com/tiyk_tbr/status/1973982821317538034

 「自分は自分だけのものである」という所信表明に雷に打たれたような思いがした。自分が誰よりも自分であるという、当然のはずのことがうすぼんやりしていたのに気づかされてしまった。径子の「わがひとり」には、ひとりぼっちであるわたしを抱え込む「わたし」が存在する。ここに入ることが可能なのは、ものや感情でなく「ひとり」という把握に他ならない。「下を下を」のリフレインは下降を続けるようでもあり、夜が続くようでもある。「ゆく」が姿を消しても、この部分で推進するイメージがある。句の姿は美しく変貌し、一字の無駄もなく厳しく統制された世界がある。

「ひとり」であることは径子のアイデンティティに深く根ざしている。師・秋元不死男の妻は姉であり、「氷海」創刊当時の同人清水野笛は弟であるが、大人の人生は実質「家」単位で進む。姉弟とはいえ、深く立ち入ることも、もたれ掛かることも、望ましいことではない。


 不遇な子供とされたさきの三句も、出来はどうあれ、一字一字と語順のつらなりが厳しく統制されていることに変わりはない。径子の句業は当初から「なんとなく」な部分を極力廃していこうとする、困難そうな道が選ばれていた。欠詠が多いのは暮らしにまつわる疲労や艱難辛苦によるものだけでなく、なんとなく埋め合わせで、勢いで発表しようという姿勢ではなかったから、ではなかろうか。手厳しい反発を受け、「氷海」のなかで大きく共感を呼ぶにはまだ時間がかかりそうな径子の句は、それでも誰にも似ていない、独自の文体をつかみ取ろうとしていた。