2025年12月26日金曜日

【新連載】口語俳句の可能性について・6  金光舞

  前稿では口語俳句におけるモンタージュについて述べた。田村奏天『ハンカチのはりねずみ』の句を例に、口語俳句の自立性は、固定化した伝統形式の美にではなく要素の断片の結合がもたらす創造的な意味生成の運動そのものに宿っていることを確認した。


 突然だが、わたしは2025年夏、愛媛松山で行われた俳句甲子園全国大会を観戦した。一日目の大街道での試合から二日目の決勝戦まで熱い戦いが繰り広げられていた。ぜひその様子は11月に発売された『第28回俳句甲子園公式作品集』や、公式YouTubeのアーカイブを見てほしい。高校生が俳句に誠実に向き合う姿を見て胸を打たれたのもそうだし、わたしの母校である星野高校が二日目の舞台で頑張る姿を見て、言葉に表すことが難しいほどうれしかったのもそうだ。そんな中で印象に残った試合がある。予選トーナメント3vs4会場の試合だ。兼題は「葉桜」。赤チームに北海道旭川西高校、白チームに星野高等学校。この試合で面白いと思ったのは北海道旭川西高校による葉桜の捉え方である。


花は葉にかつての君に恋文を

告げにけり花は葉になつてしまふから

花は葉に靴は記憶の本になる

葉桜や思い出さざるラブレター

葉桜や君の返事を待つてゐる


 5句中4句が恋句なのである。この挑戦について、この試合のここがポイント! 執筆者・田中泥炭は「単なる青春性の発露に留まらぬよう、表現に工夫を凝らしており、等身大に溺れぬしたたかさを兼ね備えていた 」と述べる。

 葉桜は、花の盛りを過ぎた後の状態を示す季語であり、一般に「過去」や「喪失」を想起させる。しかしこの4句において葉桜は、単なる回顧や追憶の記憶ではなく、現在進行形の恋情が置かれる舞台として機能している。

 「花は葉にかつての君に恋文を」「告げにけり花は葉になつてしまふから」の2句について、審査員・中原道夫が「こういう青春性に惹かれる(意訳)」と称していた。ここで注目すべきは、口語俳句が単なる表現上の流行や技法として選択されているのではなく、高校生という発話主体が恋情に向き合うための、ほとんど必然的な言語選択であるという点である。

 高校生にとって恋愛は人生経験として未整理であり、語彙や感情の枠組みが十分に用意されていない領域である。そのような状態で文語的・定型的な抒情を用いることは、恋情を実感よりも先に「物語化」「様式化」してしまう危険を孕む。恋を美化し、完成された感情として提示することは可能であっても、それは必ずしも誠実な表現とは言えない。

 その点口語俳句は、未完成で、揺れ動き、時に気取ってしまう現在の感情を、そのまま言語化することを許す文体である。たとえば〈葉桜や君の返事を待つてゐる〉という句において語られるのは、恋の成否ではなく、待っているいまの心的状態である。これは、経験の浅い主体が、自身の感情を結論づけることを避け、現在の感情にとどまろうとする態度の表れである。

 高校生があえて口語を用いることは、背伸びをしないという選択であると同時に、感情を過剰に整えないという倫理的態度でもある。口語俳句は、恋情をうまく語るための手段ではなく、誤魔化さずにそこに置くための器として機能している。葉桜という季語が象徴するすでに盛りを過ぎた現在は、高校生の恋愛が持つ時間感覚とも重なる。恋は始まったばかりであるにもかかわらず、同時に失われる可能性を孕んでいる。その不安定さを、口語俳句は一瞬として切り取り、固定するのではなく、未完のまま差し出す。

 高校生たちは口語俳句という文体を選ぶことで、恋情を完成された物語へと回収することを拒み、現在の感情に対して誠実であろうとしたと言える。口語は未熟さの表れではなく、未熟であることを引き受けるための言語なのではないだろうか。