2025年12月26日金曜日

【連載】現代評論研究: 第20回各論―テーマ:「女」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(投稿日:2012年02月10日)

★―1近木圭乃介の句 / 藤田踏青

 灯 中に神のような夜の女もあろう

 昭和28年の「ケイノスケ句抄」(注①)所収の作品である。そこに圭乃介が生活していた門司や下関の港の裏通りにポッと灯がともる情景を思い浮かべる。この場合の「神」とは、自然界の万物を擬人化した存在としてのアニミズム的な発想のものではなく、現実世界そのものとして受け入れる汎神論的なものとして受け取れば「夜の女」への思いも自然と頷かれるであろう。そこでは人知を超える必要はなく、ただその女の精神的な無垢だけを見つめていれば良いのかもしれない。「灯」のあとの一字空白は灯から夜の女そのものへの視点の移動と、「灯」そのものの中にその女が浮かび上がるような効果をもたらせている。「灯」と「夜の女」とは必然的に補完関係にあるかの如くに。尚、この作品は次掲の作品と連作の形で発表されている。

 近く笑う夜の女 離れる   昭和28年作  注①

 からだ売る青い石ゆびに       々

 コップ二つの等しい液体       々

 これ等の句により夜の女が娼婦であることが解るが、圭乃介の眼差しはそれに優しく注がれており、立ち位置も同じである。その事を次の句が示してもいる。

 虹茫と 女くらい肩していた          昭和54年作  注① 

 かわいいもの手垢のない単語よっぱらい女   昭和60年作  注①

 歌謡曲ではないけれど港に酒と女はつきもののようであるが、圭之介は昭和30年に上記の句の流れに沿った次のような詩を発表している。


「女」   注②

女の背の部分が

海のようにつめたくなる

汽船は寒流をのがれ 乳房を迂回し

胸の大きなうねりに咆哮する

なまあたたかい汐風に

へんぽんとひるがえる旗

青い海ばらに一すじ

女の黒髪がなびいている


 この詩はコクトーの詩(注③)にも影響されたのであろうか。海を見つめている女の後姿に哀愁が漂っている。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭乃介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ J・コクトー


「レア」  『寄港地』より(堀口大學・訳)

珊瑚のように

はだかのレアは

ベッドの上に腰かけて

カーテンあげて眺めます

港が海をせきとめる

帆ばしらの櫛で


★―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園/土肥あき子

 今までテーマに沿って俳句を見つけては背景を探ってきたが、準備期間も含め約一年で関連した書物や思いがけない出会いから当初不明だったいくつかが判明したりもしている。

 また、きくのの著作権継承者でもある姪の野口さん(仮名)よりお借りしているものに、きくのの六冊のアルバムがある。アルバムは多くのページを残して新しくされたり、手書きの書き込みにきくのの素顔を見つけることができたり、写り込んでいる風景に当時の生活や文化が見え、それなりの心境の変化も映し出されている。

 時系列で当時の流行や時事なども並記しながら、きくのの人生を追ってみたいと思い、今後のテーマを「流転」とした。神奈川県厚木の船宿に生まれたきくのの一生は、点々と安住の岸辺を探し尋ねるような転居の連続であった。


本題【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園

 引越の荷のてつぺんの菊の鉢

 稲垣きくの、明治39年(1906)7月26日神奈川県厚木市生まれ。本名野口キクノ。稲垣家の四男だった父(佐市)が同じ相模川で船宿を経営していた野口家の養子となる。長男、次男、長女、きくの、三男、四男の6人兄弟。大正3年(1914)横浜西部に転居するも、大正12年(1923)の関東大震災で住居喪失のため父の実家座間へ移る。この年より東京神田の正則英語学校タイプ科で学び、卒業後横浜銀行勤務。同時に同志座募集を新聞で知り、応募。父母の反対を押し切り、ただ一人の理解者であった姉の家から同志座の旗上げ公演に参加。大正14年(1925)、同志座座員、宮島文雄と結婚。昭和3年(1928)離婚し、野口姓に復籍する。

 以上が俳句と接する前の稲垣きくのの略歴である。

 そして、きくのの人生にとって最大の影響を及ぼすことになる財界人A氏との出会いがある。出会いの一切はベールに覆われているが、A氏の影はきくののエッセイ集『古日傘』の「さくらんぼ」のなかで東京・大阪間の初旅客飛行に搭乗したという箇所に注目した。

 日本の本格的なエアライン誕生は、政府と財界の協力で昭和3年(1928)「日本航空輸送」が設立され、8月27日、東京・大阪間で初の有料旅客貨物空中輸送を開始した。初飛行を控えた東京朝日新聞には連日「大阪東京間は秀麗富岳を中心とする東海道の絶景、東京仙台間も松島の美風景あり、汽車に比して四倍迅速なる上に、地上には見難き佳景大観を領しつつ、愉快に往復しうる幸福は確かに我が旅客飛行の誇りである。室内は安楽イス、便所の設備あり、自動車よりも遙かに広くかつ美麗である。是非この空中最新設備を利用されんことを切望する。」という広告が大きく掲載され、川崎ドニエ式メルクール型旅客機の定期運行に自信をみなぎらせている。

 当時大卒初任給が50円という時代に、東京・大阪間は30円、同時就航した東京・大連間は145円である。同年きくのは、弟の婚礼のために大連へも当機を利用している。離婚直後、蒲田撮影所へ入所早々の22歳の女優が気軽に使える手段ではないだろう。

 その後、きくのは麹町永田町に引越したが、車関係の会社が近隣にあり試験をする騒音でやりきれなかったので、芝公園へ転居する。しかし、こちらも電車通りに沿いで自動車やバスの行き交う騒々しさに悩まされたという。掲句はこのどちらかの折りの作品であると思われる。我が名を持つ花が、新天地へと向かって揺れている。「てつぺん」の象徴する誇らしさと不安定なゆらぎに、微妙な女心が投影される。

 昭和42年(1967)俳人協会賞受賞の折りの本人の手による略歴では、俳句は昭和11年(1936)大場白水郎主宰「春蘭」をたまたま購読したことから始めた、とある。この「たまたま」に、「事情は一切省きますが、結論としてはこうなのです」というきくの的表現を感じる。掲句は初出とは別に「春蘭」昭和14年(1939)1月号の「春蘭主要作家を語る」(春蘭同人伊藤鴎二)にも引かれる作品である。

 門松につながれもする小犬かな

 夏帯の波うつてゆく急ぎ足

に並び、伊藤の文章は「句会へ余り顔を見せず、俳人の交遊もさして多いとは思えない。俳壇的雰囲気から遠ざかってあれほどの佳句を投じているのは感心する。特質として句が快楽的、観照が純粋」と続く。

 この時期のきくのには、俳句はまだそれほど大きな存在ではなかったのかもしれない。

 そして次第に俳句の十七音は、多くを語らぬきくのの代弁者となってこの世に送り出されていくのである。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 母死してえのころ草に劣るなり

 昭和23年作。第3句集『玄』(*1)所収。

 男にとって最も身近でありながら、もっとも遠い女。それが「母」ではないだろうか。亡くなった母を恋い慕い、長いあごひげが胸元に届くようになるまで泣き喚いていたというスサノオの故事を持ち出すまでもなく、また、亡き母の面影を浮かべる義母と情を交わし、子供まで産ませてしまった光源氏のように「母恋」は日本文学の底流をなす重要なモチーフといえるだろう。

 掲句は、そうした亡き母を恋い慕う狂おしいほどの激情を露ほども感じさせない。取り乱すことで精神の安定が保たれることもある。だが、玄はそうした安全弁を安易に用いない。むしろ非情と思えるほど、徹底的に対象を描写してゆく。肉親の死を眼前にしているにもかかわらず、だ。

 それは掲句の同時発表句(「壺」昭和23年9・10月号掲載)からも感じ取れる。

 母死すとき夏露のごときを目に湛ふ

 棺に母ありて蜩森にありき

 涼しきか悶絶の母陰隆(たか)し

 母親の臨終の姿が克明に描写されており、息を呑む。いまだかつて、悶絶してのけぞる母親の陰が盛り上がるほどたかいことを詠んだ作家がいただろうか?〈涼しきか〉の上五が常軌を逸している。

 母を死なする風鈴を吊りにけり

 悶絶の母を刺す蚤数あらず

 瀕死の母が一息の息暑へ灑(そそ)ぐ

 母逝くか否か自問の雲の峰

 これは掲句の前号(「壺」昭和23年8月号)に掲載された句の一部で、ここでも母親の死を凝視している玄の姿が認められる。悶絶する母親を眼前にしながら、その体に蚤がたかっていることに誹味を見いだせるものだろうか。だが、ここでも玄はリアリズムを貫き通している。

 作品と同時に「KSANA」と題した短文も掲載されており、そのなかで玄は臨終間近の母親への想いとそれを見舞う人たちの欺瞞を書き連ねている。

一夜、私は母を抱え最後の訣別を済ました。私は母の如く、母は子たる私の如く、暗黙の中の恍惚たる数分であった。母の生涯の光芒はこの瞬間に集注したと私は信じた。私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。私の真を知る唯一の魂との訣別を終えて、もう絶対に泣かぬと決めた。

 玄にとっての母親とは、自身の魂の真実を知る唯一の存在であったことがわかる。「私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。」の一文に玄の深い悲しみが滲み出ている。その母親との訣別を済ませたあとの玄は、感情に溺れることを自身に禁じたのだ。

 だからこその徹底的な描写であったのだ。齋藤玄という作家の死生観を形成するのに多大な影響を与えたのは、この母親との訣別の一夜であったのだろうと推察する。

 わが母を見舞ひ、わが母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達を私は憤怒と嫌悪のまなざしで見つめた。糞ヒューマニズムの片鱗は隠してもわかる。当人自ら気がつかなくとも私は見透した。

 危篤状態の母の前で、「いい人」を演じて悦に入る人間の欺瞞性を糾弾する玄がここにいる。この欺瞞性に対抗する手段として玄はリアルな母の死を描こうとしたのではないか。

 掲句の鑑賞に戻ろう。

 〈えのころ草〉はねこじゃらしの名で、ありふれてはいるが、親しみやすい雑草として、秋風にゆれながら道端や空き地に群生する植物である。優しげで頼りなく、どこか滑稽な風姿さえ持つ。そうした〈えのころ草〉と母の死という重く悲しい事件を対比させ、〈劣るなり〉と断定した意図は何であったのだろうか。そこには自己の悲しみを投げ出すことで他者に共感を求める姿勢は微塵も感じられない。

 しかし、この断定はある意味、戦後の日本人の死に対する考え方を反映しているととらえることもできるだろう。死んでしまえば、どんなに愛した母親でも眼前にある〈えのころ草〉ほどの価値すらなくなってしまう。それは、死後の救済を売り物にする戦後宗教への批判のようにもみえる。あるいは既存の「死んだらみんな仏様になる」という素朴な死霊観に対する問題提起ととれなくもない。

 おそらく、先の短文のように「母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達」に代表される人間の根源的な卑しさを〈劣るなり〉で表現したのだろう。

 それが、齋藤玄にとって、「私の真を知る唯一の魂」の持ち主である母という永遠の女性との訣別の辞でもあったのだ。


*1 第3句集『玄』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


★―5堀葦男の句/堺谷真人

 夕さくら照るや少女のまた暴投

 遺句集『過客』(1996年)所収の句。

 葦男作品の中で女性を表す語彙は多様だ。第一句集『火づくり』から『機械』『山姿水情』と順に拾ってゆくと、妹(いも)、妻、母、少女、主婦、女、酌婦、老婆、女給仕、女児、老女、幼女、婆、美女、山姥、遊君、女性(にょしょう)など女の一生の諸相が含まれている。(山姥はちょっと違うが・・・)また、パンプス、鮮衣、夏手袋など換喩(メトニミー)で女性を表現したり、睫毛、垂れ髪、黒乳房、くちびるの朱など身体的特徴をもって女性を示唆する作例もある。これらの語彙のうち、『火づくり』の第1章「風の章」に特徴的に見られるのが「妹」という言葉だ。

 あの汽車に乗れば妹がり麦そよぐ

 桔梗(きちかう)に妹の眸(め)澄めり雨を来て

 妹が髪つゆけしいまは別れなむ

 妹もいま空見てあらむ頭巾つけ

 1944年6月、葦男は網野冨美子と婚約する。その前後の作とおぼしきこれらの「妹」からは、俳句以前に若き葦男がなじんでいた短歌的リリシズムの余響を聞きとることができる。

 『万葉集』に頻出する古語を採用したのは、婚約期間の昂揚感を文学的に昇華したいとの

気持ちが働いたためであろうか。葦男ら大正世代の男女にとって自由恋愛はまだ少数派であった。今日の我々からすると物事の順序が転倒して見えるが、婚約のあとから恋愛感情が芽生え、結婚に向けてこれをはぐくんでゆくという流れは、そう珍しくなかったのかもしれない。上記作品は制作年代からいえば「戦後俳句」ではない。が、戦後日本を担った大正世代の男女のありようを示唆する好個の作例である。

 背負ふ鉄帽がつと触れ合ひ少女なり

 これも『火づくり』「風の章」所収の句。葦男の句集収録作品における「少女」の初出である。戦時下の実景。人ごみの中、恐らくは防空壕か列車のような狭い場所であろう。背負ったヘルメット同士ががつりとぶつかる。反射的に振り返り、「失礼」と言おうとした作者の前にいたのは一人の少女であった。

 戦時下の少女は、樹下で読書にいそしんだり、夢見がちに窓の外を眺める存在ではない。バケツリレーや竹槍の操練に汗を流し、麦藁帽の代わりに鉄帽をかぶる少女なのである。

 近現代の総力戦にあっては、非戦闘員たる銃後の女性も軍需工場などの生産現場に立ち、それまで男性中心だった職種に進出する。総力戦と女性の社会進出には正の相関性があるのだ。その意味で、1940年代前半は日本女性の集合的ジェンダーが目覚しい変容を遂げた時期に当たる。静から動、柔から剛へと変身する非常時の女性たち。鉄帽を背負った少女はそのような時代相の鮮やかな点描である。

 前置きが長くなったが、冒頭の句にもどる。ソフトボールのピッチャーであろうか。満開の夕桜を背景に最悪のタイミングで暴投する少女。しかも1回目ではない。逸れたボールはあらぬ方に転がり、走者は次々とホームインする。守備チームの歎息が聞こえて来そうな場面であるにもかかわらず、読後感はからりと明るい。少女の自由闊達さ、有り余るエネルギーが紙背から照射されているからである。

 この句が作られたのは、1989年頃。平成バブルのさなかである。1986年4月の男女雇用機会均等法施行後、狂熱的な好況といういわば経済の総力戦の時代を迎え、空前の売り手市場となった雇用情勢のもと、総合職採用の女性が大挙して企業社会に飛び込んできた。1940年代前半と同様、女性の社会進出が一気に加速した時期である。葦男の句集収録作品において「少女」を詠んだ最後の句となった本作品もまた、いみじくも女性の社会進出の時代の所産であった。


★―8青玄系作家の句/岡村知昭

 いつからの癖 あなたの胸で爪噛むのは   黒原ます子

 彼女は戸惑っている、そして自分自身が嫌でたまらなくなってしまいそうである、なにしろ恋人の抱擁のまっただなかにあるにも関わらず、なぜか「爪噛む」自分なのである。彼に対する感情がどうこうというわけではないはずなのに、恋人からの抱擁を真正面から受け止めることができない自分なのである。肝心のときになぜ、との思いが彼女の心に重くのしかかるなか、そんな彼女の感情を知ってか知らずか、恋人からの抱擁はさらに強く、熱さを帯びてくるものとなる。それとともに彼女はさらに強く「爪噛む」自分に出会ってしまい、自己嫌悪に爪も心も荒れ模様というところであろうか。しかし彼女のそんな堂々巡りにどこかいじらしさとかわいらしさも感じ取れてしまうのは、彼女が「爪噛む」のは恋人との関係においての自分自身のありようへの不満がもたらすものであるのを、本人が一番わかっているからだ。かつてジュディ・オングが歌った「魅せられて」(作詞は阿木耀子)には「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という一節があったのだが、この句の「好きな男の腕の中」にいる彼女には、いまやそんな余裕すらないのである。

 掲出句は1965年(昭和40)11月号に掲載。現在『俳句現代派秀句』(1996年1月 沖積舎)に収められている伊丹三樹彦の選評を以下に引いてみる。

 これは又、大胆なベッドシーンの接写ではないか。といっても、猥らな感じはさらさらなく、あるのは愛する相手(男)の胸の中でするおのが行為をいぶかしむ作者(女)の大人っぽい感傷であり、情感なのである。(中略)

 「おのが行為をいぶかしむ」女性像の居場所を、三樹彦は「ベッドシーン」に設定し、そこから鑑賞を進めてゆく。この設定の仕方のほうがよほど大胆ではないだろうかというのは置いて、この読みを進めることによって狙っているのは、女性像をより裸身に近い形で鮮明にすること、さらには彼女の行為を通して男女間の物語への想像力をより読者に対して喚起してゆくことの2点にある。その狙いがどこまで達せられたかはさておき、このときの評者の脳裏にはまぎれもなく、日野草城の「ミヤコホテル」の句の数々がよぎっていたであろうことは想像に難くない。「ミヤコホテル」の3句目から5句目、新婚の妻と迎える「ベッドシーン」は次のように展開してゆく、自分の行為そのものに対して、決していぶかしむことのないままに。

 枕辺の春の灯は妻が消しぬ     日野草城

 をみなとはかゝるものかも春の闇

 薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ


 その上で掲出句に戻ってみると、「をみなとはかゝるものかも」とクライマックスを巧みにぼかしながら想像力を強く喚気させるのとは対照的に、クライマックスを過ぎた気だるさは確かに感じられる部分はある。だが、より具体的な鑑賞を進めようとするあまり、彼女の心象をどこかで取りこぼしてしまわっていないだろうかとの危惧もまたある。掲出句はどこかで「をみなとはかゝるものかも」との男性の期待に「大人っぽい感傷であり、情感」をもって応えていながら、一方においては抱擁のまっただなかにありながらまとまりのつかない苛立ちに心揺さぶられる姿を描くことで「をみなとはかゝるものかも」との視線に対する疑問を読者に対して突きつけてくる。彼女はいつでもどこでも、恋人の抱擁にただ喜んでいるだけの「かゝるものかも」ではないことを描く作者の目線は、どこか恋人の抱擁のまっただなかで「爪噛む」彼女の苛立ちのようにも見えてしまうのである。

 最後に別の一句(「夜の渚で ひろった あなたの冷たい耳」)の評の一節を引いてみたい、どうやら作者の「わたしは『かゝるもの』では決してありません」との声に、決して気づいていなかったわけではなさそうなのがわかる評である。

 この種の俳句では、いうまでもなく草城に秀れた先業があるが、ます子の仕事は、より主体的であり、より具象的であるところに、やはり戦後を濃厚に感じさせてくれる。


★―9上田五千石の句 / しなだしん

 柚子湯出て慈母観音のごとく立つ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十六年作。

 男性作者の女性を対象にした句というのは基本的には「恋の句」となるのが一般的だろうか。

 女性が詠む恋の句は、情念的であったり、傷心的であったり、あるいは女性の身体を詠うことで恋心をあらわし、一般的にも受け入れやすく、秀句として残る作品も多い。

 一方、男性が詠む恋の句は生すぎるのか、どこか嫌味に受取られるのか、市民権を得られていないようだ。だが森澄雄や鷹羽狩行の「妻恋い」や蜜月俳句のように、妻を詠んだ句は語り継がれる作品も多くあり、一線を画す。その違いは単純だが「恋」と「愛」の違いということになろうか。

     ◆

 掲出句も、妻を詠んだ句である。

 厳密に言えば「母」である妻の母性と、その母性をたたえる妻の姿にはっとし、さらに愛を深くした句、といえるかもしれない。

 この句の年、五千石は28歳。同年9月23日、長女日差子が生まれている。

 この句について、自註(*1)に〈母は私をみごもったとき、狩野芳崖描く「慈母観音」の写真版を掲げて、胎教としたという。これは眼前の柚子母子〉と記している。

 また著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中では、その狩野芳崖の慈母観音がなんとなく脳裏に焼き付いてしまった、と書き、〈ある日ある時のでない、昭和三十六年十二月の冬至の夜の母子入浴後の姿〉として〈眼前に、私の「慈悲観音」像となって再現された〉と記す。

 慈母観音の絵を胎教に、というのも面白い話だが、それが五千石に伝えられ、五千石もそれをずっと覚えていた、というのも何だかすごい。

     ◆

 この句は「柚子湯」が効いたのかもポイントだが、「柚子湯」といえば「風邪を引かない」ということからも子への親の愛情を感じることもできるし、柚子湯のころの寒さを考えれば、風呂上がりの体からは湯気が立ち上っていたことは想像に難くない。

 慈悲観音は菩薩であり、その像は赤子を抱いた姿のものも少なくない。この句の観音である五千石の妻、霞の腕には生後三ヵ月ほどの長女日差子がしっかりと抱かれていたのだろう。

 湯気は「柚子」色のイメージを纏い、まるで後光がさすようだという感覚も頷ける。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


★―10楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

 妻よわが死後読めわが貴種流離譚

『楠本憲吉集』より。

 貴種流離譚とは高貴な身分の者が、親たちにはぐれて数奇な境遇をたどり、悲哀を舐めて再び高貴な身分に戻るという伝承類型であり、日本であれば源義経や塩冶判官などの物語をいうことになる。

 一言で言えば、まことに気障で嫌みな俳句である。自らを貴種ととらえ、いくつか職場を転々とした経験を流離と詠んでいるのだが、傲慢きわまりないというべきだ。おまけにそのシチュエーションを、自らが妻に語る場面としているのだからやりきれない。おそらく妻は「また言ってんのね」とせせら笑っているにちがいないが、憲吉はそうした凍り付くような心理状況を全くカットして得々と語るのである。「死後読め」というのは生前には評価されないという言い訳を含んでいるのであろう。女性の方がしたたかであり、そんな未練な男のことなどさっさと忘れてしまうということは気がつきもしない、妻は綿々と自分の回想に耽ってくれると思うお馬鹿な男なのである。

 もちろん憲吉はある意味で貴種であった。職業・俳句も流離であったことは間違いない。楠本家系図と、憲吉年表を見ればそれは証明してくれる。この句なかりせば、私も「戦後俳句を読む」で憲吉を書くに当たって貴種流離という言葉を不用意に使ってしまうかも知れない、そうした状況は確かにあったのである。ただ残念ながら憲吉のこの句を知ってしまった以上、あらゆる評論家にこの言葉は禁忌となる。憲吉の言葉を真に受けてしまってように思われて、評論家の沽券にかかわるからである。

 俳句については別に語る機会があると思うが、職場については自らこんな風に語っている。田中千代学園短期大学教授に就任し、殊勝にも「ここで老ゆべし女子大学の青き踏む」と詠んだが、14年間つとめた挙げ句田中千代学長から解雇を言い渡された。理由は、休講が多いのと教授会に出席しないこと。全く自業自得である。

 というわけで、この句は憲吉の数ある句の中でも愛唱に値する名句である。私個人としても、憲吉を知るために後世にぜひ残ってほしい。


★―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】⑥⑦/ 北川美美

⑥ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 骨太な男の匂いがする句である。

「ばんあまきちらすちちなるくいひとつ」

 こうすると、「ちち」がかわいいヌードになり、鎧が外されたようにみえてくる。しかしひらがなにしたからと言って意味は降りて来ない。まずは親近感を持ち声にしてみる。何度も復唱する。再び凝視してみる。

 通常であれば、上から素直に主格を探し句意をかみしめるだろう。しかし、この句は隠れた助詞の読み方により主格が覆される。後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし「晩鴉を撒き散らす」という読みを推奨したい。「撒き散らす」は空一面にカラスが飛び交っている様子、ヒッチコックの映画『鳥』のようなサイコサスペンスである。赤赤とした空にけたたましく飛ぶ黒いカラス。父であろう杭が、大地の男根そのもの、あるいは人柱のように打込まれている。社会のために枯渇して死んだ男の碑かもしれない。その上をカラスが祭のように飛び交うのである。

 「晩鴉(ばんあ)」という言葉に漢語からくる瀟洒で知的な響きがある(*1)。それに対して「撒き散らす」は乱暴と言えば乱暴な負の印象である。鴉は、腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の化身のように言い伝えられ、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。しかし、その逆に神話・伝承では、世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」として崇められてきた鳥でもある。ここでは「晩鴉」を神の化身と捉えたい。まるで祭であるかのように鴉が鳴き叫ぶその異様な景は、家を、国を、社会を支えてきた孤独な男である父への「挽歌(ばんか)」と掛詞になっていなくもない。『男たちの挽歌』(1986年香港・チョウユンファ主演)はハードボイルド映画だけれど、『眞神』は俳句のハードボイルドである。烏(からす)を撒き散らすのではなく敢て「晩鴉」を撒き散らしたことにその緊張感が生まれているのだろう。

 母に続く、父の登場である。

 再び高柳重信の『遠耳父母』より父の句を引く。


沖に

父あり

日に一度

沖に日は落ち


 重信の父は沖に遠い。敏雄の父は大地に根付き生活臭、家族臭がある。そして『眞神』の中の母は女、父は男として位置を示してくる。重信、敏雄の両者が父母を題材にした句を意識的に発表していることに互いの影響力を大いに感じ、それぞれの精神的内部を垣間見る像として浮かび上がってくるようだ。『眞神』の中の父、母の句のプロローグである。

 そして助詞を省いた敏雄の句に、「言葉」の力を信じようとする厳格な姿勢が伺える。散文的な内容、句意よりも言葉。雰囲気ではなく言葉。欲しいのは言葉。言葉がもたらす響き、陰影、情念、知性、過去、未来・・・言葉の力を改めて推し進め句意を排除しているようでもある。『眞神』が難しいと思うのは、この助詞の省略、切れをどう読むかにより読者の品格すらも疑われる怖さも秘めるからだ。言葉が一句の中で回転し、無言に立ち上がり器械体操のように動きだす。読者自身が着地点を定めるしかない。それが昭和48年発刊以来『眞神』はいまだ人気の句集である所以だろう。

 「晩鴉撒きちらす」を司祭のように飛び交う鴉たちの光景と思うと、上掲句は『眞神』のタイトルとなった、#55句目の「草荒す眞神の祭絶えてなし」と呼応するように思えてきた。『現代俳句全集 四』(立風書房)に収録された『眞神』ではこの#6「晩鴉撒きちらす」を冒頭句に配置換えしている。改めて#55句目で再検証したい。


*1)「晩鴉(ばんあ)」は夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスである。戴復古の詩に「煙草茫茫帶晩鴉」の一文がある。「遠くの霞んだ草むらは、ぼうっとして果てしなく、夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスの姿が長く列になって続いている。」というものである。「晩鴉」は、人に例えるならば晩年、季節ならば秋だろうか。


⑦ 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 七句目にして俳句で見慣れた言葉に出くわし懐かしくもあり安心もする。穴のリフレインとともに蝉と蟻の季重ねは、逆に古典的ともいえよう。

 確かに蝉の穴は蟻の穴よりも静かである。蝉は地上にでるまでに数年を費やし、自力で土を掻き除けて地上にでる。蝉の穴は蟻の穴よりも深く暗く大きい。「よりしづかなる」とう表現により、「意外にも蝉の穴の方が静かではないか」という驚きとも読み取れる。また闇である穴を比較し涅槃の選択をしているようにも読める。

 蝉の幼虫における地下生活は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ恐るべき小動物である。蝉の地中での生活実態はまだ明らかになっていないことが多いらしい。穴を詠みつつ命の時間を暗示している点は見落とせないだろう。充分にアフォリズム的な深読みを読者それぞれが楽しめる。

 深読みをしてみよう。イソップ童話の「アリとキリギリス」の結末はさまざま改変がされ続けているらしいが最も有名なのは、ウォルト・ディズニーの短編映画で、アリが食糧を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するというもの。地中海南欧沿岸のギリシアで編纂された原話では本来「アリとセミ」である。冬まで生きられないセミがクライマックスで食糧を懇願する矛盾はあるが、掲句に重ねるならば、地中に出たセミから物乞いされたアリが、「永年地中にいたセミが穴からやっと出て行ったが、静かであると同時に物寂しい」とアリ自身が思っているという見方も考えられなくもない。

 蟻の穴は迷路のように複雑で沢山の同胞がうごめいている。『蟻の兵隊』(2006年/監督:池谷薫)というドキュメンタリー映画の中で日本軍残留を強いられ蟻のようにただ黙々と戦ったという証言が脳裏をよぎる。蝉の穴は大きく暗く深く、まもなく、あるいはすでに命が消えているかもしれない。涅槃として考えるならばどちらがよいのだろうか。両者とも過酷な涅槃の穴である。

 上梓から39年目の『眞神』の地中で過ごした蝉の幼虫は今年もしずかに地上に這出てしずかな穴を残すのである。


⑧ 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋

 複雑な句である。

 火の気、花、秋が、「なく」「あそぶ」「あり」「急ぐ」で繋がっている。ジグソーパズルのようだ。一句の中の動詞、形容詞の多用は新興俳句、ことに戦火想望俳句に多くみられる。

 射ち来る弾道見えずとも低し 『弾道』

 そらを射ち野砲砲身あとずさる  〃

 ⑧にみる動詞、形容詞の多用は、「新興俳句は壊滅した」(渡邊白泉全句集・帯文)と言い切る敏雄の帰るところのない修練なのだろう。動詞の多用による散文化を拒む敏雄独自の創作の視点がみられる。そして「季」について考えるつづける吐露のようにも思える。

 「火の気なく」と言えば、火がない、あるいは人がいない様子。「あそぶ花あり」とは、はっきりとした目的をもたない花の動作、あるいは、華やかな女性の様子等が想像でき多義である。「急ぐ秋」は、足早に秋が過ぎゆくとともに人生の残りの時間を考えているようにも読める。

 ここでは「あそぶ」と「急ぐ」、「花」と「秋」が対極になっているのが面白い。意味よりも、技法的試みがこの句には見られる。⑦⑧⑨に関しては、言葉の繋がり、遊び、一句中の言葉の配置、句集中の配置に目が行く。


⑨ こぼれ飯乾きて米や痛き秋

 ⑧の「急ぐ秋」につづき「痛き秋」である。身近な言葉で先人たちが多く詠んだ「秋」という壮大な詩歌の季の原点に還っていることに気が付いた。『古今集』の時代には、秋を時間とともに物が移ろう悲しい季節と感じていた。「急ぐ秋」「痛き秋」は、詩歌が生まれた頃の秋を現代に通じる季として言い換えているように思えるのである。

 「こぼれ飯乾きて米や」は、確かにありえる風景である上に、上五中七の12音で水分が抜ける時間経過を示し、且つ古俳句の趣がある。下五に「痛き秋」を持ってくることにより、さらに敏雄独自の風格が出たのだと思う。

 「痛き秋」が米が刺さって痛いのか、痛切な心情を言っているのかは、はっきりと理解できない。しかしながら「痛き」という響きがすでに人の心に刺さってくるような、視覚からもジンジンくるような感覚はわかる。

 また「こぼれ飯」とは、当然、食事中、配膳中にこぼれた飯のことだろう。確かに「飯をこぼす」「食事をこぼす」という。「飯」ではなく「米」をこぼす句は過去に作例がある。「立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷」は、葛西橋に闇米の検問所があった様子の句らしい。さらに「こぼれ米」について甲乙つけがたい下記例句があった(@日めくり詩歌 高山れおな風)。

 逆立つは屍の黄金虫こぼれ米   山本紫黄

 尼たちの菫摘みけんこぼれ米   桜井梅室

 「米」をことさら大切にする国民性だからこそ「こぼれ米」が効く。ならば敏雄の「こぼれ飯」もそれと同じ効果がある。「こぼれた飯が乾いて炊飯前の米になった、痛い秋だな」という以外多分何も言っていないのである。

 ⑦⑧⑨は俳句の軽みを思いながら読み進めることができる。その中で特に⑨は秀句として取り上げられることが多い。古俳句の趣と「痛き」による感覚表現が時代をクロスオーバーしているからだろう。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 荷一つの夜店をひらく女かな

 今回のテーマは「女」である。正直に告白すれば難渋した。前回述べたように、千空作品の中で、「男」の姿は明確な輪郭をもって立ち上がってくる。北の大地で懸命に生きた農夫たちである。それに対し、「女」を描いた作品がいまひとつ脳裏に浮かんで来ないのである。

 千空作品で取り上げられた女性といえば、まずもって母ナカと妻市子夫人であるが、彼女たちはむしろ「家族」という範疇で捉えるべき存在であろう。また、義母や伯母を詠んだ作品もあるが、これらも親類縁者という位置付けで考えるべきである。

 一方、第8回(テーマ:肉体その他)で取り上げた、

 虫送る生身の潤び女たち   『白光』

の句や、

 雪やぶは女体の丸さ奥津軽   『白光』

などは「女」という性を取り上げて印象深い作品ではあるが、著しく象徴性が高い。

 一時は、「具体的女性像が描かれていないのが千空作品の特徴だ」と結論付けて、半ば居直ろうかとも思いかけたが、句集をもう一度読み返し、あらためて「女」の句を拾ってみた。以下に幾つか記してみよう。

 一つのカテゴリーは、前回の農夫の鏡写しのような農婦の句である。

 腰太き南部日盛農婦かな   『天門』

 新米を大きく握る農婦かな    『忘年』

 もう一つのカテゴリーは、千空がある時期深く傾倒した太宰治関連の、

 美しき白服の人園子なり   『忘年』

 太宰忌や雨に花咲く女傘   『忘年』

などである。ちなみに、一句目の「園子」は太宰の娘、津島園子である。

 だが、どちらのカテゴリーの句も、「女」をテーマとした千空の代表作というには何か物足りない気がした。

 あきらめかけた頃、目に止まったのが掲出句である。

 第3句集「天門」所収。

 奇を衒った叙法もなく、句意は平明。だが、一読後鮮やかに一つの景が目に浮かぶ。少し蓮っ葉な感じの女でもいいだろう。何しろ女一人で夜店を切り盛りし、生き抜いてきたのだから。上五の「荷一つの」という措辞が、その女の今の姿を活写し、さらにはそれまでの人生を暗示するようである。

 千空の眼差しは、慈愛に満ちたというより、むしろ淡々とそうした女性の姿を捉えている。しかし、決して突き放してはいない。淡々と詠むことで、かえってそうした女の姿あるいは人生を己に引き寄せているような印象がある。千空らしい「女」の詠み方だと感じた。