2026年10月23日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第34回)各論:後藤よしみ、村山 恭子

★ー3高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く12  後藤よしみ

 第3部 

新俳句詩法の検証  3


1 「垂直の力学」の妥当性――八作家による検証

 ――高柳重信を離れて、方法の有効範囲を確かめる一 高柳重信から離れてみる

 これまで、高柳重信の作品を読むために、「垂直の力学」という一つの読みの方法を考えてきた。

 その中心に置いたのは、四つの原則である。

 第一は「語彙の地質学」である。言葉を、その場に置かれた一つの意味だけで捉えるのではなく、その語が背負っている歴史、文化、記憶、身体感覚などの層まで含めて読む。

 第二は「倒語法の再編」である。通常の語順や文法、意味の結びつきを組み替えることによって、言葉の関係を揺さぶり、表面には現れていなかった意味の可能性を開く働きである。ここで重要なのは、語順を変えること自体ではない。その組み替えによって、意味がすぐには確定せず、読者が言葉と言葉の関係を捉え直すことになる点である。(このとき、作品の表面にとどまっていた意味が揺らぎ、その背後にある記憶、感情、歴史、身体、存在などの層へと読みが進むことがある。倒語法の再編は、意味を宙吊りにするだけでなく、その揺らぎを通して、表面から深層へ向かう運動を生み出すのである)。

 第三は「沈降の力学」である。表面にある物象や言葉が、身体、記憶、歴史、心理、存在など、より深い層へと沈んでいく運動である。

 第四は「深層の噴出」である。沈降した深層のものが、突然、具体的な言葉やイメージとなって作品の表面へ現れる運動である。

 これまでの高柳重信の検証では、この四原則を組み合わせることで、作品の表面に現れた言葉の背後にある深まりを読み取ることができた。

 しかし、ここで一つの問題が生じる。この方法は、本当に高柳重信に固有の読み方なのだろうか。

 高柳重信の作品をよく知っているからこそ、その作品に合わせて「垂直の力学」を発見してしまったのではないか。もしそうであるなら、「垂直の力学」は高柳重信を説明するための特殊な方法にとどまる。

 そこで、いったん高柳重信から離れてみることにした。対象としたのは、現代俳句のなかから選んだ八人の作家である。

 大岡頌司、富沢赤黄男、加藤郁乎、金子兜太、飯田龍太、森澄雄、桂信子、稲畑汀子。作風も、言葉の扱い方も、作品の立ち上がり方も異なる作家たちである。

 ここで確かめたいのは、「この八人も高柳重信と同じ方法で読めるか」という単純な問題ではない。むしろ、「垂直の力学」という読みの枠組みが、作家を越えてどこまで有効なのか。 

という問題である。


2 八作家を選んだ理由

 八作家を選ぶにあたっては、できるだけ高柳重信とは異なる作品世界を含むことを意識した。前衛的な言語操作を中心とする作家だけを集めれば、「垂直の力学」が働くのは当然だという結果になりかねない。

 そこで、言語の実験性が強い作家だけではなく、自然、身体、生活、時間、他者、文化など、異なる方向から俳句を形成している作家を含めることにした。

 大岡頌司、富沢赤黄男、加藤郁乎には、言葉や物象の組み合わせによって、通常の意味関係を揺さぶる作品がある。

 金子兜太には、身体と自然、個人と歴史、生命と社会を交差させる作品がある。

 飯田龍太には、自然と人間の生活空間、時間と記憶が重なり合う作品がある。

 森澄雄には、生活や身体、家族、時間などを通して、日常の表面から深い認識へ移行していく作品がある。

 桂信子には、身体、他者、自然、記憶などが密接に関係する作品がある。

 稲畑汀子には、日常的な知覚や自然、生活のなかから意味を立ち上げていく作品がある。

 このように異なる作家を対象にすることで、「垂直の力学」が特定の作風や形式に依存しているのか、それとも俳句を読む際の一般的な分析枠組みとしてある程度機能するのかを検討できると考えた。

 もちろん、八人の作家を検証したからといって、その普遍性が証明されるわけではない。ここで行うのは、あくまで「適用可能性の検証」である。


3 検証方法

 検証の方法は、高柳重信の場合と基本的に同じである。それぞれの作品を、まず作品として読む。

 そのうえで、四原則を順に確認する。

 第一に、語彙の地質学が認められるか。一つの語が、単なる表面的な意味を越えて、歴史、文化、身体、記憶、心理などの複数の層を持って働いているかを見る。

 第二に、倒語法の再編が起きているか。通常なら結びつかない語が結びついているか。語順や構文、イメージの配置が、意味の通常の流れを組み替えているかを見る。

 第三に、その表面の言葉や物象が、より深い層へ沈降しているかを見る。ここでいう「深い」とは、単に難解になるという意味ではない。身体的な感覚が心理へ、物象が記憶へ、個人的な経験が歴史的な記憶へ、あるいは現在の知覚が存在そのものへの問いへと移行する、といった意味である。

 第四に、沈降したものが再び作品の表面へ噴出しているかを見る。表面に現れた一句の具体的な言葉が、単なる説明ではなく、その背後にある深層を読者に感じさせる働きをしているかということである。

 また、この四原則だけでは作品の違いを十分に捉えられない場合には、これまで用いてきた六つのモジュール――身体、音韻、視覚、歴史、主体心理、受容・読者――を補助線として用いた。

 重要なのは、四原則を作品に無理に当てはめないことである。四原則のすべてが確認できない作品については、そのこと自体を結果として記録した。この点は、今回の検証では特に重要である。


4 八作家の検証

 八作家の作品を検討すると、垂直の力学は、作家によって現れ方を変えながらも、一定の範囲で確認することができた。ただし、その現れ方は一様ではない。

1) 大岡頌司 

例句 

桶水よ退け

ふるさとに

船の樹はなし

 大岡頌司のこの句は、「垂直の力学」が生活や記憶の表層から、失われたものの深層へと沈降し、そこから不在の感覚が再び立ち上がる構造として働くことを示している。

 「桶水」「ふるさと」という日常的な語から、「船の樹はなし」という特異な不在の像へ移行することで、具体的な場所が単なる故郷ではなく、記憶の奥にある喪失の場所へと変わる。

 高柳の垂直性が言語・歴史・神話の深層へ向かうのに対し、大岡では、生活語の表面から記憶と不在の深層へと沈降する。ここでは、記憶・不在の垂直性が成立している。

2) 富沢赤黄男 

例句 

蝶墜ちて大音響の結氷期

 富沢赤黄男のこの句は、「垂直の力学」が前衛俳句において、世界のスケール・硬度・時間を変容させる構造原理であることを示している。

 「蝶」という軽く小さな生命が「墜ちる」ことで「大音響」が生じ、さらに「結氷期」という地球史的な時間へと一挙に下降する。ここには、軽→重→硬、現在→地球史という下降線が引かれている。

 高柳が言葉の沈降、大岡が記憶の沈降を示すのに対して、赤黄男では物象そのものが物理的・時間的な深層へ移行する。そこには、物象・物理的垂直性と呼ぶべき独自の形がある。

3) 加藤郁乎 

例句 

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン

 加藤郁乎のこの句では、「垂直の力学」が、単一の物象や記憶の奥へ沈降するというより、言葉の背後に幾重もの文化的・歴史的・身体的層を立ち上げる運動として働いている。

 「とりめ」「めらんこりい」「子供屋」「コリドン」という異なる語層が連続することで、身体、感情、江戸の文化、近代西欧の文学・思想が一つの言語空間に重ねられる。その結果、一句の表面から、その背後にある文化的・歴史的な層が次々に浮上する。郁乎の垂直性は、語の下に潜む文化層・歴史層を掘り起こす言語・文化的垂直性として捉えることができる。

4) 金子兜太 

例句 

梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 金子兜太のこの句では、「垂直の力学」が、身体的・生活的な表層から、生命や歴史、社会的な深層へと視野を拡大する運動として働いている。

 「梅」「庭」という身近な春の風景に、「青鮫」という海の生物が突然現れることで、日常の空間はそのままでは説明できない生命の世界へと変容する。ここで重要なのは、奇異な取り合わせそのものではなく、その背後から人間と自然、個人と生命、生活と歴史をつなぐ深層が立ち上がることである。兜太の垂直性は、身体から生命へ、生活から歴史・社会へと深度を増していく生命的・歴史的垂直性として特徴づけられる。

5) 飯田龍太 

例句 

一月の川一月の谷の中

 飯田龍太のこの句における「垂直の力学」は、前衛俳句のような激しい落下や衝突ではなく、自然の表層から、その背後にある時間・記憶・存在の深層へと静かに沈んでいく運動として現れている。

 「一月」という時間が「川」と「谷」に重ねられることで、単なる冬景色ではなく、自然の内部に蓄積された時間が感じられる。「谷の中」という空間的な深まりも、世界そのものの内部へ視線を導いている。龍太の垂直性は、自然景から時間・記憶・存在の深層へ静かに沈降する自然的・存在的垂直性として捉えることができる。

6) 森澄雄 

例句 

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ

 森澄雄のこの句では、「垂直の力学」が、日常的な夫婦の関係から、時間や生のあり方へと意味が沈降していく運動として働いている。

 「妻がゐて」という日常的な状況から、「夜長を言へり」、さらに「さう思ふ」へと進むことで、外部の出来事が作者自身の認識へと入り込む。「夜長」は単なる季語ではなく、妻と共有する時間、生きていることの時間へと深められていく。森澄雄の垂直性は、生活の表面から時間・関係・存在の深層へ沈み込む日常的・時間的垂直性に特徴がある。

7) 桂信子 

例句 

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 桂信子のこの句では、「垂直の力学」が、身体的な行為から、他者との関係、さらに生の感覚そのものへと深まっていく。

 「着て」という身体の動作から、「ひとと逢ふ」という他者との関係へ、さらに「蛍の夜」という自然と時間の世界へ移行することで、日常的な行為の背後にある身体、他者、孤独、生命の感覚が立ち上がってくる。「ゆるやかに」という語が、その移行を急激な断絶ではなく、静かな深まりとして支えている。桂信子の垂直性は、身体から自己と他者、生の深層へ沈降する身体的・関係的垂直性として捉えられる。

8) 稲畑汀子 

例句 

一枚の障子明りに伎芸天

 稲畑汀子のこの句では、「垂直の力学」は、前衛俳句に見られるような破壊・落下・沈降としてのみ働くのではない。

 「障子」という日常空間の薄い境界を「明り」が透過することで、生活の表層から「伎芸天」という古代・仏教・芸術の文化的深層が立ち上がってくる。ここでの垂直性は、下方への沈降ではなく、光を媒介とした透過・浮上・出現として現れている。

 これは、「垂直の力学」を物理的な上下方向として理解してはならないことを示す。垂直とは、表層と深層とのあいだに生じる意味の運動なのである。


5 八作家に共通して確認できたこと

 八作家の検証から明らかになった第一のことは、「垂直の力学」が高柳重信だけに固有のものではないということである。

 もちろん、八作家が同じ方法で同じ作品構造を示したわけではない。むしろ、作家によって垂直の現れ方は大きく異なった。

 言葉の多義性から深層へ向かう場合がある。異質な語の結合から深層へ向かう場合もある。身体から歴史へ、自然から記憶へ、日常から存在へ向かう場合もある。

 つまり、「垂直」とは特定の題材や表現形式ではない。それは、作品の表面に置かれた言葉や物象が、そこにとどまらず、より深い意味の層へ移行していく運動として捉えることができる。

 また、一行形式か多行形式かによって、垂直性が決まるわけでもない。一行形式であっても、語と語の関係のなかに深い沈降が生じることがあり、多行形式であっても、必ずしも垂直の運動が強く働くわけではない。

 したがって、形式は垂直の力学を生み出す直接的な条件ではない。

 さらに重要なのは、四原則が独立したチェック項目ではなく、一つの運動として捉えられることである。

 語彙の地質学によって言葉に複数の層が生じ、倒語法の再編によってその関係が組み替えられる。そこから表面の意味が深層へ沈降し、やがてその深層が具体的なイメージや言葉として噴出する。

 すなわち、

語彙の地質学 → 倒語法の再編 → 沈降の力学 → 深層の噴出

という一連の運動として理解することで、「垂直の力学」はより明確になる。


6 しかし、垂直性は一様ではない

 一方、八作家の検証からは、「垂直の力学」が一つの固定した型ではないことも明らかになった。

作 家  ①垂直性の特徴   ②沈降・浮上する深層

大岡頌司 ①記憶・不在の垂直性 ②生活語・場所・喪失

富沢赤黄男 ①物象・物理的垂直性 ②衝撃・硬度・地球史

加藤郁乎 ①言語・文化的垂直性 ②歴史・文化・身体

金子兜太 ①生命・歴史的垂直性 ②身体・生命・社会

飯田龍太 ①自然・存在的垂直性 ②時間・記憶・存在

森  澄雄 ①日常・時間的垂直性 ②関係・時間・生

桂  信子 ①身体・関係的垂直性 ②自己・他者・生

稲畑汀子 ①透過・浮上的垂直性 ②文化・精神・芸術

 これから見えてくるのは、「垂直性」という一つの方向が、作家ごとに異なる深層を持つということである。

 高柳重信では言語・歴史・神話、大岡では記憶と不在、富沢では物理と地球史、加藤では言語と文化、金子では生命と歴史、飯田では自然と存在、森では日常と時間、桂では身体と他者、そして稲畑では文化と精神へと、それぞれ異なる深まりを示す。

 したがって、ここで「垂直の力学」を一つの型として固定してしまうことはできない。

  むしろ、  

 「垂直の力学は共通するが、垂直性の現れ方は作家によって異なる」 

と考えるべきである。 


7 垂直の力学の有効範囲

 では、どこまでを「垂直の力学」と呼ぶことができるのか。

 今回の八作家による検証からは、少なくとも一つの有効範囲を設定することができる。それは、作品の表面に現れた語や物象が、その表面的な意味だけでは完結せず、身体、心理、記憶、歴史、文化、存在など、より深い意味層へ移行していく作品である。

 逆に言えば、単に言葉が多義的であるだけでは不十分である。奇抜な語の組み合わせがあるだけでも不十分である。暗示的な表現であることだけでも不十分である。

 重要なのは、表面から深層への運動が作品の内部で成立していることである。

 また、深層があるように見えるという読者の印象だけでも不十分である。作品の語彙、構文、イメージ、身体感覚などを辿ることによって、その沈降あるいは浮上の過程をある程度説明できなければならない。

 したがって、「垂直の力学」は、俳句を難解に読むための方法ではない。むしろ、表面に現れた言葉から、その言葉がどのような層を経て深い意味へ到達しているのかを確認するための方法である。

 ここで、「垂直」の意味も改めて明確にしておきたい。

 垂直とは、物理的な下方向を意味するものではない。

 垂直とは、表層と深層とのあいだに生じる意味の運動である。

 その運動は、沈降することもあれば、深層から噴出することもある。さらに稲畑汀子の作品に見られるように、光や知覚を媒介として透過し、浮上することもある。

 「垂直」という名称は、その方向性を比喩的に示しているのである。


8 次の問題――垂直だけでは捉えきれないもの

 ただし、この八作家による検証をもって、「垂直の力学」の普遍性が証明されたとすることはできない。

 対象となった作家と作品には限りがあり、作品の選択にも一定の偏りがある。また、読者がどこまでを「深層」と感じるかには、解釈の幅がある。

 したがって、今回確認できたのは、  

「垂直の力学が、多様な作家の作品を読む際にも一定程度適用可能である」 

ということである。

 しかし、検証を進めるほど、別の問題も見えてきた。作品のなかには、「深層へ沈む」というよりも、異なるもの同士が関係し、その関係そのものから新しい意味が生まれているように見えるものがある。

 自然と身体、自己と他者、日常と文化、空間と時間。

 そこでは、一つの言葉が深く沈降するというより、複数の意味領域が接触し、その境界を越え、互いの意味を変化させている。この現象を、垂直の力学だけで十分に説明することができるのか。

 ここに、次の問題が生じる。

 垂直の力学が「深まり」を捉える方法であるなら、そこにはもう一つ、異なるもののあいだに生じる「関係」そのものを捉える方法が必要なのではないか。

 この問いから、次に検討する「水平の力学」が生まれてくる。垂直と水平は、上下と左右という単純な空間的対立ではない。垂直が、表層から深層へ向かう意味の運動を捉えるものであるなら、水平は、異なる意味領域のあいだに生じる関係の運動を捉えるものとして考えることができる。

 次回からは、この「水平の力学」が、実際の作品に対してどこまで有効なのかを検証していきたい。

(つづく)


★―7:藤木清子を読む 22/村山 恭子

22 昭和12年 ⑨

 秋雨抄

あきさめのビル街ふかくわがゆける    旗艦36号・12月

秋雨のビル街を進んでいます。ビル街以外の平仮名表記が句に豊かな表情を与えます。もの寂しさのなかを進む者への共鳴感も魅力的です。

   季語=秋雨(秋)


雨ほそしビルはしづかに昼ふかき     同上

雨ほそしビルの扉つよく押して入る    同上

 雨とビルの二句。ビルの様子を詠みながら作者の心情へ重なって行きます。一句目はしづか、ふかき、二句目はつよくにより詩情が生まれ、雨ほそしと呼応しています。

   季語=無季


 不眠症

虫の音にまみれて脳が落ちてゐる     同上

 秋の象徴でもある虫の音。その音にすっぽりと包まれていると、頭の中でぐるぐるしていた思考、煩悩が取り去られました。一見では奇想な展開ですが、何度も読み返しますと自然への敬愛が感じられ句へ奥行きを与えています。

   季語=虫(秋)


秋ふかしくすしは若き妻もてる      同上

 もの寂しさや侘しさが深まる頃と若い妻を娶っている薬師。深まる秋と若さを対比しており、すっきりとした句の形が作者の心情を表わしているようでもあります。

   季語=秋深し(秋)


わが心信ぜずあきのあめに向く      同上

 私の心には不信感が生じています。秋の雨は春の雨に比べて寂しげな情景で、その寂しさに向け不信感が更に積みあがっていきます。あめに向くの措辞が効いています。

   季語=秋の雨(秋)


わが鼓動たかし夕月かくれたり      同上

 月の出が早いので、光は弱く、夜半には没するので、はかない感じがあります。鼓動の高さと夕月のはかなさを対比させ、またその月は隠れることで詩情を生み出しています。

   季語=夕月(秋)

 

■「神戸新興俳句会」発足・「京大俳句」「天の川」「旗艦」の合同句会。平畑静塔、波止影夫ら。のちに「句と評論」「火星」も参加。静塔の提唱により、「元町通六丁目  三省堂喫茶部」に「新興俳句人の倶楽部」を設置。毎週土曜日の午後六時から自由に参集。各種俳誌・伝言ノートを利用。