ちょうど鑑賞文のお話を頂いた折に、有紀子さんの『変わりゆく「子ども・子育て」と季語』(角川俳句2023年6月号)という鑑賞記事を拝見した。今回の句集序文では、結社大先輩である日原傳氏が紹介されている「人日の赤子に手相らしきもの」や「永き日の逆さに覗く児の奥歯」も母親の視点でなければ作句できない秀逸であると思う。私自身も子育て当事者で改めて子育ての観点で句集を眺めると、直接的ではないが「子育てあるある」な句が多いことに気づく。そこで私は今回ストレートに子どもが題材には見えないが、子育ての当事者でなければ得られなさそうな句について、この場でいくつか紹介させていただければと思う。
蜜を吸ふ総身の震へ黒揚羽
子育てをしていなくても揚羽の句は作れるが、そうではない。単なる吟行の写生句ではなく、子どもと一緒に半ば強制的に見ている蝶で詠んだ句ではないかと思う。子の育ちとともに親は学び直しの連続である。子育てしていなければ記憶の彼方にあるような中南米の生き物・昆虫や新幹線の名前、ミニトマトの育て方、カブトムシの捕まえ方などを学ぶ。句に戻れば、紙切れのような薄い体で蜜を吸っている様を「総身の震へ」と記すことで、揚羽の蜜を吸う行為をよく捉えている。子と一緒に蝶の飛んでいった先を追いかけて得られた成果なのではと思う。
八月の折紙の裏みな真白
折り紙は子育てをしていなければなかなか触れる機会がない。渡部家でもそうだと思うが、子どもの片付けない折り紙が散らばっているのであろう。「裏みな真白」は子の代わりに部屋を片付ける親の小さな発見である。「真白」が「八月」と良い組み合わせであると思う。
八月という太陽の光が厳しく、そこら中にあるものが反射をして白く見えること、また敗戦記念日という「リセット」の意味もあるように思う。また八月という季語は子が一日中家にいて、親としては試練の季節である。
長き夜の耳繕へるテディベア
どんなに新しい玩具を買ってきても、お気に入りのモノが子どもには一つか二つはある。ぬいぐるみであればたまに洗うことはあっても、徐々にくたびれてくる。当然ほつれてもくる。他人からすれば中古玩具なのだが、子ども本人にしてみれば宝物でありそれを直す母、と暖かい鑑賞もできる。一方で子供が寝静まったあとの親の貴重な自由時間を削ってぬいぐるみを直しているという、身も蓋もない大変さも伝わってくる。子育て中は本当に自分の時間というものが短い。
進路相談ストーブの火の盛ん
無論中学生、高校生でも同じものを見ていると思うがこれは親の俳句である。十代にはやや渋すぎる題材というのもあるが、どこか進路相談が他人事のような句である。学校行事・授業参観では教室の掲示やモノの配置、他の子の様子など、我が子もそうだが、普段どういう環境で教育を受けているのかに気が行きがちである。この句では先生と生徒が今後の進路についてあーでもないと議論が盛り上がっている。その中で第三者である作者は、石油ストーブの火力の方に気がとられている。進路相談をしている十代だと、その内容の方が題材になるであろうし、ストーブは普段から見ているから気にならないであろう。
執筆者プロフィール
嶋村耕平(しまむら こうへい) 昭和六十年生、「天為」同人。