2015年2月20日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」 その4/筑紫磐井・堀下翔



16.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.

断定の評論と疑問の評論。その二つを挙げて磐井さんは断定の評論の方がより評論としてはよい、と思っていらっしゃるわけですね。その理由は論争が不毛になるかどうかだ、と。

評論はあっても論争が進まない」とのことで、もしかしたら僕がまさに論争なき時代の人間だからかもしれませんが、現在において、論争が繰り広げられることによってすぐれた評論が生まれるシーンというのはあまり鮮明にイメージできません。このブログや「週刊俳句」といったウェブ媒体、あるいはTwitter上で多少のやり取りがあるのを見たことはありますが、論争とはそんなものではなく、俳壇全体に熱気を送り込み、後々まで思い出されるようなもの、という語感がありますがいかがでしょう。草城、草田男、犀星といった作家が評論を書きまくった「ミヤコホテル論争」などがその代表格だと思いますが、まさに「論陣を張る」という大がかりな表現がぴったりとくる思想を、雑誌の上でぶつけ、ぶつけられた方は反論を書き、雑誌はそれを載せる、そういったものを論争という言葉からイメージします。磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか。



17.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi

論争があるかないかが価値があるというより、論争のあるなしで価値が浮き彫りになるということだろうと思います。

BLOG俳句新空間で「―俳句空間―豈weeklyを再読する」を始めています。初回では、「豈weekly」の第0号(創刊準備号)に載った創刊のことば、「俳句など誰も読んではいない」(高山れおな)を掲げておきました。評論・批評中心とした「豈weekly」がどのように立ち上がったか、当時の若い人たち(堀下さんからすれば全然若いとは見えない筈ですが)が、どのように考えていたかは参考になると思いますが、実はこれと裏腹に、当時私は、「評論など誰も読んではいない」のではないかという思いが消えませんでした。正確にいえば、①評論など誰も読んではいない、②読んだとしてもしばらくすれば、溢れる日常の多忙さの中で忘れ去られそんな評論があったことさえ忘れてしまうのではないか、という不信です。

たった今出ている冊子版「俳句新空間」第3号ではこの点について少し触れた批評を書いています。この対談が更新されているころにはお手元に「俳句新空間」第3号が届いているのではないかと思いますので併せてご覧ください。BLOGと冊子の存在意義にかかわる問題にまで話を拡大していますので焦点がぼけているかもしれませんが。

それはそれとして論争があるということは、「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であり、また論争を通じて「評論が記憶に残ってゆく」ことの可能性に期待するものです。

2007年から開始された「週刊俳句」(これはもっぱら作品評が多かったと思います)、2008年から開始された「豈weekly」(その後の、「俳句樹」「詩客」「BLOG俳句空間」「BLOG俳句新空間」を含めます)が長い時間を持ち始めたことは否めません。しかし「歴史」というのはやや憚ります。
多少とも歴史に値するのは、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』ぐらいでしょうか。これもBLOGの本来の批評力からいえば、バイプロダクトです。手前味噌になりますが中西さんらと編んだ『相馬遷子 佐久の星』は一応評論・鑑賞のていをなしていると思いますが、これも本となって初めて批評されるものとなりました。

いつの間にか、雑誌の批評とBLOGの批評に話題が転じてしまいましたが、しかしこれに評論集となった評論を加えると、雑誌もBLOGも批評としての危うさが判ってくると思います。あるいは、BLOGや雑誌に掲載された批評を、単行本の評論集とすることの難しさも分かります。雑誌に掲載した時評を評論集にまとめた経験は一度ありますが、その際にはすべてを再構成する意志力が必要であるように思います。BLOGや雑誌の時評は評論集の評論たり得ないかもしれない、と時折反省してみることが必要であるように思います。もちろん、時評に現れた批評家の個性以外のものが、評論集の評論に突如現れることもないのは確かですが。

話を戻せば、BLOGの批評から論争が生まれていないのは確かだと思います。もはやそんなものは必要ないのだという答えもありますが、論争さえない所に、如何なる記憶・歴史があったのか、と考え直してみたいと思います。論争に価値があるとは思いません(社会性俳句論争、前衛俳句論争)。しかし、論争さえない社会が住みよいとも思えません。論争に変わる何かが欲しいところです。

   *    *

長くなったのでここらでいったん打ち切りますが、断定の評論疑問の評論のどちらがいい悪いではなくて、読者がどのように向かい合うかで、断定と疑問になってしまう、ということです。これは入口の議論です。入口さえ通過すれば、断定も疑問も両方の評論家の文体の差に落ち着くでしょう。それはそれで自由にやった方がいいと思います。ただ入り口で、疑問しか出ていない反論はたぶん次に続くことは少ないと思います。今回の堀下さんのように直截的に「磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか」(これは明らかに疑問形ですが、その背後にムラムラとした堀下さんの反骨・反発が見えてくるようです)と聞かれた方が、話の継ぎようもあるというものです。

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