2015年1月9日金曜日

評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その1

プロローグ

堀下、筑紫で評論や時評についての対談をやってみようという運びになった。メールのやり取りであるのでぎこちないところもあるが、結構臨場感もあるようである。おまけに途中から闖入者が登場し、少し脈絡の取りにくいところもあるが、関心のある話は何べんでも繰り返して進めばよいと思っている。 

それでは、・・・・


①筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita



石田波郷賞おめでとうございます。
祝賀会に伺えず残念でしたがいろいろなところで胴上げの写真を拝見しました。
島田牙城も元気そうで何よりです。
ところで提案させていただいた掛け合い評論をそろそろ相談したいと思います。明白なビジョンがあるわけではないので、何かご希望があればいただきたいと思います。私としては、次のような内容でいかがかと思いますが。形式も、座談会方式、往復書簡方式、かってに論文方式、何でも結構です。


なぜ私は評論を書きはじめたか
理想の評論
評論の書き方
21世紀における評論の意義
自分の評論の書き方  等々

よろしくご検討ください。

②堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 


メールありがとうございます。いつもお世話になっております。牙城さんも、ようやく退院になったようで、安心しています。

掛け合い連載の件、こちらもまだビジョンはいまいち摑んでいないので、磐井さんにおまかせしたいのですがいかがでしょうか。

ただ勝手に論文形式というのは少し難しそうだなとは考えております。内容の方はお示しいただいたものでかなり面白いお話が聞けそうだな、と思います。



③筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita




堀下さんの名前を承知したのは、今年の「里」の特集ですから、この1年で目覚ましい活躍ということになります。

早すぎるという人もいるかもしれませんが、新人の登場の仕方とはそんなものではないかと思います。

だいぶ昔になりますが、戦後「馬酔木」が、能村登四郎藤田湘子の新人を輩出させた時は、水原秋桜子が陣頭に立って努力したせいもあるかもしれませんが、わずか2年ぐらいで出るべき人は出切ってしまったように思います。新人は出る気になれば、1~2年でデビューできるのだということは、俳句が古い体質と思っている人には驚きではないかと思います。じつは、俳句が古いのではなくて、いま俳句をやっている人が古いだけなのです。

さて、祝賀会の時に逢って、お祝いを申し上げて、その上で提案しようと思ったのですが、何のことはない当日具合が悪くなって伺えませんでした。趣旨は、当日出席した北川さんから伝えてもらいましたが、せっかく、BLOGで時評や評論を掲載して頂いているので、何か共同企画をしてみませんかということでした。座談会か往復書簡のようなものとか、ということですが、段取りを打ち合わせているうちに、座談会か往復書簡そのものになっているようですので、自然に開始してしまってもいいのではないかと思っています。

テーマは特に定めませんが、お互い評論が好きそうなのでその話題でどうかと思います。例えば、先日、「俳句界」が11月号評論の復活とかいう話題で特集を組んでいましたが、堀下さんから見れば復活すべき評論等あるかどうかからして議論の余地があるでしょう。石田波郷は、俳句の晩鐘はおれがつくと言ったとか言わなかったとか話がありますが、俳句評論は堀下翔から始まると大言壮語してもいいかもしれません。・・・といったところからはじめてみましょうか。


④堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 



おお、すでにこれまでのメールも原稿に組み込まれるのですね。びっくり。承知しました。よほど往復書簡らしくていいと思います。

さて、評論のお話をしようということで、かなり楽しみです。とりあえず自分の話から始めたいと思います。「俳句新空間」では今年の6月から(始まったころは前身の「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」でした)毎月俳句時評を書かせてもらっています。その前に一度、俳誌『俳句新空間』の鑑賞をご依頼いただきまして、時評連載はその時のやりとりから始まった話でした。もともと評論的な文章を書くことに興味があったので、背伸びであることは承知で引き受けました。

磐井さんもお書きになっていますがこのところあちこちで「新人」と呼ばれます。いちおう最年少の部類なのでしょう。たとえば2014年における最若手といえば福田若之小野あらたといった名前を思い浮かべますが、彼らが『俳コレ』に入って流行り出したのが2012年の初めで、僕はまだ俳句を始めていません。言ってしまえば福田若之でさえ初めから俳句史に組み込まれたところから出発したわけです。これには参った。「史」というのは調べなければ分かりません。評論を書こうとするときにこれは明らかに分が悪い。まして時評というのは、新しい事実がこれまでの歴史にどのような形で加わっているのか、ということを考える仕事でしょうから、それを18歳がやろうとするのは難しいことではあると思います。事実、勉強不足の指摘は毎月いただきます。

時評の第1回の準備をしていた5月に「文学フリマ」で松本てふこさんにばったりお会いしました。てふこさんもかつて時評を書いていらっしゃった。「先輩ー何かアドバイスくださーい」とお願いして、カレーを食べながらいろいろと経験談を教えてもらいました。そのなかでよく覚えているのが「同じ評論でも時評が性に合う人間と歴史を掘り起こすのが性に合う人間とがいるなあ」ということです。その通りでしょう。やっていることは全く違う(ように僕には見える)。そして違っていながら、多くの批評家はその両方をこなしています。磐井さんもそのおひとりですね。時評とそうでない評論に関して、そもそもそれらはいったい何なんだ、というあたりからお聞きしたいのですが。

⑤筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita




時評とそうでない評論といってもねえ。そんな器用なことを使い分けていませんから。

本格的な評論に比べて時評は常にどこか虚しさを感じさせるものがあるだろうと思います。大体時評を書いていて楽しくて楽しくてしょうがないという人がいるのか、疑問だと思います。堀下さんはどうですか。たぶんそれは書く方が言いきれていないという思いが強いからだろうと思います。テーマを決めた本格的な評論の方が、自分で試行錯誤する楽しさが間違いなくあります。

しかし一方で、時評は「生もの」というメリットがあります。本格評論というのは、大体死体を解剖しているような気分がしなくもありません。対象となっている人も、龍太とか、澄雄とか生体反応してくれない人が多いものです。生きものに触れるということは時評をやっているからこその楽しみでしょう。

松本さんの言葉に戻ると、「同じ評論でも時評が性に合う人間と歴史を掘り起こすのが性に合う人間とがいる」は、私の以上のような考え方からすると、時評が性に合う人間なんて誰がいるのかなあと思います。ただ、それに近い分類では、調べる人間と調べない人間という区分ぐらいはあるかもしれません。これは別に調べる方が偉くて、調べない方が不勉強だというものではありません。要は中身ですから、調べないと中身が浮かび上がらない人と、調べなくても中身が浮かんでくる人といっても良いかもしれません。

本当は、時評を書いていて、それをためた後、切り刻んで並べ替えると、立派な本格評論になるという離れ業ができればこんなうれしいことはありません。日々の感性が、永遠の完成につながるなんて評論家冥利に尽きます。けれど大抵は刹那に思い付きを発語し、あとから自らの論理矛盾で苦しむという評論家が多いのではないでしょうか。

     *      *

ちょっと強引に話題を転じて、堀下さんの最近書いている時評に触れましょう。【俳句時評】「仁平勝の遊びに付き合う」が面白かったのですが、それはノスタルジーというものがどのように共有され、共有されないかというヒントがあるからです。

心理学者から聞いた話ですが、被験者に催眠術をかけて子供のころに戻すという実験があります。被験者は、例えば5歳の幼稚園児に戻って、童謡の「かわいい魚屋さん」を歌う、という行為を取るそうです。これはありえないことだそうです。なぜならその被験者の5歳のころには、まだ「かわいい魚屋さん」という曲ができていなかったからです。被験者は、思い出したのではなく、現在の視点から、5歳の幼児の状況を想定して、最もふさわしい行動をしただけなのだそうです。

私は、松本さんの話の例でいえば、どちらかと言えば調べ魔の方なので、納得できないことをよく調べますが、時々首をかしげることがあります。ノスタルジックな世界が、現実にはなかったということさえしばしばあると思います。「かわいい魚屋さん」である可能性もあるのです。

堀下さんの書いているように、下の世代が大人たちのノスタルジーに付き合ってきたという見方もできますが、じつは『三丁目の夕日』(実は見ていないので想像で書きます)と同じで、そんなものは存在しないのかもしれません。だからこそ、下の世代と大人たちがノスタルジーを共有できているのではないかということです。

これが分かると、仁平の書いた『露地裏の散歩者-俳人攝津幸彦』の秘密もわかると思います。私はこれを、書評で「センチメンタリズム」と言っておきました。仁平の俳句以上に、攝津幸彦仁平勝らの仲間たちは、ノスタルジックであり、さらにノスタルジックである以上に、センチメンタリズムに浸っていたように思うのです。もちろん、センチメンタリズム、悪くはありません。

しかし、です、しかし、評論家の本領は、調べまくって、ノスタルジーならぬ残酷な真実を示すことにあるのではないか、と、調べ派の評論家としては思っている次第です。


⑥堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 


ここしばらく「俳句史」という言葉をずっと考えています。外山一機さんの書くものの読みすぎかもしれませんが、やけに気になる。そんなものがあるのだろうか。あ、疑問ではなく、興味。俳句史に限らず歴史というものはどこで生まれているのか。

たとえば人間探求派に興味があってこのあいだ『俳句研究」1939年8月号を読みました。人間探求というフレーズの初出である例の座談会「新しい俳句の課題」です。ここから飛び出した「人間探求」がのちのちまで批評用語のようなものになっていく。いまだに草田男楸邨につながる作家の句が「こういう作り方はまさに人間探求派のそれだねえ」と言われるのをときどき見るのでまだこの言葉は生きているのでしょう。ところが座談会を読む限り、これからおれたちは人間探求派になるぞ、といったことは書かれていません。雑多な話題のなかの一つでしかない。おそらくこのあと、総合誌やホトトギス、馬酔木あたりで話題になって、それでいつの間にか定着したものと思いますが、僕はこの「いつの間にか」に胸が騒ぎます。


その「いつの間にか」を明らかにするのが歴史を掘り起こす評論ですが、じゃあ時評は歴史の中で何をしているのか、そう言おうと思ったらすでに磐井さんが書かれていました。「時評を書いていて、それをためた後、切り刻んで並べ替えると、立派な本格評論になるという離れ業ができればこんなうれしいことはありません」「けれど大抵は刹那に思い付きを発語し、あとから自らの論理矛盾で苦しむ」。せつない! 自分が時評を書くときにはいつもうしろめたさがつきまといます。まさしく思い付きの発語といった感じ。少なくともいまこれを取り上げることには意味があるだろうという直感がアリバイになっている気もします。


さて、前回の最後に「評論家の本領」という言葉が出てきました。調べまくって事実をさしだす仕事が評論である、と。本領となるとどこから聞き始めるのがよいのか迷いますが、まずはその動機が気になります。評論家はなぜ事実を調べて書くことに憬れるのでしょうか。もちろんその契機はひとそれぞれです。『俳句界』(2014.11)の「俳句評論復活へ!」が現代の俳句評論家に問うた項目には「評論を書くきっかけは?」というのもありました。たとえば中村雅樹の、一緒に吟行に行った魚目の姿を見て唐突にいつの日かこの人のことを書いてみたいと思ったというエピソードはかなりドラマチックで、一方で共感する部分も多くあります。自分の心を動かすものが何なのか、書く。言挙げという行為は快感ですから。あるいは岸本尚毅の場合は虚子について考えていることを整理するために書き始めた。「考えながら書き、書きながら考える過程が楽しい」と記事にはあります。これもまた、言葉にすることの楽しさでしょう。磐井さんも特集に登場したおひとりですが、ここには単に「沖」が評論に熱心だったことしか書いてあ りません。磐井さん自身がどういったところから評論を書き始めたのか気になるところです。


⑦筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita


あまり他の人のように得々として語るようなことはありません。ただ書いているうちに態度が少し変わってきたということはあるかもしれません。他人の作品を勝手に裁断したりしている文章を読むと、時々ムカッとします。何か、しかるべき背景や哲学を語っているならともかくも、そうでない文章を読むと、ついつい揚げ足を取りたくなるのです。何年来、そういう感覚で文章を書いてくると、どことなく、正義感のようなものが育ってきているのかもしれません。正義感などという立派なものではないのですが、おかしいことやおかしい人をたたいてみたいという気持ちです。これは文章を書くときの重要な要素であるように思います。

たとえば、長らく埋もれてきた作家で、俳句史であまりまっとうに扱われない人。もちろん、作品がいいという条件が付きますが、必要以上に無視されている作家がたくさんいます。こんな人たちを再発見することは情熱を持てることです。【注】


若手作家という人たちも、現在の俳壇では必要以上に叩かれているような気がします。『俳句界』(2014.11)を取り上げられたので、そこでインタビューを受けている国文学者の堀切実氏がこんなことを言っています。


堀切実:最近では『新撰21』(邑書林)という若手俳人のアンソロジーが出ましたけれど、あれは極めてジャーナリスティックな感覚のもので、主体的な運動とは言えない。これといった発展もなかったように見えるし、大きな意義もなかったと私は見ています。


『新撰21』に関係している私が言うので割り引いて聞いてほしいのですがそれでも、「ジャーナリスティックな感覚のもの」が悪くて「主体的な運動」でなければ文学運動でなければならないなんて誰が決めたものでしょう。いつの時代も、若い作家は大体ジャーナリズムに便乗しなければ波に乗れないものです。それくらい古い世代は、重苦しく、煩わしいものです。当時の宗匠に反発して、日本新聞というジャーナリズムに乗って新俳句を主唱した子規もそうでした。堀下さんが取り上げている、草田男波郷だって「俳句研究」というジャーナリズムに便乗しているものです。要は、便乗したうえで何を作り出せたかが問題であるわけです。

もう一つ言っている、「意義がなかった」かどうかですが、堀切さんは芭蕉の研究家ですから芭蕉につながらなければ価値がないと見えるのかもしれませんが、芭蕉などの存在すら気にしない若い俳句作家が出たとしたらそれは立派な成果だと思います。芭蕉が絶対だという考え方は、現代俳句にあってはかなりアナクロニズムに近いのではないでしょうか。

枝道にそれますが、堀切さんは芭蕉の3つの俳句原理が、近代俳句、現代俳句に大きな影響を与えているといいます――ことによると芭蕉の手の内から一歩も近代俳句も現代俳句も出ていないと思っているのではないかと思いますが――、そして芭蕉の3つの原理の影響を与えられた現代作家を、飯田龍太、森澄雄、金子兜太としてあげます。しかしこれは現俳壇の通俗的な評価を受け入れているだけで、堀切さんの見識で選ばれた作家たちではないようです。あっというような現代作家を提示してくれてはいないからです。

じつは「大きな意義もなかった」という言葉を最初に見てつい笑ってしまいました。ながらく芭蕉研究をやり、象牙の塔にこもっていた学者が、<『新撰21』は大きな意義もなかった>ということ自身、ものすごく大きい意義を『新撰21』が持っていたことの証拠ではないかと思います。堀切さんが、『新撰21』を知っているということ自体、つくづく時代も変わったなあという感じがするのです。

もちろん、『新撰21』は比喩です。『新撰21』を含めた若い世代ということです。『新撰21』はあの時の新人登場システム、あれから数年後の現在はまた別のシステムで新人が登場するということです。田中裕明賞とか、攝津幸彦賞とか、石田波郷新人賞とかです。それらをひっくるめて若手を、見る価値がないといっているのが堀切さんの発言のように思うのです。


ちょっと、話が偏りました。最初のご質問の俳句史についてはまた回を改めてお話しすることにしましょう。そのうちいい材料が出るのではないかと思います。

【注】数年前に、馬酔木の作家でありながら長らく忘れたようになっている相馬遷子に関して共同研究をして本にまとめています。中西・仲・原・深谷・筑紫編『相馬遷子 佐久の星』(邑書林)。数人の人たちとの共同作業ですが、やはりお互い、なにがしか義侠心のようなものが働いていたかもしれません。

⑧筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita


あ、今ここまで話してきて、「都市」主宰の中西夕紀さんから、ファンレターが舞い込んできました。ちょっと読み上げましょう。

「堀下様 筑紫様 
 こんにちは。磐井さんと相馬遷子研究をした中西夕紀です。俳人は亡くなると忘れ去られるようで、相馬遷子も大きな賞などとっておりませんから、忘れられていたわけです。 
それを掘り起こそうと、磐井さんの提案で始まった研究でしたが、研究が1冊本になってわかったことは、磐井さんが総論を書き、我々が各論を受け持ったということでした。 
 実のところ、この研究を始めるまで仲間の殆どが相馬遷子を知らなかったのです。研究は4冊の句集から毎週1句づつ取り上げて鑑賞していくもので、1句の背景を調べて行くうちに、遷子が生きた時代と、庶民の生活環境、遷子の医師としての仕事や思想と人柄が浮き上がって行きました。 
 鑑賞ですから、最初はかなりノスタルジーなことも書いていたと思います。5人が同時に書きますので、同じ句でもかなり解釈の違うものも出てきました。しかし、いつも最後の締めを書いている磐井さんの鑑賞に啓発されるものを感じていたように思います。 
 つまり、よく調べてあるのです。例えば、相馬遷子の住んでいた長野県佐久市は昭和40年代まで、全国一の脳卒中の死亡率が高いところでした。それを佐久市国保浅間総合病院院長の吉沢国男等の減塩運動や、佐久総合病院院長の若月俊一の無医村への主張診療のお陰で改善されたのです。その功績で若月は「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞を受賞しました。そんなことが磐井さんの鑑賞に書かれているわけです。遷子の身の回りだけでなく、もう少し視野を広げて見ていたわけです。そういうことがわかりますと、遷子の患者が卒中死が多いこともわかりますし、遷子が描く患者の句に卒中が多いことも納得できるわけです。視野を広げて調べることの重要性を学ばせて頂いたように思います。 
 そうしますと、今度は医師の仲寒蝉が脳卒中死の減少のグラフを出してきました。グラフを見れば一目瞭然で、医師の努力が如何様なものだったか納得できたのでした。
しかし、磐井さんも初めのころは小津安二郎の映画を出してきて、映画のアングルに近いという鑑賞もありましたから、ノスタルジーがなかったわけではないのです。5人の息があってきたころから、皆が色々と調べ始めたのです。
 
そして研究が終わった今、調べたものをどのように使うか、資料の少ない中で書く方法はどうするのかなど悩んでおります。 
中西夕紀 」

中西さんは、「都市」に現在、「藤田湘子研究」を書いている合間を縫って、感想を下さいました。ノスタルジーと「調べ」の関係で、苦労が語られています。


⑨堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 




「正義感」「義侠心」なるほどこれが磐井さんを評論へと向かわせているものでしたか。

それともう一つ、その動機が『新撰21』の話へと転がっていくことに、なるほどな、という感じがします。もともと磐井さんは『新撰21』あるいは西村麒麟、御中虫といった『新撰21』世代への言及が多い人だという印象があります。それが「正義感」であるという説明はごく納得のゆくものに思われたのです。今回いただいたお返事はそれ自体が若手世代に関する評論の冒頭部分か何かのようです。考えていることがそのまま評論の言葉になっているのですね。


と、ここでゲスト登場。緊張します。中西さん、はじめまして。


お手紙を読んで考えたことにまず鑑賞と研究の境目、ということがあります。中西さんが「鑑賞ですから、最初はかなりノスタルジーなことも書いていたと思います」と、すなわち「ですから」という順接の論理で書いていらっしゃった通り、俳句鑑賞とはえてして個人に引き付けられたものになってしまいがちであるように思われます。鑑賞がノスタルジーを離れること、真実を示すことに苦労が伴うのは容易に察しがつきます。磐井さんや寒蟬さんの例はだから、きわめてわかりやすく、理想的なのですが、「よく調べる」「視野を広げる」と一言で言っても、そんなに簡単な話ではないだろうと思うのです。研究・評論ということに根気がつきものであることがよくよく分かりました。

そして研究が終わった今、調べたものをどのように使うか、資料の少ない中で書く方法はどうするのかなど悩んでおります」という新しい問題も出てきました。ここのところへの言及はひとまず磐井さんにお願いしたいと思います。えーと、2014年内にこちらからメールするのはこれで最後でしょうか。来年もよろしくお願いします。よいお年をお迎えください。

⑩筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita and Yuki Nakanishi





いや、まだまだ年は終わりません。続けます。

「正義感」「義侠心」で思い当たるのは、やはり中西さんや仲さんたちと始めた「相馬遷子」研究です。少し立ち入ってお話ししましょう。遷子の名前は、私が最初に俳句を始めたとき(昭和46~7年です)に「馬酔木」で名前を知りました。なんといっても、



筒鳥に涙あふれて失語症  
      
隙間風殺さぬのみの老婆あり  
   

等の句に圧倒されました。当時馬酔木はきれいな句ばかりが多かったからです。しかしまたいっぽうで、きれいなだけの馬酔木に何でこうした社会性俳句的な句が生まれたのか不思議でした。

その後久しくたって見てみると、相馬遷子は忘れられ、ほとんど存在していなかった扱いになっていました。遷子という作家がいたよねえ、と周囲に声をかけてみるとほとんどみなさんは知らないままでした。ただ2、3人のひとが反応してくれて、それぞれが遷子の資料を調達して研究を進める準備をしてくれました。特に、遷子と同じ佐久で、医師をしている仲寒蟬氏が参加してくれたのは大きな助けになりました。長野の医療環境というのは想像を絶していたからです。中西さんが書かれているようにそれについての色々なデータ、自らの病気を医師である遷子がどう考えていたのか、などは日進月歩している医学の知識がないと遷子の心理は理解できなかったでしょう。一方、中西さんは開業医の娘という立場から遷子を観察することができました。こんな協力の成果として、日本で初めての遷子の研究が本として出版されたのです。これはそれぞれがなにがしか正義感を動かされた結果できたものと思います。

もちろん、正義感だけではこうした研究はできません。それぞれが何かの背景を持った異質な人が、協力研究して出来上がったものと思います。

しかし一方で、資料があって評論ができるものではなくて、逆に情熱があれば勝手に資料が集まってくる気もします。


【宣伝】「俳壇」2月号で、相馬遷子100句と解説を特集しています。よければご覧ください。


⑪中西夕紀から堀下翔・筑紫磐井へ(堀下、筑紫←中西)
from Yuki Nakanishi to Kakeru Horishita and  Bansei Tsukushi


今、研究の難しさを思っているところです。調べなければ書けない、勝手に自分の考えたことを書いてはいけないというところに難儀を感じています。

自分の考えは、人の書いたものから導き出されるものばかりではないように思います。直接作品から導き出されるものもあり、それは作品の上ですから、作者とは離れているかもしれません。馬鹿正直に自分を描いている俳人は滅多にいないでしょうから。俳句は短いだけに作者の意図とは違って鑑賞されやすいものです。そして、鑑賞が面白いのは恐いことですが、読み手の力量が見えるからだと思います。

わたしが難儀だと思うのは、作品から受け取った自分の思いを評論に書く場合のやり方なのです。作品としての面白さを書きたいのに、資料がなければ書けないのだろうかということなのです。それはエッセイになってしまうのでしょうか。

また相馬遷子で恐縮ですが、こんな句があります。


寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

昭和43年59歳の作です。充足感のある句ですが、「いま」という、入れなくても良さそうな言葉があって、そのために「息す」というぎこちないように見える終わりかたの句です。しかし、多分「いま」が一番言いたいことなのだと思います。この句の調べとして出て来るのは、①健康であること。②娘が去年結婚したこと。③事件がないこと、などです。つまりは調べても然程の事が出てこない句です。しかし、作者にとっては自分がもっとも自分らしい、つまり自然体の姿なのだと思うのです。「眞只中」と「いま」には重複感がありますが、それほど今に満足しているのだと思います。

こんな句に出会いますと、事実関係ではなく、句から作者にストレートにアタックしたくなるのですがいかがでしょうか。


(以下続く)

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