2015年1月23日金曜日

評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その2


12.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 


ちょうどこの一月の始めに佐久へ行きました。駅の横の観光案内所のようなところに佐久の名士が列挙されたパネルがあったので見ていたら、その中に遷子の名前もあって、このメールのやりとりが思われました。佐久ではずっと忘れられていなかったのか、あるいは磐井さん、中西さん達の研究がこの地でもまた再評価につながったのか、そのあたりの事情は通りすがっただけでは分かりませんが、とにかく2015年に遷子の名前を見るうれしさを感じました。


さて、そういうわけで、せっかくなのでもう少し遷子のお話を伺っていくつもりでいます。


中西さんがお書きになっている「難儀だと思うのは、作品から受け取った自分の思いを評論に書く場合のやり方なのです」というところ、僕もまた感じていたところです。磐井さんの書く評論はとことん資料に基づいた書き方です。真実を描き出すために、真実を積み重ねるというのは、まさに正攻法のアプローチだと思います。それは「論文」と言うときにイメージされるものに近い方法です。
がしかし、事実を取り出だす方法はそれだけではないという気もします。


寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

の周辺にさほどの事実関係がないのだとしたら、この句を論ずることは不可能である、といえばそれは嘘です。この句がたたえる充足感がどの点にかかっているのか、といったことは半ば直感的に見えます。それを言語化したものもまた評論としてあるのではないでしょうか。あるいはいきなり直感でなくとも、全句の中から他の「寒星」の句を持ってきて、そこに共通する何かしらを分析する、というのでもいい。その場合でも、最後には直感が論を左右することがあると思います。


『現代詩手帖』なんかを読んでいると、詩論というのはそれ自体が詩であることに気づかされます。どこに詩性があるか、という点は詩的直感でしか指摘できない、つまり、詩のことは詩でしか書き得ない、という印象を、詩論を読むときには思うのです。それは詩論の言葉が詩である、ということではありません。どれだけシンプルでスマートな文章であっても、論理展開が詩としか言いようがないのです。


中西さんが危惧した「エッセイ」は、そういったものと同じだと思いました。


13.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita


相馬遷子
の名前が出てくるのもうれしいものです。偶然、「俳壇」2月号で相馬遷子の作品百句を掲載してくれたので、ますます何年か前の熱気を思い出すことができました。


今回のご質問と取り上げた例はちょっと食い違いがあるかもしれません。「言語化したものもまた評論としてある」はおっしゃる通りですが、相馬遷子研究の時は参加者5人には圧倒的に、事実関係があふれていました。おそらく全員が相馬遷子はどんな人物であり、どのような俳句を詠みそうであるのかの予想を立てることができました。中西さんが言っているお話しも、事実の上での99%が分かった外側での1%ではなかったかと思います。例えばこれに引換え、攝津幸彦は、身近にいた人すらその作品の背景については知りません。作家によって背景は違うのではないかと思います。

だから、評論を書くためにいろいろ調べたのではなくて、相馬遷子がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したかを知りたくて調べたということだと思います。それくらい相馬遷子は知られてなかったといっていいでしょう。また我々が調べた事柄によって、遷子の俳句の価値も上がったとも思えません。価値があったとすればそれはそんな調査をする前からその句が持っていた価値だと思うからです。ただ、背景が浮かび上がってくると、その作家の理解はまし、また作品の理解も高まることはあるかもしれません。それはしかし二次的なものだと思います。


例えば正岡子規の、境涯を前提とした作品と、それと全くかけ離れた写生の作品と、そのどちらとも言い切れぬ3種類の作品があります。作者自身使い分けて詠んでいる可能性が高いからです(子規の場合は大半が題詠作品ですから)。それぞれの作品にはそれぞれの作品の鑑賞の仕方があるわけでこれは間違っていません。しかし、それを前提としたうえで、やはり一人の作者が作った作品として全体を統合した世界観が見えてくるときがあります。おそらくそれが評論の本領ではないかと思えます。我々は日ごろ評論の本領を得ることができない文章を何百篇も書いて、たまたま1~2編の本領を得た文章の発見に満足するのが宿命なのだという気がします。


今回「俳壇」の相馬遷子の解説記事ですこし触れておいたのですが、遷子には実にたくさんの星の句があるのです。私は、遷子の句を100句選んだのですが、そのうちの1/4は星の句となりました。ことさら選んだということもありますが、一方で、星の25句は遷子を代表しているということもできるように思うのです。

星の句を探してみるとお分かりかと思いますが、日本人は圧倒的に星を詠まない民族のようです。古い詩歌に星が登場することはほとんどありません。中国文学にもアラビア文学にも実にたくさんの星の詩歌を見ることができます。しかし日本人は自然を愛する国民だと誰も言うのですが、ただし「(星を除く)」とつけないといけないほど貧弱です。花や雪や月や霞は飽くことなく詠むのに、星の句を詠んだことのない詩人、歌人は実にたくさんいます。近代になって、西洋の文明に触れるようになってからやっと少しづつ詠まれるようになりましたが、それでも歌人より俳人は星を詠む割合が少ないようです。山口誓子中村草田男あたりからやっとちらほら見え始めるといっていいでしょうか。誓子は「星恋」というテーマ句集がありますからこれで数を稼いでいるかもしれません。ところが、遷子は違うのです。

ご存じのように遷子は長野県佐久の恵まれない開業医でした。遷子が星に向かう時、多くは、往診で山間の村を訪れ、その帰りふっと見上げるという状況が多いのですが(それも多分手遅れであったりして患者を救いえなかったということが多いようです)、不思議なことにそれらがマンネリに陥るということはありません。劣悪な地方の医療環境と星が結び付くとき、遷子の俳句精神は最高に高調するようにも思えます。もちろん、往診の時ばかりの句ではないのですが、何かが遷子を高調させているという事実は尊重しておきたいと思います。


寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子


それさえわかれば、この句の周辺事情などというものは枝葉末節に思えますがいかがでしょう。調べることの重要さと不要さがあるように思います。







  •  「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その1 》読む


0 件のコメント:

コメントを投稿