2015年9月4日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その11 …筑紫磐井と堀下翔



堀下:『関西俳句なう』(本阿弥書店/2015)については僕も思う所がたくさんあるのでぜひお話ししたいです。再読して磐井さんからの次のお手紙を待っておきます。それから前回掲出の堀下リストについてですが、あれは「俳コレ」の最年少小野あらた(1993年生)を基準にしてそれに間に合わなかった人間を数えたもので、黒岩徳将(1990年生)山本たくや(1988年生)の名前は「ふらここ」の大学卒業メンバーとして参考程度に挙げていますが、リストに入っているというものではありません。そのあたりは先に申し上げておきます。あのリストは要するに、自分たちはアンソロジーに入りようがなかったというもどかしさを抱えている世代を列挙したものです。「新撰」シリーズを読んで育ち、かつ、もし企画さえあれば自分だって入ったんだ、というくすぶった思いを胸に秘めているのがこの世代でしょう。自分がそうですから。

さて花尻万博「鬼」の話に移りましょう。はじめこの「俳人には書けない詩人の1行詩 俳人の定型意識を超越する句」という企画を目にしたとき、僕がまず感じたのは、これもまた“詩型の越境”の作品だろうか、ということでした。

「現代詩手帖」が「詩型の越境――新しい時代の詩のために」という特集を組んで現代詩、短歌、俳句の三詩形にスポットを当てたのは2013年9月号のことです。この特集を読むと「詩型の越境」の問題がいかに混迷を極めているかがよく分かります。この号では「詩型の越境」が二つの意味で用いられているのです。作品を発表している作家を見てみましょう。

高橋睦郎(融合)
中家菜津子(融合)
渡辺松男(短歌)
横山未来子(短歌)
斉藤斎藤(短歌)
兵庫ユカ(短歌)
永井祐(短歌)
安井浩司(俳句)
竹中宏(俳句)
高山れおな(俳句)
御中虫(俳句)
福田若之(俳句)

「融合」というのはいわゆる詩歌トライアスロンなどと呼ばれるもので、現代詩、短歌、俳句を1作品の中に織り込みます。それに対して他の10人はそれぞれの本領の詩型で新作を書き下ろしています。各詩型のなかで高く革新的な表現レベルで書いている作家を集めたということでしょう。そうした作品が現代詩に接近するということは往々にしてあることで、この場合はそれをして「詩型の越境」と言っています。異なる「詩型の越境」が同居しているのです。もっとも、短歌や俳句の一行が現代詩に接近しているのだとしたら、「融合」とそれ以外を分かつことにさほどの意味はなくなるのかもしれませんが、現実には三詩型の読者を余さず満足させる「融合」の書き手はまだほとんど現われていません。

2013年ごろはシンポジウムも開かれたりして特にこの話題が活発に取り沙汰されていた時期です。そのご若干の沈静化に向かっていますが、「現代詩手帖」の特集にも掲載されていた若手の中家菜津子が、このときの融合作品を収めた『うずく、まる』(書肆侃侃房/新鋭短歌シリーズ23/2015)という歌集を出すなど、ここを目指す作家はいまもこつこつと書いています。そこへ「俳人には書けない詩人の1行詩 俳人の定型意識を超越する句」という企画が出てきたわけです。

「鬼」を読んだとき、僕はうかつにも、これを詩型融合の作品だと錯覚してしまいました。その理由はいくつかあります。一つ目には、一句があまりにも短律である、ということ。一連目を見てみましょう(書いてみて思ったのですが、この句群を思わずも「連」と呼ばざるを得ない事態もまた、「鬼」が詩型融合の作品とよく似ていることを示唆していますね)。

柊や 街
祀られ鬼
言の間虎落笛する
鬼と災ふ
出口 街の川
鬼の衣冷た
塔婆、ビル日向
鉄の霊区まち
鬼 八方向交差点
街に鬼
吾の手か手袋の中動き出す

まさかこれが短律の作品だとは知らないのです。花尻万博が俳句作家であるという前提で読み始めると、僕はこれを575のリズムでどうにか読もうと試行錯誤することになります。一行目の〈柊や 街〉というのは、上五に当るわけです。ヒイラギヤマチ、というのは七音ですが、ふつうの俳句もこれくらいの字余りは日常茶飯のことですから気になりません。そうすると、二行目の〈祀られ鬼〉が中七になるのかなと見当をつけます。ただしこれは字足らずです。とすればもしかしたら一行目の〈柊や 街〉の〈街〉は中七のほうで読むのかと考えます。そうすれば一字アケの効果も見えやすい。三行目の〈言の間虎落笛する〉が破調の甚だしい下五です。僕はこの三行を〈柊や 街/祀られ鬼/言の間虎落笛する〉という多行俳句だと思ったのです。そして、それぞれの俳句と俳句との間に行アケがなく、どこからどこまでが一句なのか分からない作りが、この「鬼」という作品の狙いなのだ、と。一句一句が有機的に結びつくことによって、新しい一句が無数に生れ、最終的には最初の一行と最後の一行はひとつの作品に内包されてしまう。その姿かたちは現代詩です。はじめこれを「詩型の越境」だと錯覚したというのはこのことです。

読み進めていくうちに、どうもおかしい、どうやらこれは一行で一句らしいと気が付きましたが、読者がこれを多行俳句であり融合作品であると思ってしまうのは無理のないことではないでしょうか。理由は他にもあります。森川雅美さんが指摘している点です。森川さんは7/12の「詩客」に「「定型」とはますます分からなくなってくる」と題して本企画から生まれた作品についての見解を述べています。「鬼」についての記述は以下の通りです。

これは何なのだろうか。少しきつい言い方だが、どこが途切れかもわからずだらだらと続き、しかも行間の緊張も弱い。俳人が見ればまた違うのだろうが、正直なところ「あくまで定型を外れた」としか私には読めない。

行間の緊張が弱い。これこそ「鬼」についてのもっとも適切な指摘ではないでしょうか。〈鬼〉〈街〉〈虎〉〈旧都〉〈虹〉といったモチーフの反復は一句の独立性を危うくさせています。かつ、それらのモチーフどうしもまた、微妙に接点を持っています。荒俣宏や小野不由美の小説に出てきそうな、と言ったらすこし乱暴ですが、いずれも前時代の都市を伝奇的に彩る単語です。全行を通読したら何らかの物語が生まれてしまうのではないでしょうか。

また、〈こゑする〉というルビが執拗に繰り返されることも、一行どうしを結び付けてしまう要因です。

かつて新興俳句運動の初期において「連作」が問題になったときと同様に、一句(「一行」と呼んだ方が僕の立場からすれば正確ですが)の独立性が低いという指摘を、ここではしなければならないと思います。

ですから、「鬼」の一句一句に、正直なところ僕はいまいちノりきれていませんでした。

そのうえで、磐井さんの展開する読みには、うなずけるところがたくさんあります。ことに、

「音」から出発させて、「古池や蛙とびこむ水の音」へたどりつく道筋を花尻は示してみよ、と言っているのです。

の指摘にはなるほどと思いました。話に出てきた山頭火の文章と比較して考えてみる必要がありそうです。自分で確認してみたいので、山頭火の出典をご教示いただけると嬉しいです。


筑紫:原稿がそれぞれギリギリに届いたり、でき上ったりするものですから、話題がうまくかみ合わなくなり、今回の堀下さんの花尻作品についてのご返事は次回以降になるかと思います(実際、この文章は上に書かれている堀下さんの文章の前に書かれ、その後堀下さんの文章が届いたものですから最低限の手直しをしているわけです)。

一方、前回取り上げたいと申し上げた『関西俳句なう』については、実は「俳句四季」9月号に少し書いてみているのでこれをご覧いただきたいと思います。当月の全文を引くのは出版元に対して気が引くので、出版元の了解を得て前半だけを引用することにしました。或る程度私の感想がうかがえるかと思います。続きがあるのですが、話がつながれば続きも転載してみたいと思います。
なお、雑誌の転載なので、である調になって、読みづらいかもしれませんがお許しください。堀下さんの語りたいという『関西俳句なう』についてお話を聞ければ幸いです。

俳壇観測/ポスト『新撰21』世代の動向
――『関西俳句なう』が掘り出したもの・見逃しているもの(前)

『新撰21』(二〇〇九年十二月・邑書林)が出てから六年経ち、その後『超新撰21』(二〇一〇年十二月・邑書林)『俳コレ』(二〇一一年十二月・邑書林)とつづき、俳壇に新世代ブームが起きた。これを受けて『関西俳句なう』(二〇一五年三月・本阿弥書店)が刊行された。帯には「東京がなんぼのもんじゃ」とあるのが愉快だ。これらのシリーズにはそれぞれに特色がある。『新撰21』は前衛・伝統を超えて新しい時代を作る二十代・三十代の自選句、『超新撰21』は三十代・四十代の自選句、『俳コレ』は世代を融合させて他薦で百句がまとめられた。『関西俳句なう』は、前三者が関東に偏っていたという批判から関西だけで二六人を揃えたが、半数は「船団」所属という構図であった。
何を選ぼうと選考基準に対しては批判が起こる。すべては結果が証明すると考えておきたい。

    *     *

それでは、「船団」に敬意を表して、まず「船団」の十三人の句を紹介しよう。数字は年齢である。

粉雪が女言葉のように舞い  加納綾子26
春霞こだまですらも飛ばす駅 二木千里26
ヤドカリのように引っ越しする元彼
犯人は死んだ蛙の大合唱  山本たくや27
麦青む時間にそっと電話して 山本皓平28
カーナビの指示は直進夏つばめ 藤田亜未30
コンビニに新作の菓子春の雪
目の前に生えているのが曼珠沙華 久留島元31
若葉嵐落書きの中にわたくし 舩井春奈35
黄落の風船もらう子の多さ  藤田俊35
本屋に向かう少し汗ばんでいる 河野祐子36
さみどりの朝サイダーのはじける日
嘘なんて百万回の稲光    中谷仁美36
初雪やオランウータン嫁入りす 工藤恵41
何時までも山椒魚を見る女  塩見恵介44
この国に何にもしない俺の汗
さっきまでのキスの相手は秋の人 朝倉晴美46

「船団」以外の作家の方からも若い世代の句も紹介しておく。

木の実降る狐の面の子等の背に 黒岩徳将25
さくらんぼ咎あるごとく変声期 羽田大佑27
地球温まっているか蠅生る  若狭昭宏30
旧家とは大きいばかり目借時 山澤香奈32
鐘涼し城は星型にして未完  森川大和33
子雀のもうゐぬ風のポプラかな 涼野海音34
あたたかや人去ればまたひとりなる
人波に逆らひて行く暑さかな 杉田菜穂35

選んだのは私の恣意であるが若干の基準がある。実はそれぞれの作家の、ここで選んだ以外の作品を見ると、この世代には消費(consumption)という傾向性が強くにじんでいるような気がするのだ。瞬間の自己に忠実であるが、しかし時間の中で消えて行ってしまう自己でもある。こうした傾向は『新撰21』にも見られたが、『関西俳句なう』は一層顕著である。これに対し多分戦後生まれ世代には、克己・修業という要素が存在した。一貫してある世界を構築しようとする意志である。恣意を打ち消す自己否定である。そこが彼らと違うのだ。

 しかし、それだけでは新世代を否定することにしかならない。幸い短詩型には「多義性」という特徴がある。同じ句がAともBとも見える曖昧さである。例えば、兜太や太穂の前衛的な句を、虚子が褒めていることすらある。これは季語さえ入っていれば、前衛俳句も客観写生や花鳥諷詠の軸で評価できるという俳句の特徴であるのだ。『関西俳句なう』は消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している。そうした例として右の句を掲げてみたのだ。これが新しい俳句の姿かも知れない。









■第3回攝津幸彦記念賞(「豈」創刊35周年記念)募集‼! 

第3回目の攝津幸彦記念賞を次の要領で募集しています。

内容 未発表作品30句(川柳・自由律・多行も可)
締切 平成27年10月末日
送り先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛
応募 郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿には、氏名、年齢、住所、電話番号を明記。(原稿の返却はしません)。

選考委員は、関悦史、筑紫磐井、大井恒行となっていますが、「豈」も若返りの季節を迎えており、関委員に大部分の選考審査をお願いする予定です。予選から始まり、本選作業、選考経緯の執筆まで依頼する予定で、筑紫、大井は助言役に回る予定です。その意味では、攝津幸彦記念賞(関悦史賞)と考えて頂いてもよいでしょう。若い世代の応募を期待するものです。
 『新撰21』世代を対象とする俳句賞は今までいくつかありましたが、『新撰21』世代が選考の主役を務める俳句賞は初めてのものであろうと思っています。『新撰21』世代も早くも背後から後続世代に追われる時期となって来たのです。

第7回石田波郷新人賞が2015年7月31日で締め切りとなったので、残る3ヶ月間で是非頑張ってください。

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