自殺する、せぬ、冬天に蝶をはなち 中村冨二
(『中村冨二句集(森林叢書Ⅰ)』森林書房、1961年)
乱歩作品における犯罪(=テクストの発生)のおおくは、…イレギュラーな身体性の導入によってこそ可能となるのである。…乱歩的なイレギュラーな身体は、いわば〈特徴〉そのものである身体、まさに見世物性を負った身体なのだ。…頻出することとなるバラバラの死体も、統一された有効な身振りから疎外された身体性の志向のあらわれとみることができるだろう。
(安智史「江戸川乱歩における感覚と身体性の世紀ーアヴァンギャルドな身体」『江戸川乱歩と大衆の二十世紀(国文学解釈と鑑賞 別冊)』至文堂、2004年、p.193ー4)
「いいえ、お前の頭のせいではないのだよ。この島の旅人は、いつでも、こんな風に一つの世界から別の世界へと踏み込むのだ。私はこの小さな島の中で幾つかの世界を作ろうかと企てたのだよ。お前はパノラマというものを知っているだろうか」
(江戸川乱歩『パノラマ島奇談』春陽文庫、1951年、p.80)
暴力的にとつぜん始めてしまうと、川柳っていうのは、〈野蛮な文芸〉なのではないかとおもうんです。もしくは江戸川乱歩の多くの小説のように、イレギュラーな、合理的身体に拮抗する〈野蛮な身体〉をもつものである、と。
これは、川柳はすぐに殴りかかってくる乱暴者が多いということではなくて、形式的に〈野蛮〉だということです。だからとつぜんこするように殴りつけてきたりするわけではないんですが、形式的には川柳はとっても〈野蛮〉なんじゃないかとおもっています。
なにが、野蛮なのか。そんなことをいって怒られないのか。
これは俳句と川柳の違いをすこし考えてみるとわかりやすいようにおもいます。
俳句には季語があります。この季語というのは「季語」という文字通り、使うことによってその句の季節が決まるものです。季語というのは、船が錨をおろすように形式が季語を内蔵することによって、《俺はここにいるんだよ》という定点をつくる働きをなすものだとおもいます。だから、バラバラだとだめなわけです。たとえば、春の季語と夏の季語をふたつ入れることを「季重なり」といいますが、これはベクトルが多方向に拡散するのを防ぐ約束事(コード)ともいえるのではないかとおもいます。ベクトルは一方向にみなぎっていないといけない、というよりも季語が一方向のベクトルをうみだすわけです。
ところが川柳には季語がありません。この《不在の在》というのが、川柳の〈バラバラ〉で〈野蛮〉な形式をつくっているとおもいます。たとえば掲句の中村冨二の句の「する、せぬ」はその意味で象徴的だとおもいます。川柳的主体の基本的な視座はこのようなものではないかとおもうのです。「する」でもなく、「せぬ」でもなく、「する、せぬ」だと。そういう〈バラバラ〉を〈バラバラ〉のまま引き受けざるをえなかった文芸形式が川柳なのではないかと。
たとえばこれは象徴的な意味だけではありません。川柳はデフォルトで、身体がバラバラである場合が多いんです。からだが世界のあちこちに散乱している。その散乱のなかで〈わたし〉が〈わたし〉のまま〈よそもの〉となった身体をあちこちに散種し、産卵する。とつぜん身体がバラバラといってもふだんの暮らしのなかでは、おまえいったいどうした、と思われてしまうかもしれないのでちょっとバラバラな句を引用してみましょう。
踵やら肘やら夜の裂けめから 八上桐子
(『Senryu So vol.4』石川街子・妹尾凛・八上桐子発行、2013年晩夏)
病む指が夜へヒラヒラして沈み 中村冨二
(『中村冨二句集(森林叢書Ⅰ)』森林書房、1961年)
なぜか川柳にとってはこの〈バラバラな身体観〉が〈デフォルト〉であり、〈ナチュラル〉なんですね。こういう身体が世界のあちこちにバラバラになっている句が現代川柳には非常におおいんですよ。そしてそれを〈奇異〉には思わない。〈不健全〉だともおもわない。むしろこういうものが川柳的身体だともおもっているところがある。
で、わたし、考えたんです。なんでだろう、と。
これは精神分析学者のラカンの考えを経由してみるとわかりやすいかもしれないので少し(斎藤環さんを経由して)ラカンの考えを借りましょう。
肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ 中村冨二
(『中村冨二句集(森林叢書Ⅰ)』森林書房、1961年)
日常的現実の多重性は、「日常」の主要成分が「想像的なもの」で成り立っていることに起因する。
ここで「想像力」について、ラカンによる三界(現実界・象徴界・想像界)のトポロジーを参照してみよう。ラカンの三界は人間の心的装置における三つの位相的区分である。象徴界はシニフィアン(≒言葉)の領域であり、無意識の欲望はここで形成される。想像界はイメージと意味の領域であり、三界で唯一、認識やコントロールが可能な領域でもある。また現実界は不可能の領域であり、語ることもイメージすることもできないとされる。
(斎藤環「ラメラスケイプ、あるいは「身体」の消失」『思想地図 vol.4 特集・想像力』NHKブックス別巻、2009年、p.144ー5)
ラカンはこんなふうにわたしたちの日常を三つのレベルにわけています。「象徴界」はことばの世界、「想像界」はイメージの世界、「現実界」は身体やモノの世界です。で、「象徴界」といったことばの世界や「想像界」のイメージの世界があるからこそ、わたしたちは鏡に映った〈わたし〉のような統一的なイメージの身体をもち、〈ことば〉で見知らぬ〈あなた〉とコミュニケーションすることもできるわけです。だけれども、ときどき言葉で語ることが不可能なものにでくわすこともある。たとえば死やセックスなんかがそうです。それが「現実界」です。それらは誰もが語るけれど、実際の死やセックスのイメージや言葉は誰も語ることもイメージすることもできない。〈めいめい〉の死やセックスがあるだけです(〈めいめい〉のものにならないかたちで)。
で、このラカンの考えを川柳に援用してみるとどうなるのか。
川柳の〈バラバラ〉な身体観を考えたときに、俳句の形式としての統一的リアリティを考えてみるとわかりやすいのではないかとおもいます。
先に述べていたように、俳句にとっての統一的リアリティはなによりも〈季語〉がつくっているのではないかということです。たとえばラカン風にいえば、統一的身体や統一的主体をつくる鏡像イメージを「季語」がつくっている。いま・このわたしに統一的な主体をくれる大文字の主体が「季語」なわけです。この「季語」という大文字の主体から統一的なイメージを備給され、身体的リアリティを俳句は保っている。だから言語秩序をもって言葉を語ることができる「象徴界」も、統一的イメージを想像できる「想像界」も機能している。ちゃんとした審級があるから。
ところが川柳には「季語」といった大文字の主体がないわけです。ということは、統一的な身体のイメージをつくれない。みんながバラバラな小文字の主体であるばかりか、身体もバラバラになって〈わたし〉の「踵」も「肘」もどこかに行ってしまっては突然「夜の裂けめから」バラバラ降ってきたりする。
そういった小文字の主体たちが統一したイメージを計れないバラバラな身体で、〈陣地戦〉を繰り広げている風景。それが現代川柳の〈野蛮〉な風景なのではないかとおもうのです。
つまり、川柳のベクトルとは、錨や定点がない。むしろ、拡散する、ばらばらな、多方向なベクトルが、川柳の〈ベクトル〉になっているのではないかとおもうのです。
川柳に魅かれていくひとたちはそういった「想像界」も「象徴界」もないようなバラバラな身体がぞんざいに放り投げられている〈荒れ野〉としての〈現実界〉に住み込もうとしているひとたちなのではないかと。
そして、川柳という表現形式を選択しているときのわたしも、きっと、そうなのです。
現代川柳を読んだときに、こんなふうな〈意味の荒野〉があるのかとおもったんです。こんな〈現実界〉がすぐそこにあったのかと。トトロよりも、〈となり〉に。
「誰も詩など聞いてはないし/この世界がみな作り物なら/パノラマ島へ帰ろう」と歌っていたのは大槻ケンヂでした。
いついかなるときにも〈野蛮〉に帰ることのできる文芸、それが川柳なのかなって、さいきん、殴ることを知らなかったこぶしをみつめながら、思っています。
かようにして、人見広介の五体は、煙火と共に粉微塵(こなみじん)にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、各々の景色の隅々までも、血潮と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。
(江戸川乱歩『パノラマ島奇談』春陽文庫、1951年、p.120)
墓地を出て、一つの音楽へ帰る 中村冨二
(『中村冨二句集(森林叢書Ⅰ)』森林書房、1961年)
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