その八十(朝日俳壇平成27年8月16日から)
◆旧盆や墓を洗ふも一人きり (鹿嶋市)鈴木隆
大串章の選である。評には「第二句。嘗ては親子そろって先祖の墓を洗っていたが。」と記されている。上五の「旧盆や」が余計な気もするのだが、「旧」に意味合いがある様にも思われる。昨今の墓事情は完全に様変わりした。菩提寺に登録した長男だからという墓守は殆ど無くなり、都会の寺にはロッカールームのような納骨所が多くなった。その分お参りには行きやすくなって便利だが、墓洗うことはない。加えて会ったことのない一世代二世代前の祖先の霊は顧みられないことになった。毎月のように筆者は散歩がてら亡母へ墓参するが、次の世代にはどうなるのだろうか?
中七の「・・も」は言い過ぎているようで、かえって句の焦点をぼやかしてしまっているきらいがある。
◆蟻地獄に蟻を投げこむ美少年 (相模原市)芝岡友衛
金子兜太の選である。評には「十句目芝岡氏。「美少年」の諧謔の味」と記されている。腐女子的な感性であり、狙いが見え透いているようでもある。筆者も子供のころには同様の遊びをした記憶がある。(筆者は決して美少年ではなかったが。)縁の下の砂のように乾いた処に逆さの円錐形に蟻地獄は出来ている。そこへ故意に蟻を落として蟻地獄が蟻を捕食する様を見詰めるのだ。緊迫感と少年の世代のエキセントリックな感覚を夏の季題で作り込んでいる。
◆八月や平成の「平」昭和の「和」 (広島市)金田美羽
長谷川櫂の選である。八月は戦争のまつわる句が多い。反戦の句であり、平和を希求する句であることは言うまでもない。時代を代表し指示する言葉は「平和」を示しているにもかかわらず、人は遠慮がちにわざと遠回りしているようだ。アイデアの句であるが、アイデアだけに終わらない意味合いを含有している。
◆三たびめは黙するなかれ敗戦日 (東京都)片岡マサ
長谷川櫂選である。むろん第三次世界大戦を想定しているのだろう。中七座五がシュプレヒコールのように心に谺する。その分、若干観念的な感じがする。
その八十一(朝日俳壇平成27年8月24日から)
◆己が句を書いて風鈴鳴らしけり (西宮市)竹田賢治
稲畑汀子の選である。風鈴の舌(ぜつ)の下に風受けのために短冊を付けたりするが、その短冊に自らの御句を書いてみたのであろう。風鈴の音も格別な余韻を以って鳴ることであろう。どことなく他人事のようにも読めて、作者自身ではなくて友人の仕業を見て詠んでいるようにも感じる。その部分が俳的な非饒舌感を醸し出している。
◆憲法のごとき大樹よ蝉集ふ (塩釜市)杉本秀明
金子兜太の選である。評には「杉本氏。正面から書き切った句の潔さ。「蝉時雨」では普通だった。」と記されている。筆者は、「大樹のごとき憲法」でなくてよかったと考える。味無い、素気無いことになってしまう。評の云う通り、「蝉時雨」では平凡に過ぎるだろう。議事堂へ迫る群衆の様からは、「集ふ」が似つかわしい。蝉にも良い者悪者がいるだろうか。多分、プロとコントラがいるのだ。
◆立秋や初心に帰る日を思ふ (福岡県鞍手町)松野賢珠
長谷川櫂と大串章の共選である。長谷川櫂の評には「二席。夏の酷暑を乗り越えて一息つく。立秋のこの心もちが初心と通いあう。」と記されている。今年の夏は猛暑と冷夏が半分半分であった。が、立秋の頃はまだ、猛暑の余韻の中にあって、人々はその極限の暑さにもがき苦しんでいたころである。「立秋」の言葉だけでも秋を感じたい一心であった。後半の冷夏に入ってしまうと、また趣が異なる。喉元過ぎれば・・、の喩えの通りである。
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