谷口智行俳句のいただき。
この俳人の俳句開拓者としての目指すべきいただきを私なりに共振を持って俳句鑑賞したい。
帯文の言葉をかりて云うならば「神々が恋をするやうに俳人は熊野とまぐはふのである」。
湧き立つような熊野に生きるこの俳人の喜びは、土着を突き抜け、抱擁し、交わり、普遍的なポエジーを孕む予兆を期待を持って魅せられていく。
星糞の季語のダイナミックなタイトルがいい。
句集の見返しの表裏の荘厳な藤岡裕二氏の絵画、カバーや造本の島田牙城マジックとでも言おうか魅力的な句集に仕上がる。
俳句も熊野の風土を丁寧に取り込みながら近くを切り、遠くを繋ぐ俳句の物語の飛躍に富む。
それによる言葉の硬直を打破しようとする風格を成していて一見すると俳句鑑賞者を圧倒するだけの勢いもある。
この風格と勢いで風土を詠む。
それは、概知の言葉に息吹を与え命の鼓動となる。
それらは、中央を中心に編まれた季語たちに匹敵するだけのポエジーを宿す。
谷口智行俳句の視座には、確かな熊野の言霊が、胎動する。
俳句の定型や韻律と風土の融合。
いわゆる俳人たちの俳句形式の土俵を多様な日本風土のひとつ、熊野から谷口智行の視座の宇宙さえ萌芽していく感じさえある。
そこには、俳人たちが口中で言葉を転がし続け季語を見出だしてきたように自らの熊野の風土の韻律の俳句形式を熊野という器と融合しながら注ぎ込む神業が、俳人に課せられている。
それは、これまでの俳句の土俵を破壊し、自らのいただきの領域の覚悟と自負を持って創造するかもしれない。
そういう無茶ぶりから期待を持って、共鳴句を戴きます。
犬どれも元気猟夫の訃を知らず
私の住む沖縄の島々にも猪(いのしし)は棲むので沖縄の猪として鑑賞してみる。
とある離島の畑は、ほそぼそ老人たちが成している畑が多く、山から降りて来た猪が作物を荒らして放棄された畑が増えていると島びとは、嘆く。
猪の荒らした1平方メートルくらいの土の掘り跡は、妖怪か魔物の舞台を連想してしまう。
猟もまた命懸けなのは、言うまでもない。
猟夫の訃の不在を猟犬は、知らないで元気にはしゃぐ。
元いさな捕りに抱かれて七五三
いさな捕りを引退したおじいさんが、孫を抱いている七五三の微笑ましい光景が立ち上がる。
風土詠を俳句の器にただ当てはめても所詮は、土や風、火が宿してきた言葉の息吹、器が違う。
その言葉の器の錬金術は、至難の業で、まるで神の成せる業のように思えてしまう。
谷口智行俳句の慧眼は、風土を超えて普遍へ、人間の唄をなしていく。
ありあはせなれどともいふ鹿の肉
股ぐらもしつかり拭いて生身魂
野良風になぶられてゐる裸かな
いづれ旨しや猿酒と鶚鮨
竹伐りてゐるらし山の揺れゐるは
獣糞のなかに通草の種あまた
弾丸(たま)喰いの猪は一等恐ろしと
木の股に懸けてゐたるは猪の腸
狩詞話せり熊に聞かれぬやう
ありあわせと鹿肉を遠慮がちに薦めつつも豪快に。生身魂の季語と風土の融合でお盆の先祖を敬う儀式も赤裸々に。野良風に抱かれている心地良さ。猿酒と鶚鮨(みさごずし)が体中を踊るようにめぐるめぐる。竹伐っているのだろうと山が揺れるとダイナミックに感受する。通う道の種が星屑のようにあまたに獣糞の中に拡がる。猪を狙う猟夫の弾丸は心臓の部位を射止めたいのだが、神々の踊るように猪の畏敬が迫りくる。木の股に懸けていのるのは猪の腸という風土の記憶。狩詞(かりことば)を盗まれないようにひそひそ語り合う。
ふくらかにしなふ浦波初しののめ
ふんだんに星糞浴びて秋津島
神ときに草をよそほふ冬の月
まぐわいとは、性交のことだが、熊野に抱かれる人、生きとし生ける全てを包み込み、抒情性が何度も歓喜を波のように連想される。
もうこれ以上を語るのは、野暮かもしれない。
最後に作者のあとがきから引用して、その谷口智行俳句の世界を多くの方に堪能して欲しい。
「私たちの祖先は鳥獣、草木虫魚などに対しても自然の恩寵と畏怖を抱き、そこに篤い信仰を見出してきたのである。」
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