2020年1月24日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉗ のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
〈序〉
 シベリア抑留を体験された方たちが、武装解除を受けシベリアへ連れていかれる途中、地元民やソ連兵や八路軍等の強奪や強姦に会いながら逃げ惑う、満州開拓団の婦人と子ども達や高齢者に会いながらも、守ることが出来なかったことについて、無念の思いに耐えないと話されたことが心に残っている。
 このことからシベリア抑留についてだけを書くことは、片手落ちであり、「満洲からの引揚げ」についても取り上げなければならないと思った。
 そこで、第1章Ⅱシベリア抑留への歴史の中で、「満州建国」及び「満州開拓政策」について触れたところであるが、「満州開拓」と「大陸の花嫁」について、2019(令和元)年9月2日に、長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」で確認したことも踏まえ、お伝えするこことする。
 1931(昭和6)年の世界恐慌とあいまって、繭価の暴落や凶作により、当時の日本の農村は疲弊していた。
 「五族協和」「王道楽土」の満州国建設をうたい、家督や財産を継ぐことのできない農村の若者を対象に、“20町歩の地主になれる”を宣伝文句の国策として、1932~1933(昭和7~8)年、第1次武装移民団が満州に入植した後、移民を定住させるため花嫁を送りこむ「大陸の花嫁」が政策化された。
 このことについて、『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)』 杉山春著 新潮社P28に、以下のように書かれている。
 
 昭和11年、2・26事件が起きると、政府内の軍部を押さえ込む力は一掃され、その後生まれた広田弘毅内閣は、満州移民を七大国策の一つとした。(略)5月11日、20カ年百万戸満州移民計画が関東軍により策定され、これに基づき、拓務省の予算案が議会を通過する。(略)          
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。
 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。
 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。
 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』

 このような社会の流れの中で、国策に応じ多くの女性たちが「大陸の花嫁」として満州に渡ったという。

Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(1)

 井筒紀久枝さんもこの国策に運命を託した一人である。
 井筒さんは、越前和紙の里に生まれたが、不運な出生と幼少期から少女時代のつらい境遇から逃れるために福井県から「大陸の花嫁」に志願し満州へ渡ったという。
 そして、引揚げ後にその思い出を俳句にまとめ、「大陸の花嫁」としての苦難の生活を『望郷』『生かされて生き万緑の中に老ゆ』『大陸の花嫁』として発表し、ご自分の戦争体験を語り継ぐ活動をされ、2015(平成27)年享年94歳で永眠された。
 このたびは、井筒紀久枝さんの俳句の伝承をしておられる、ご遺族の新谷亜紀(陽子)さまの許可を平成31年2月に頂けたので、「第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む」において、井筒紀久枝著『大陸の花嫁』(岩波現代文庫)の満州引揚げの俳句を紹介して行きたい。
 *の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)などを参考にした筆者文。

【開拓地10句から】
 昭和18年4月12日、井筒さんは満州に渡った。

解氷期野原動くや豚生まる 
*冬には氷や雪に閉ざされる北満の地も解氷期となり、暖かな光に野原も川も息づき開拓地の集落は、子豚の生まれた声が聞こえてくる。豚の妊娠期間は、3月3週3日と覚えるのだそうだが、厳冬期に妊娠した豚は、雪解けのころに出産したのだろう。1回に10頭ほどを出産するそうであるから、子ブタのキーキー鳴く声が開拓村のあちこちから聞こえてくるのである。
 満蒙開拓団の入植先の多くが、ソ連国境に近い黒竜江に沿った、小興安嶺、大興安嶺の裾野に広がる辺境の地に、関東軍兵士の補給庫の目的で配置されたのである。
 井筒さんが所属した福井県出身の第9次興亜開拓団と第1次興亜義勇隊開拓団の本部は、チチハルから200キロ奥地大興安嶺を西北に見る平原にあった。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ』満州開拓団から参照)

放牧や桔梗芍薬いっせいに 
*広大な野原に放牧され、草を食む家畜たち、あたりは桔梗や芍薬の花が咲き乱れ、命がいっせいに輝きだす。暖かな日差しの中で色とりどりの花野に身も心も解放される至福の時がやってきた。

麦熟れて東西南北地平線

*いかにも雄大で神々しい。東西南北に広がる地平線まで続く麦畑は、黄金色に北満の大地を彩り、夕日の落ちる瞬間には、畑も山も全てが茜さす金色に輝くのである。
 現実の暮らしについては、自然の美しさとは別に厳しいものであったようである。井筒紀久枝著『大陸の花嫁』P.27には、次のような記述がある。

 最も困難を極めたのは、水汲みである。柳の枝で編んだ籠のようなものが、車井戸にぶら下げてあった。覗いても水面がみえないほどの深い井戸から、両手で重たい車を回して汲み上げる。手元へ汲み上げたころには水はこぼれてしまって、半分ほどになっていた。それを何回も汲み上げて、天秤棒で運ぶのである。故郷では、山から流れる水を何も考えずに使っていたが、ここでは一滴たりとも貴重な“水”であった。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)

 さて、現代の私たちの暮らしは、水道の蛇口をひねれば水ばかりかお湯まで苦労せずに使うことが出来る。トイレでは温水が尻を洗ってくれるのだ。一滴の水も貴重だという体験は、今の世にはなかなか実感出来ないことである。
(つづく)
参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料


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