2026年8月21日金曜日

【未来俳句・短期連載】器はもう一つ増える——未来俳句宣言への応答  山根もなか

 自由律の実作者として、私は長く一つの問いを抱えてきた。器を脱いだ俳句は、どうすれば成り立つのか。だが筑紫磐井氏の宣言を読み、問いの立て方そのものを改める必要を感じた。問うべきは、脱いだ先に何が残るかではない。その器はそもそも誰の身体に合わせて作られたのか、である。

 『WEP俳句通信』一五二号の特集では、賛成五十七、反対五十八と票が拮抗した。私はここに一票を足すつもりはない。定型か否かという軸に対して、別の軸を差し込みたい。誰にとっての定型か、という軸である。

 あらかじめ断っておく。当事者研究とは当事者が自ら語る方法であり、外部から形式を割り当てる身振りは、この方法が最も警戒してきたものだ。だから本稿は、誰かに短律を勧めるために書かれるのではない。短律という形式の条件を記述したとき、そこに当事者研究の記述と構造的な相似が現れる——そう述べるに留める。


一 季語という構成的体制

 綾屋紗月は、文化人類学者ジーン・レイヴの「構成的体制」という語を用いて、自己感の問題を論じている。構成的体制とは、道具・建築物・言語・規範・制度の総称であり、モノの世界に秩序を与えるだけでなく、個々人の知覚・運動パターンに秩序を与え、その共有を可能にするものだ。多数派はこれを享受している。だが少数派はそこにあてはまらない。ゆえに少数派は、自分たちの知覚・運動体験に合った新たな構成的体制を立ち上げる必要にせまられる——それが当事者研究だと綾屋は書く。

 季語と定型は、まさにこの意味での構成的体制である。

 季語の本意とは、共同体が数百年かけて結晶させた知覚の秩序にほかならない。「木枯」と置いた瞬間、まだ書かれていない背景が立ち上がる。読者はそこに冬を、乾いた光を、人の心細さを見る。これは共有を可能にする装置として驚くべき精度をもつ。

 國分功一郎はドゥルーズの他者論を読み解いて、他者とは「知覚領域の構造」であると述べている。他者がいてこそ対象には裏側があり、死角があり、余白がある。他者がいなければ、意識とその対象はもはや一つでしかない。

 季語はこの意味で、俳句における他者である。それは作者が見ていない部分を保証し、周辺的な世界を組織する。定型十七音とは、その他者を借用するための器なのだ。

 問題は、この借用が万人に等しく可能かどうかである。


二 出来事に先立って主語はない

 國分は続けて、自我とはア・プリオリに存在する基体ではなく、知覚領域の構造がもたらす効果であると指摘する。さらに『中動態の世界』では、ドゥルーズがライプニッツを読み替えた場面を追って、出来事に先立って主語=主体は存在しない、と論じている。罪人であるアダムは、「罪を犯す」という動詞が名指す出来事の周辺で、その効果として発生する。

 この順序を俳句に持ち込むと、定型の構図が見えてくる。定型は、まず詠む主体を立て、その主体が世界を切り取るという順序を要求する。切れとは主体が下す判断であり、季語の斡旋とは主体が行う選択である。定型とは、主体を先に置く形式なのだ。

 短律はこの順序を反転させる。

 筑紫氏の作品を見る。「藻ねむり」「稲漬き」「道泥づ」「風うそ哭け」。ここには主語がない。時制もない。人称もない。これは欠落ではなく、出来事の側から言葉が発生している状態である。

 ここで正確を期しておきたい。ドゥルーズが礼賛したのは動詞そのものではなく、動詞の不定法であった。國分は、動詞が名詞に先行するという命題は不正確だと明言している。名詞と動詞はもともと未分化であり、不定法とは人称も現在形も態の多様性ももたない、その未分化な水準の形態なのだ。

 短律とは、名詞を捨てて動詞へ向かう形式ではない。名詞と動詞が分かれる前の水準へ降りる形式である。「藻ねむり」は名詞でも動詞でもない。だからこそ、そこには誰の眼差しも先行していない。

 筑紫氏は宣言でこう書いた。文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる、と。これは俳句史の内側から導かれた設計だが、行き着いた場所は言語の基層である。


三 当事者研究が示すもの

 綾屋の記述に、次のような場面がある。何かをしようとしたとき、特に好みというわけでもない他者の表情や動きが、選択肢として勝手に思い浮かぶ。「これがオススメですよ」と言われている気がする。しかしそれを追い払っても、自己像はからっぽで、煙が漂うようにもやもやしている、と。

 私はこの記述を、当事者の困難の説明としてではなく、定型が作者に対して行う要求の比喩として読んだ。断っておくが、これは私の読み替えであり、綾屋の記述をそのまま作句体験に適用することはできない。

 そのうえで言えば、季語を斡旋するとき、俳人にもこれに似たことが起きている。「木枯」を置けば本意という他者像が推奨されてくる。熟練とはその推奨を使いこなす技術であり、多くの場合それは豊かさとして働く。だが推奨が身体に合わない者にとって、定型で詠むこととは、他人の自己感を借りて詠むことになりかねない。

 私の周囲には、発達障害の診断を受けた作り手が数人いる。傾向として、十七音より短い句を出すことが多い。これは論拠ではない。検証されるべき仮説の発生源として提出する。

 重要なのは、これを福祉の話にしないことだ。短律が当事者に向くとすれば、それは当事者に優しいからではない。既存の構成的体制を享受しにくい者が、自分たちの知覚に合った新たな構成的体制を立ち上げる——その一つの帰結が短律である、というだけのことだ。これは温情の問題ではなく、形式の条件の問題である。

 同じことは国外の作り手についても言える。季語の本意は日本の風土と共同体の記憶に根ざしており、それを共有しない言語圏では、季語は借用できない他者である。世界各地でHAIKUが短くなっていく傾向は、怠慢でも誤解でもない。構成的体制を共有しない場所では、別の器が立ち上がる。筑紫氏が、二十年後には英語や中国語で末期の句を書いているかもしれないと記すとき、その予感はここに接続する。


四 器はもう一つ増えるだけである

 ここで最も強調したいことを書く。

 新しい俳句は定型を奪わない。

 季語と定型は、共有を可能にする装置として比類のない精度をもつ達成である。それを享受できる者から取り上げる理由は何もない。宣言が要求しているのは廃止ではなく、器がもう一つ増えることだ。

 俳句は平和の文学だと言われる。だがその平和が、同じ構成的体制を享受できる者たちの間でのみ成り立つのであれば、それは限定された平和である。定型では拾えない感覚をもつ者が現代にはいる。国外にもいる。彼らを拾える器が並び立っていることを、私は平和の文学と呼びたい。

 筑紫氏は書いている。宣言しても、我々は連帯しない、個々の作家であるからだ、しかし共感はしたいと思う、と。

 奇妙なことに、これは当事者研究が到達した地点と同じ構造をしている。綾屋は、当事者研究によって「自分の軸」が生まれたことで、逆説的に、はじめて他者と適度な距離を保てるようになったと書く。バスケットボールのピボットのように、片足が他者へ踏み出しても、もう片方の足が軸として残っている。そして自らの表現が他者の言葉に感染して生まれ、その表現がまた誰かに感染していく、と。全体ではなく部分にフォーカスする特徴があるからこそ、それが可能になった、とも。

 全体ではなく部分に向かうこと。連帯ではなく軸をもつこと。共感ではなく感染すること。短律の詩学は、ここで思いがけない仲間を得ている。


五 入口と完成度

 最後に、肯定はするが優遇はしない、という一線を引いておく。

 短律の入口は、たしかに広い。季語の制約がなく、音数の要求もない。だが入口の広さと、そこから先の難度は別の問題である。むしろ短律は定型以上に難しい。定型が引き受けてくれていた奥行きの生成を、作者が一語で背負わねばならないからだ。四文字の失敗は、十七音の失敗より容赦なく露呈する。

 福祉の発表の場や、それに準ずる部門があってよいと私は考える。だがそれは評価基準を緩めるためではなく、器を増やすためである。作品として立つかどうかは、どの器で書かれたかによらず、同じ厳しさで問われるべきだ。優遇は、結局その形式を二流の位置に固定してしまう。

 過去に見たことのない風景を見たい、と筑紫氏は書いた。私の宣言はこうだ。

 私たちが見ていない風景は、私たちと同じ知覚をもたない者の側にある。

 短律とは、その風景が入ってくるために、もう一つ用意された器である。


〔註〕綾屋紗月「当事者研究と自己感」(石原孝二編『当事者研究の研究』医学書院、二〇一三年)。構成的体制の概念はジーン・レイヴに由来し、綾屋は大村敬一(二〇〇二年)を参照している。國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書、二〇一三年)第Ⅱ章、および『中動態の世界』(医学書院、二〇一七年)第七章。なお哲学と当事者研究の架橋は、國分・熊谷晋一郎による講義および共同研究においてすでに試みられている(東京大学「学術フロンティア講義」二〇二〇年度第一三回、東大OCW公開)。