「薙ぐ」とは横ざまに切ることである。人類を縦に切れば左右の二項対立図にしかならないが、横ざまに切れば上下の意識界と無意識界との響き合いの構図となる。句集題をそういった意味で捉えれば、少しは竹岡一郎氏の句世界に近づけるかもしれない。
人類を薙ぐを夢見る鎌鼬
句集題となった句であるが、鎌鼬はある意味で無意識界に存在する。さらに「夢見る」とあるので、無意識界からの自意識のメッセージとみることもできよう。
焚火して龍の眠りをおびやかす
焦螟を戒厳令下の街に殖やす
弾き合ふN極われも汝も怨霊
目無きものらの鎬けづるが不知火
「龍・焦螟・怨霊・不知火」といった仮象の存在は、意識界と無意識界との境界に出現するものです。そしてそれ等は幽明境を相互に浮遊することによって人類を脅かすと共に、それら自体の存在も脅かされるというアイロニーな展開が示されている。
蛇と親しみ機織の上手くなる
くちなはとわが咒とけあふ雪の首都
蛇よりもきつく絡めば閨は淵
冬眠の蛇ら互ひに獄編めり
古代、「蛇」は神あるいは神の使いと信じられていた。前三句は蛇と人間との交錯の上に立つ情景であり、ある種の祈願でもあろうか。そして後の一句は蛇を人間に置き換えた構図となっている。安井浩司の「法華寺の空とぶ蛇の眇かな」と同想の世界である。
むかで群る廃寺の何まもらむと
焼跡や蜻蛉ら余熱喰ひ漁る
花街や乾ぶまで鳴く籠の虫
廿日ほど悼みを保つ螢籠
くろあげは投身透くを受け止めし
日本人だけが左脳で人のことばも虫の声も受け取ると言われている。「むかで、蜻蛉、鳴く虫、螢、くろあげは」などの虫は、日本人が逢魔が辻で出会う、痛みを伴った存在なのではないか。
書初に「鏖」とは優しい子
わらび湧くひそかな殉死さらすべく
「たまゆらの命」とも言われるが、人間は生きている時間より、死んでいる時間の方が長い。「鏖」といい「殉死」というも、反意的に読めばそこには安らかな死が横たわっている。「メメントモリ」という囁きが聞えて来そうだ。
骨か杭か分らぬ列が野火めざす
うつろより歪な羽化を踊らんか
「うつろ」とは「空」であり「虚」でもある。そして「野火」や「羽化」が暗示するものはひとつの虚脱状態でもある。人間はそのような世界に生き続けねばならないとの謂か。
まるで蟋蟀が己が深淵を覗き込むが如く、呪言に満ちあふれた句集であった。