新京大俳句創刊宣言 原案者 蒋草馬
時制を殺害せよ。
ポエムを奪還せよ。
思考しつづけろ。
環境は不快でなくてはならない。
テーゼはすべてつまらない。
物から物へ手渡された引導へ目覚めよ。
詩が喪失した言葉自体の素材を回復せよ。わたしたちは盆地とデルタのフォルムに記憶と妄念の体躯を這わせ、見慣れた風景を問い直しつづけながら、あるいはいま羅列した問い立てをすべて棄却して単に陽気に漂流しつづけていく。二義的な漂流のあいだわたしたちはなにものにもならず、だれにも捕捉されないまま具体的でありつづける。漂流に対する偶発的な切断面としてここに本誌の出発とする。
令和8年2月 於百万遍 原案 蒋草馬
【鑑賞】
「新京大俳句」創刊号(2026年5月4日発行)の巻頭に発表された宣言である。今回の募集は、新作評論だけではなく、最近他の媒体(雑誌、新聞、BLOG、発表会)で発表されたものも対象にしているので問題ない。原案者によれば「蒋草馬案をもとに複数名で修正したものになっている」そうであるが共作を排除するものではない。今回は、「原案者」の名義を使うことにした。
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今までいくつもの雑誌の創刊を見てきたが、そこに載るのは、多くは「発刊の辞」であり、状況の説明であった。文学を視野に置いた久々の発言である。これから宣言の時代に突入する予感を与えてくれる。
「時制を殺害せよ」は現代における詩の第一の要件に思える。時制を殺害するとは、矮小に言えば文法を破壊することだ。意味や統辞にこだわる俳句を否定することである。そのとたんそこに俳句以外のものに生まれることを期待している。
「環境は不快でなくてはならない」とは快適な環境にあって詩は生まれないという当たり前のことだ。が、俳壇で言われると格段に光り出す。現代の名匠たる長谷川櫂や小川軽舟の勧める「俳句的生活」は若い作家には廃棄されるべきだろう。「俳句は極楽」であってはならず「地獄」でなければならない。虚子でさえ一般大衆には極楽の文学と言っているが、最終的には「地獄の裏付け」玉藻昭和28年12月では俳句を地獄の文学としている。
「詩が喪失した言葉自体の素材を回復せよ」は見慣れたアバンギャルドを否定する。未来派、ダダ、シュルレアリスムなどの詩は言葉を喪失して来ているのだ。あらゆる言説は詩ではなく言葉に戻らなければならない。
「見慣れた風景を問い直しつづけながら、あるいはいま羅列した問い立てをすべて棄却」
するには、「過去に見たことのない風景を見る」意志がなければならない。これは現在の「豈」の最も共感する点である。
「漂流に対する偶発的な切断」は我々が意識しないままに実践してきた行動規範だ。あらゆる文学運動、活動は、決して予定通り進まない、計画も存在しない。秋櫻子も草田男も、兜太も龍太も生まれるべくして生まれたものではない。偶然の女神がなした浮気の成果なのだ。それを営々と根拠づけているのが我々しがない評論家なのである。
最後に「陽気に漂流しつづけていく」はこの宣言の眼目だ。芭蕉も、自由律俳句も、人間探求派も、当然のことながら、新興俳句や前衛俳句、或いは原案者に先行する「京大俳句」さえも陰鬱であった。限りなく。だからこそ陽気に漂流する若い世代に期待したいのだ。
しかしこんな分かり易く理解してよいのだろうかと幾度も自問してみる。にもかかわらず、かくも超時代的な宣言が行われる場が京の一角「百万遍」であることに好感を持つ。「新京大俳句」たる所以であろう。