2022年7月1日金曜日

鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《前編》   竹岡一郎

 筑紫磐井さんから依頼が来て、赤野四羽さんがご自分の句集「ホフリ」の評を書いて欲しいという事なので書きます。句集の題になったのは次の句でしょう。


あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に


 何だか美しい句です。とつぜん意味不明の事を言いますが、この句は初恋というものの本質を良く捉えている。私が評論を書く時も、いつもこんな風に、初恋のように書いてきました。良い句は胸に刺さります。それは理屈ではない。理屈ではない処に何とか理屈をつけてゆくのが、残念なことに私の評し方です。けれども私はいつでも愛を以て解析してゆく。私自身を腑分けするように。でも、掲句に関しては、まだ鶫の羽毛を撫でただけです。腑分けは論の後半にて。


 私の中には沢山の人が居て、今語っている私は調停者です。けれども、調停者の立場を以て評論を書くことに、少し疲れてしまった。多分、どれだけ書いても、私の評論は恋には届かないから、意味がない。それなら調停を止め、統合する事を止めて解き放ってしまっても良いのではないか。私の中で絶えず争って手を挙げている彼ら彼女らに、好きに発言させても良いのではないか。もしかしたら私が、彼ら彼女らにとって障害となっているのかもしれない。


 「ホフリ」を読んでみましたが、非常に振幅が激しい。どう読んでも駄句としか思えないものから歳時記に載せても良いんじゃないかと思われる佳句まで。その落差が激し過ぎる。その間に美しく整っていて、解釈述べる必要もない句もあります。いわゆる伝統俳句です。次に挙げてみます。


古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮


 古書店には秋の暮が良く似合います。辿り着けないのですから、どんな本があるのか遂に分からない。長年探していた本、或いは見た事のない美しい本が片隅に積まれているかもしれない。


夕時雨よく光る眼の奥の鈴


 「鈴を張ったような目」という言い方があります。くりくりとつぶらな目の形容ですが、夕時雨の中でも良く輝くほど生気に満ちた目です。「眼にて語る」と言いますが、その声無き声は鈴を振るようなのでしょう。


冬の粥(かゆ)旧き家には音多し


 冬の粥は有難い。まるで古き良きふるさとの家のように有難く、そんな家の中で時々、柱や梁の軋む音がするのです。


簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く


 これは歳時記に載せても良いような句で、簪は汗に、或いは涙に、或いは小雨に濡れるのか。踊りは盆の頃の季語ですから、やはり先祖や故人と縁がある。踊りが彼の世へ、或いは自分の来世へと繋がってゆく。最後の「明く」が良いです。来世に希望がある。


 少し述べてみましたが、私の解釈など邪魔かも知れず、只黙って味わえば良い句です。最初に、伝統俳句の立場からどうしても掬いたい句を掬ってみました。


 という事は、次から騒乱の段です。赤野四羽さん、私なんぞに評論頼んだ時点で、気の毒ですが覚悟決めるべきです。既に各人、喋りたくてうずうずしている。でも、私も時々出てくるかも。以上、前口上となります。


Ⅰ 神話或いは正義との闘争


ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます   


 平仮名にすると絶望から遁れられると思うのか。昔、ヨハネの黙示録を繰り返し読んだ。どうしようもない絶望感があった。それは今や現実化してきている。黙示録以降を言うなら、自らの死を直視せよ。桜で飲んでいる場合か。そんな呑気なことしているのは日本人の君だけだ。黙示録を舐めている。

 

 平仮名だから絶望感が薄れるんじゃないですか。ポストアポカリプスって、黙示録後の世界でしょ。今の世界が滅びたって、一日くらい花見させてくださいよ。あたしにどうしろって言うんですか。ミサイルが降ってこようが隕石おっこちてこようが、花見でもする他ないじゃないですか。桜の木の下には死体が埋まってる、って聞いたことあるけど、桜を見てるって事は、日本では、死を受け入れてるんですよ。黙示録なんて、あたし日本人だし、二度と帰らないけど実家には仏壇あるし、関係ないんです。関係ないのに巻き込まれて死ななきゃいけないんなら、他にもう肴も無いし、桜だけ肴にして飲むしかないじゃないですか。


 人類終活みな柿の木にのぼる


 終活、とか最近よく言うが、この言葉、大嫌いだ。そんなに簡単に省略して良いのか。ましてや人類という大きな括りに、こんな省略語を掲げて良いのか。人類の終焉という切迫した事柄を軽く見過ぎてないか。いつ第三次世界大戦が起こるかもしれない、この状況下に。そして柿の木が動く。何の木でも良いと思う。人類という言葉の中に「みな」は入っているから、「みな」は無駄。


 終活がダメなら、コンビニもパソコンもスマホも使っちゃダメだね。日常生活でコンビニとかパソコンとかスマホとか言わないのか。俳句は日常の詩、って誰か言ったよね。人類の終わりだって、生きている個人にとっては日常生活の延長じゃないか。だから「人類」の後に「終活」って、軽い言葉使うんだろ。柿の木は僕たちの日常には昔から懐かしい木で、そこに例えば木守柿が一つだけ残っていたら寂しいじゃないか。そこに登るんだよ。「みな」が無駄だって言うけど、これは僕の周りの、僕が知ってるみんなだろ。人類の中の、僕という詰まんない個人の周りのみんなだよ。

 

 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を踏まえているのかな。鐘の音は、祇園精舎の鐘と結びついて、諸行無常、盛者必衰の理をあらわしてるのかも。そうすると平家物語も踏まえているのかも。盛者は、この場合、他の生物と比較した時の人類。


さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに


 国歌への安直な批判だ。実際のさざれ石を見ていたら、こんなふざけた発想は出ない。さざれ石とはもっと異様なものだ。炭酸カルシウムや水酸化鉄によって小石の隙間が埋められて巌を形成する。これは国に例えれば、民が集まって一つの国家となる目出度さなのだ。それをタピオカと揶揄するとは。


 私も幾つかさざれ石見ましたよ。乾いたタピオカの集まりだな、って、正直そう思いました。その炭酸カルシウムだか水酸化鉄って、私たちの現実では何に当たるんですか。絆、って奴? そんなの信じたことないし、上から絆を押し付けられても、おろおろしちゃうだけ。みんなで頑張って一つの目標に向かって、巌になって、じゃあ、巌から外れた小石はやっぱり駄目なんですかね。駄目なんでしょうね。駄目なら駄目なりに、タピオカ! とか、おどけてみせても、やっぱり、ふざけるな! とか言われるんですかね。じゃあ、私は、タピオカは、何処に行けばいいんですか。


葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな

ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る

樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ


 美しい景だ。写生と読めばよいのか、それとも出来るだけ綺麗に詠んだ皮肉と読めばよいのか、迷う。烏を八咫烏(やたがらす)と読めば、あとは菊、桜と、暗喩は明らかで、そういえば、枯菊を詠んだだけで、不敬だと特高に捕まった俳人がいた。かつて枯菊は、立派な検閲対象だったのだ。問題は作者が何処に立っているか。あらゆる検閲を拒む側か、検閲の種類によっては服(まつろ)う側か。天津神に追われた地祇の側に立っているのか、それとも天津神と地祇を共に無きものにし、見渡す限りの均一化を図る側、天津神と地祇の確執を巧みに利用し、分断を煽り、最後にはさざれ石を平たく均し固めるように、コールタールを掛けて、さざれ石をアスファルト化してしまうように、何にもかも真っ平らに、見通し良くしようとする側に、期せずして立ってしまうのか。


神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる

狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜


 あたしは、作者が無邪気に地祇の側に立ってると、素直に信じたい。なぜなら、全て真っ平になった処には何もひこばえない。獣も生きられない。「悲しい寺」って、寺の有様が悲しいの? それとも、「大悲」の「悲」、抜苦のこと? 狼が悲しいから、寺は狼の心を映して悲しく見えるんじゃないかな。大神(オオカミ)、大いなる山の神は、なぜ悲しいんだろう。誰が天津神で、誰が国津神で、そして誰が弥生以前の地祇だったか。本当の処は、今ではもう分かんない。この数千年の間に色んな事実がごちゃ混ぜになって、その時々の偉いさん達に都合よく上塗りされ過ぎたから。狼は地祇であった頃の夢を見て悲しいんだよ。もしかしたら、作者が狼の夢を見て悲しいのかも。その場合、作者は狼に同調してるの。まつろわぬものの夢は、なぜ「社」ではなく「寺」で見るんだろう。社にまどろめば天津神、国津神、どこかに属さないといけないからかな。寺なら、ああ仏法無辺、空の通力に護られて、新たな自由を夢見る事が出来るかも。


蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇

光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う


 蛇の髭、という草はあるけれど、蛇の芽、って何だろう。蛇の目、という模様はありますね。同心円の模様の事です。蛇が植物のように生い茂ると読めば、一番納得のいく風景です。葉が饐えて光るなら、腐って燐が生じているとも読めますが、元々光る葉が饐える、醗酵している。これは饐えた匂いによって蛇を誘っているのでしょう。蛇は嗅覚が優れているからです。夜の中で光っている葉は、その光自体が醗酵であり、それが蛇を誘う。この葉がそもそも蛇ではないか。となると、蛇の芽も、丸い眼玉から生えて大きくなってゆく蛇の群、と素直に読んで良いと思います。


 なぜ蛇が植物と同一視されるのか。大地に根ざしているのか。地霊なるものが古代に、ハハ、とも呼ばれていた事。その自在な俊敏な動きを、或る時は蛇に喩え、或る時は狐に喩えた事、或いはアラハバキという名を想起しても良い。地に結びつくもの、地の力の結晶、本来は地に繁茂するもの。


 そして僕は狐だけど、わたしは記紀以前に追われたもの、羽羽(ハハ)で、俺は土蜘蛛である。いざとなれば、お前たちの吸う息吐く息に至るまで、見えない糸を張り巡らせることは出来る。わたくしは言葉の混沌が溢れ出そうとしている事を感じて安らぐ。


蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ


 巣に掛かる全ての反応を蜘蛛は感じている。風や雨粒や吹かれてきて引っ掛かるゴミや、もちろん獲物の生の鼓動も。蜘蛛の喜びも欲望も苦痛も、蜘蛛の肢先から巣の震えとなって伝わる。自分が認知する世界の反応全てが安らぎとなる。下五、「安らいだ」と過去形になっている処が、蜘蛛の物語の大団円なのか。


 俺は逆に、下五の「安らいだ」が単に作者の希望に見えるんだかな。蜘蛛が安らぐわけなかろうが。絶えず飢えて隅々まで巣を感じているなら、蜘蛛が安らぐのは死んだときだけだろう。それとも蜘蛛の臨終の描写なのか?


 安らいだって良いでしょう? 蜘蛛の巣みたいな小さな範囲の生活を隅々まで整えるのが、どんなに安らぎになるか。この蜘蛛は絡新婦(じょろうぐも)だと思う。スタイリッシュで手足の長い人が、そんな風に安らいでいるのは、素敵じゃないですか。


 蜘蛛は巣を統合している。統合とは安らぎであると言って良いのか。現状ではとても安らぎと言えなくとも、絶えず全神経を目覚めさせて緊張していても、巣というアンテナを全て感じていられる事は、いつか安らぎに繋がるかもしれぬ。


冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し


 この句は巣の無い蜘蛛なんだね。蠅取蜘蛛かな。それならぴょんぴょん跳ねて、いずれは机から落ちるんだよね。それとも足高蜘蛛? 足高蜘蛛なら、もっと机の上は狭いよね。あれに顔の上這われると参るよね。取り敢えず張るべき巣が無くて、領土の無い蜘蛛。自由だけど寂しい蜘蛛。だから愛に満ちている。籠る巣が無いから。あたしに言えるのは、ここまで。あとは土蜘蛛、語って。


 かつて見渡す限り山も谷も野も、俺の巣で、俺の領土で、俺の愛は涯が無かった。俺の愛は言葉を遙かに超え、言葉を書きつける机など、俺の脚先の毛一本にも足りない。冬もまた、俺の愛を凍らせる事は出来ず、吹雪は俺の全身を輝かせる。そもそも愛という言葉自体、その熱気は、俺のときどき吐く炎の一筋にも足りないはずだった。仰げば星が流れ、星の曳く光は、やはり俺の炎と同じく、細かく震えていた。


ほうき星苦しみを引きちぎりたい


 苦しみが、ほうき星にとっての尾として見えている。ほうき星が尾を引いて落ちてゆくのは、苦しみから逃れる為、苦しみを引きちぎりたいからだ、と言う。しかし苦しみは、ほうき星の身から出て、光として知覚される。苦しみが全て無くなるのは、ほうき星自体が燃え尽きる時だ。ほうき星は苦しみだけから出来ている。苦しみから、つまりは自分から逃れようとして、一瞬の軌跡を虚空に描く。


 言葉は苦しみです。全てを表現しようと、虚しい足掻きを続けるから。意思疎通は出来るようでいて、実は決して為されることはありません。言葉はどれだけ互いに重ねても、更なる上空で統合されることなどあり得ない。あり得るように見えるとすれば、それは単に平和の為に妥協し手打ちしただけです。各人の正義は永遠に争い合う。なぜなら、「正義」なる言葉は、怨念の復讐への欲望を、体よく言い換えただけだからです。言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。では、調停とは、或る意味、暴力なのでしょうか。


 だからあたしは迸る。俺は刃向かう。僕は出来るだけ遠くに遁れる。わたくしはお前たちの世の外から瞼の無い目で見ている。調和は意図して為されるものではないから、調停者よ、お前は取り敢えず黙れ。統合を諦めろ。


冬池の底の音無く孕(はら)みたる


 私は彼らに聞かれぬよう、囁きで解釈します。池底は、胎として何かを孕んでいる。何かの死体でしょうか。死体が産む諸々でしょうか。根でしょうか。まだ意志としてしか存在しない蕾でしょうか。泥に覆われて見る事が出来ず、音が無いから推測が出来ません。冬は休息の季節です。外気よりも池底の泥の方が温かい。死と生の間はこんな感じかもしれません。では、一旦休憩に入ります。

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