2022年7月15日金曜日

英国Haiku便り[in Japan](32)  小野裕三


 
バルト、カルヴィーノ、ボルヘスの俳句観

 西洋の作家や思想家で、Haikuに興味を示した人は決して少なくない。日本に旅行してその印象記を残した人が、その中でHaikuに触れるケースも多い。

 有名なところでは、ロラン・バルトがそうだ。彼の『表徴の帝国』は、一冊全部が日本文化を論じたもので、Haikuにも幾度も触れる。彼の他の著作でも俳句は触れられ、『恋愛のディスクール・断章』のある章では、芭蕉の俳句を引用した後で、「私も作ってみよう」とばかりに、芭蕉に倣った自作のHaikuを披露する。

 この夏の朝に / 港は晴れて / 藤の花をつみに出た

 フランス語を解するイギリス人の友人はこの原句を読んで、「英語よりフランス語で読んだほうが、いい感じよ」と言っていた。『表徴の帝国』における彼の俳句論は、彼のいつものスタイルで人を煙に巻くようなことばかりだが、どこかなるほどとも思わせる。人は俳句の中に「根源をもたぬ繰り返し、原因のない出来事、人間のいない記憶、錨索を離れた言葉」を認識するのだ、という彼の指摘は感覚的には納得できる。

 イタリアでは、作家イタロ・カルヴィーノが日本旅行の印象を「時の形」というやや長いエッセイにまとめた(『砂のコレクション』所収)。日本庭園を見て、「庭は詩の挿絵として、また詩は庭の注釈として創られている」と考えた彼は、「もし日本語を知っていたら、この情景を三行十七音の詩で描けば事足りるだろう、俳句を一句詠むのに」と思い至る。だが結局、バルトと違って自作のHaikuを彼は作ることがなかった。そんな彼の遺作となった小説『パロマー』では、日本の京都が舞台のひとつとして登場する。

 アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、世界各地への旅行の印象を記した本『アトラス』の最終章で、日本の出雲への旅のことを物語風に描いた。出雲に集まった神々の一人が、「(人間たちは)剣や戦争の技術を思いついた。つい先頃は歴史の終焉となりかねない目に見えぬ武器を思いついた。そんな馬鹿げた事態が生じる前に、人間たちを滅ぼしてしまおう」と憂慮する。それに対して別の神は、「確かにその通りだ。彼らはあの恐ろしいものを思いつきました。しかし、十七音節という空間に収まるこんなものもある」と言い、十七音節のある言葉を唱える。するとそれを聞いた最年長の神はこう宣告するのだ。「人間たちを生き長らえさせよう」、と。「こうして、<俳句>のおかげで人類は救われた」との一文で、ボルヘスはこの本を締め括る。

 Haikuが人類の救済につながるとは壮大な話だが、少なからぬ西洋の作家たちがかくもHaikuに敬意を払うのは、Haikuを通して、人間の根源的な価値の何かに敬意を払っているようにも感じる。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2022年3月号より転載)


【編集者予告】「俳壇8月号」に「haikuから見る俳句〜第二芸術論が照らすもの」という一文を掲載予定。

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