加藤知子さんを見る限り、句の中の作者像と実際に接した目の前の作者がこんなに食い違うことは稀であるとよく思う。句の中の顔と、日常の顔が、別人であると常々、そう思ってきた。なぜであるか?それは、俳句という表現手段が、彼女にとってどれだけ意義深いかということと無関係ではない。他の俳句作者のスタンスとは明らかに違うものを感じるのである。
この第三句集について、私なりに三つのキーワードを感じた。それは、女、闘い、劇場である。一見語りがたいこの作家について、一応のコースを設け、その地図を順に追ってみたい。
1.加藤知子と女という性
小生が或る通信句会で彼女と知り合ったころ、鈴木しづ子に傾倒していたと記憶する。その後、やや過激とも思える彼女の句に接しながら、その頃はまだ面識がなかったので、勝手にこんな顔だろうと想像していた。
少女期をひきずった、どこか少し翳りと痛々しさがあると。
すみれ咲くカラシニコフの発情
この句がその頃の第一印象として残った。ここへ来るか?という風に性的な表現が乱射されることがある。
だが、少し注意して読んでいくと、性的な表現にはまったくといっていいほどエロティシズムがなく、むしろ、これは彼女が闘うための通行手形なのだと分かってきた。つまり、女性の性が無ければ何事も始まらないという出発地点をちゃんと見定めていたということなのである。
高橋新吉の詩「断言はダダイスト」の一節を思う。
〈DADAは一切のもの出産し、分裂し、綜合する。DADAの背後には一切が陣取つてゐる。何者もDADAの味方たり得ない。DADAは女性であると同時に無性欲だ。だから生殖器を持つと同時に、凡ゆる武器を備へてゐる。〉
加藤知子と性。抜きがたい言葉である。
2.闘い
したがって、彼女の誠意は、この生=性への忠誠で、闘う、否、闘わねばならないということであった。
石牟礼道子というしるべ、そこには憑依のような演じ手の文体があり、世界があった。水俣という宇宙から現代社会を見返している闘いの記録があった。
3.劇場
そして、闘いは純潔する憑依、いわば観察者を抜け出した演じ手となり、その劇のクライマックスは、そこにキーワードを当てはめれば、抱きしめる、であると思う。
鵜を抱いてわたし整う骨の冴え
傷んだ鵜の魂を抱きしめることによって一体化され自分を感じる、そんなカタルシスが成り立つ。究極にはこの詩人はここをめざしていると、筆者なりに思っている。
加藤知子の出発点を想定してみると、
白桃の傷みはじめを旅はじめ
青春という自覚、それは傷みはじめを感じてからだろうか。
それがシャッフルすれば、
心中に似合う家あり大西日
稲光るたび人妻は魚となり
目隠し取ればここがさいはて衣被
と、こういう、たびたび、その青春回帰の願望が新たな現実と激突している句があり、独特の詩境をかたちづくる。
月光に袈裟斬りさるる目覚めかな
ちちははへ返す骨肉したたらす
金魚また死んで時計の逆回り
死生観をうかがえば、こんなところか、日常の安定というものへの志向はさらさらなく、むしろ志士の奮闘の如き烈死をこそ想定せねばならない、このきまじめな生の姿とは何なのか。
脳の襞さわぐ鏡の間の万緑
ふらここを漕いで手放す家を焼く
不思議な譬えになろうかと思うが、弘法大師空海に若き日、『三教指帰』なる青春の書がある。讃岐の一地方の豪族の倅として、官の立身出世の道を志すべく都の大学に入るものの、仏道に大きく方向転換し、多くの地縁血縁をうらぎることに至る、言わば出奔の所信表明のようなものであるが、平安時代当時としては類を見ない戯曲形式の構成を試みている。儒、道、仏という三教の区別はともかく、その生涯の大転換をうながすにふさわしい魂のゆえなきざわめきと揺れが、この作者の作句の衝動にも等しくうかがえるのである。
また、俳句の世界であれば、高柳重信の
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな
の如き身振りだろうか。句境よりも苦境、つねにその苦境を基にした衝動こそが彼女の句をかたどってきた。
けしからんヌードのるーる天高く
おしろいを吸いつくす肌冬銀河
だんご虫丸まり人に恥骨あり
一見挑発的に見えるかという性的表現も、作者にあっては星座愛好者が星を食卓上にあるごとく見るように、実は愛すべき日常性でありそれを全幅信頼する信念の如きものがあろうか。作句する材料や手段ではなく、むしろ目的地であり聖地をその日常の性の向こうに想定しているのである。
初旅や戦死者の歯をそろえむ
鷹鳩と化し生真面目な引きこもり
菊人形柩に入りてあたたかし
ここでは死さえ抱きしめるものとして、一体化する対象である。
もちろん、この作者の志向は次々と対象を変え、自身の存在感をたしかめようと格闘はつづく。だが、私はひとり、何をしているのだろうという自己の孤への問いはない。むしろ、問い続けることでつながりを探し続けているのである。
鎮まれば水の祭をクラムボン
抱き合い殴り合いけり鬼やんま
水没した五木という或る原郷へ近づくのは、水没の向こうにある村とのつながりを欲するためである。
衣や姫や倭の工人の勃起せる
刈るほどに下萌えてゆく王墓かな
万緑の壺のそとなる人の声
失われた古代国・伊都国に近寄り入っていく、もはやその国のキャスト、スタッフとなり、劇化してゆく、一見ミッシェル・ビュトールが小説『時間割』で見せた、理想を追うが故の時間の迷宮への旅、そんな手法を連想させる。
そして、卑弥呼にはその性を問いかける。もちろん、卑弥呼であり、作者である共通の性へだが。
すかあとのなかは呪文を書く良夜
こういう飛び込み型の問いのゆくえにあらわれるものとして、憑依と原郷、そして女性の性への接近と融合があったろう。
そこへ石牟礼道子が示す「高漂浪(たかざれき)」、つまり「身体は現の世界にいるにもかかわらず、魂が抜けだしてどこかに行ってしまって、行方不明になる」体験に惹かれ、原郷回帰の思いを核として水俣病の運動と連動し、その芸術を深化させてゆく石牟礼道子の論を組み立てていくのは、実にむべなるかなの道行きだったという他はない。
しかも、表題になっている常少女(とこおとめ)とは、万葉集の十市皇女の〈河上のいつ磐群に草むさず常にもがもな常処女にて〉から来る、言わば永遠の少女性のことであるが、この言葉そのものが筆者加藤知子自身の来し方の行為の姿に他ならない。
実は石牟礼道子を論じながら、紛れもなく自身の文学という行為を語っており、石牟礼道子に加藤知子を演じさせているのである。この俳句と評論の表裏一体となったのが加藤知子なのであり、この評論が俳句の解説にもなっていることを心して読むのがよいと思える。
海に降る風花ならば抱きしめる
ああ、石牟礼道子を抱きしめているなあと思う。
ニーチェに「深淵を覗き込むものは、また深淵に覗き込まれる」の名言があった。
だが、加藤さん、あなたの覗き込みたい深淵、まだ足りていないのでしょうね。
あらためて、常少女の詩人・加藤知子の道行きのここからの再出発に注目している。
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