2023年7月14日金曜日

【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測245 黒田杏子 ——俳句に命をかけ、一心不乱に走り回りついに斃れた人  筑紫磐井

  この3月、黒田杏子(12日)、齋藤慎爾(28日)という型破れのプロデューサを我々は失うことになった。齋藤慎爾については前号で述べたので黒田杏子に触れておこう。


「証言・昭和の俳句」

 黒田杏子が活躍し始めるのは、角川書店の秋山実編集長がキャンペーンを張った「結社の時代」後、海野謙四郎が就任し長期の編集長を務める。この時の中心企画が、①黒田杏子によるインタビュー「証言・昭和の俳句」、②中堅作家による「12の現代俳人論」、③櫂未知子・島田牙城によるインタビュー「第一句集を語る」であった。作家を中心とした、歴史的視点からの、以前の角川「俳句」らしい正統的な特集であった。

 特に「証言・昭和の俳句」はインパクトが大きく、好評とともに、この企画に対する不満が編集長に寄せられたこともあったと黒田から聞いたことがある。この企画は、もちろん「俳句」の編集長の発案もあったであろうが、黒田杏子の提案、人選が決定的であった。黒田杏子は、「この企画が俳句で実現されなくても、何人かの俳人に自力でインタビューし、独力で本にしたい」と述べているから、この本は角川の本であると共に、黒田の本でもあった。そして実際20年後に自ら新しい出版社を見つけ、さらに若い世代による解説記事を付して万全を期したことにより、まぎれもなく黒田杏子だけによる『増補新装版 証言・昭和の俳句』となったのだ。今回、黒田の追悼記事を眺めてみると、みな「証言・昭和の俳句」を掲げている。黒田を代表する著書であったことが実感される。

 これを踏まえて振り返ってみると、この数年黒田杏子は、金子兜太を語り、瀬戸内寂聴を語り、ドナルド・キーンを語り、獅子奮迅の活躍をしているが、言ってみればそれは博報堂の部長の延長にある活動かもしれない。出版業界がいまや沈滞している中で、志ある個人が奮闘するしか俳句の活性化は難しいのかもしれない。

 そうした中で最も長い企画は金子兜太の交流による。『金子兜太養生訓』『存在者 金子兜太』『語る 兜太』等兜太の著書をまとめるほか、兜太が主宰誌「海程」を終刊させたあと活躍の場として兜太を顧問とした季刊雑誌「兜太TOTA」を藤原書店から刊行する。直前の兜太の逝去のため4号しか続かなかったが、物故同人を編集委員にいただく雑誌は、寺山修司の俳句雑誌「雷帝」以来の企画であり、兜太のうずもれていた記録や記憶有を呼び覚まさせた意味で大きい意義を持った。


『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 亡くなる直前の黒田杏子の活躍を眺めておこう。「証言・昭和の俳句」に倣い、兜太評伝式インタビューともいうべき『語りたい兜太 伝えたい兜太――13人の証言』(董振華編・令和4年12月コールサック社刊)が刊行される。「証言・昭和の俳句」が聞き手役とプロデューサが半ばした事業であったのに対し、プロデュース力をいかんなく発揮したものであった。「証言・昭和の俳句」が13人の戦後活躍した作家を黒田杏子が一人でインタビューしたのに対し、この本は、金子兜太を13人の作家たちが語るのである(董振華のインタビューに対し)。そしてその構成から人選までを黒田杏子が助言している。

 「証言・昭和の俳句」が戦後俳句を13人の作家に語らせているのに対し、『語りたい兜太 伝えたい兜太』は戦後俳句を具現化する金子兜太を13の切り口から描こうとしたものである。「証言・昭和の俳句」が錯綜した証言であふれているが、『語りたい兜太 伝えたい兜太』も同じ兜太を語りながらこれほど多様であるということに驚かされるのである。しかしそうした矛盾を含めて、これが戦後俳句であり、また金子兜太なのであった。

 従って、このインタビュー集では、兜太の関係から、父伊昔紅を語り(橋本栄治)、草田男・千空を語り(横沢放川)、皆子を語り(安西篤)、大峯あきらとの対決を語り(宮坂静生)、現代俳句協会の発信・若返りを語り(宇多喜代子)、マーケティングを語り(中村和弘)、「おーいお茶」を語り(いとうせいこう)、朝日文庫を語り(関悦史)、俳句甲子園を語り(神野紗希)、「海程」創刊を語り(酒井弘司)、「兜太 TOTA」を語り(井口時男)、中国との関係を語る(董振華)一方で、こうした兜太の直接の関係以外にそれぞれの語り手の内面を話す。兜太との対話は、それぞれの語り手の内面と兜太との触発によって生まれてくることがよくわかる。

(中略)

 黒田杏子の最後の仕事は、3月11日の「飯田龍太を語る会」での「「山蘆」三代の恵み」の講演であった。翌日12日、宿で食事の後に脳出血を発症し、13日入院した甲府の病院で亡くなった。実は私はその直前に黒田氏から電話を受け、龍太と兜太に関する座談会を開くことに決めたので参加してほしいということであった。結局この取材のためにわざわざ山蘆を訪れたのではないか。いかにも俳句に命をかけ、一心不乱に走り回った結果ついに斃れた人であった。ご冥福を祈りたい。