2013年5月24日金曜日

中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】15.16./吉村毬子

15 喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

墨色の喪の衣は、生者が纏うものである。死者は、白装束に包まれる。

生者である者の墨色の喪の衣の裏が、「あけぼの」を噴き上げるのだと詠う。「あけぼの」は、薄っすらと仄仄と、空が明けてゆく様であるが、その「あけぼの」が喪の衣の裏で「噴き上げて」という事態は、尋常ではない。白装束へ送るその詩の色彩。喪の衣の表の墨色と裏のあけぼのの朱色が織りなすその色は、死者の白い衣へ滲み出していくことだろう。淡く濃く、死者と生者を結び付けながら・・・。
新しく生まれ変わるという意味をも持つ「あけぼの」は、死者の新たな始まり、そして、両者の遠い遥かな未来を詠っているのだろうか。

死を扱った句で、このような作品は記憶にない。死者と生者との距離を隔てない独特な表記である。生と死という、人が与えられた究極な対比を同一線上に置き並べ、その線を苑子流に綾取りの如く交差させる。それもまたひとつの輪廻の形であろう。

此の句を目にした当初の二十代の頃は、死者の死を秘かに願っていた生者の側の視点からの句と思い込み、作品とは言へ、誰にも聞くことができなかった。しかし、幾度も読み返す過程で、死者への新たな始まりへの礼賛の句ではないかと思うようになった。

次句もまた、死を自己の中で咀嚼していこうとする段階の始まりであろう。


16 祭笛のさなか死にゆく沼明かり

「祭笛」の響く雅な華やかさの中、死んでいく者がいる。祭りの喧騒に送られる死とは、如何なるものか。例えば、桜舞い散る季節でのひとつの死の在り方として、美しさに憧れる様もある。祭りが賑やかなほど、その死の静かさを増していく。

「沼明かり」を下五に据えた締め方は、「祭」と「沼」の対比に寄り、双方がその語の存在を印象深くさせている。「沼」ではなく、「沼明かり」である。仄かに灯るその明かりは、死者を招く標なのか、死者の魂であるのか・・・。夜の闇の中で突き抜ける笛の音が沼の辺まで届き、湿りを伴う地や虚空が沼とともに葬歌を奏でる。

前句もそうであるように、黒という闇-死-を思わせるものと仄かな明るさの朱-生-を対比させて一句を成している。が、特筆すべき点は、死に対する仄かな-生-が再生、蘇生を感受させるものであるということである。前句の「喪の衣の裏」に、見る見ると染め上げられてゆく「あけぼの」の「朱」、掲句の沼の底から湧いてくる「明かり」は、生身魂、魂魄かも知れない。そして、闇の中の黒と仄かな朱との配合が醸し出す色彩も、その蘇生感を彷彿とさせているのである。

17 来し方や袋の中も枯れ果てて

何の「袋」であろう。そして、「来し方」とは、とても永い時間大切な何かをしまっておいたものなのか。
己を容れた、己が包まれていた歳月という名の「袋」とも言える。「袋の中」には、かつての理想に燃えた己がいた。苦境に喘ぐ日々もあった。悲哀に泣いた日もあった。が、「袋」は、「生」の象徴であった。しかし、今、その「袋の中も枯れ果てて」と呟く。

切れ字{や}を使用しているが、一句一章の内容であり、{や}は切れと共に感慨、嘆息の{や}でもあろう。

虚しさの果ての諦念観が此の一句に込められている。「生」が始まった瞬間より、「死」も始まるのだが、この停滞した「生」は、「死」へも到達することはなく、ふらふらと彷徨っているだけである。

前の二句の、蘇生をも思わせる鮮やかなまでの「死」の提示からすれば、燻るばかりのかたちのない「生」である。人は、永年の生を得ると、このような一刻も必ず訪れるのだろう。

今回の見開き二頁終わりの四句目に至っては、更に「生」を嘆いているようである。


18 天地水明あきあきしたる峠の木

「天地水明」は、「天地神明」からの発想か・・・。

「天地神明」は、天地の神々への感謝や誓いに表される言葉であるが、「天地水明」、それは、日月の光に水澄む美しき日本の天地のことであろう。それもまた、自然の神々のもたらす生命の源であろう。
しかしながら、その後に続く中七、下五の「あきあきしたる峠の木」は、投げやりなまでの表記である。「天地水明」の透明、且つ、平和な安定感に浸りながら、頂点の峠に立つ木がその状態を拒むように、嘆いているようにも伺えてしまうのであるが・・・。

登り坂の頂点に立つ木、それは下り坂の始まりの木でもある。峠の木は、登り坂を克服した後に、必ず訪れる下り坂を降りて行くものを、繰り返し迎え、見送ることにあきあきしたと言っているのか・・・。
「峠の木」は、苑子自身であろうか。もしくは、「峠の木」を幾度も眺めた、過去の昇り降りにもうほとほと疲れ、愛想をつかしたということなのかも知れない。

真髄は、「天地水明」と叫ぶ切れである。「天地水明」に本心を語っているのだ。自身を育み、慈しんでくれた「天地水明」だからこそ、訴え、誓えることができるのである。「天地神明」から「天地水明」と表記し、「神」を「水」と同様に呼んだその叫びは、「水」に対する畏敬の念が溢れている。天地を流れる水から、有り余る恩恵を授かり、自身もその水と一体化するように昇り降りし、流れてきたのである。此の句は、「水」は、苑子の「神」なのだと言い放ち、その「水」に本音を漏らしているような気がしてならない。

「水妖詩館」という句集名の第一章、{遠景}にふさわしい一句である。



【執筆者紹介】

  • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員

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