2013年5月10日金曜日

第19号(2013.05.10.) あとがき

北川美美
「歳旦帖」を読むに新旗手・中山奈々さんに執筆をお願いしました。フレッシュな視点で俳句を読んでくださっています。俳句に棒って!?

中山さんの棒でつながりますが、指揮棒の話。郷里の高校(母校)の管弦学部が熱いという情報を地元新聞記者の方から得て、「第35回桐生女子高校管弦学部定期演奏会」というものに行ってきました。これは、8年間その指導をされた教員の方が今春で異動になり、指導者として最期の指揮棒を振るというもので、そのステージ構成には高校生とは思えない洗練されたものがあり想像を越える演奏の技術力でした。公立の女子高校が存在していることすら稀な時代ですが、D・ショスタコーヴィッチの交響曲を第三楽章までをセーラー服の女子だけで演奏しきったことは感動そのものでした。(特にパーカッションが躍動感あり素晴らしかった。)

その教員の方が最期のスピーチで「アンコールに今まで“チェリー”を演奏して参りましたが、本日でそれを封印いたします。一つの時代が終わったことにいつまでも“チェリー”を演奏するわけには参りません。」と清々しく語られました。そのアンコール曲を演奏された後に後任の教員の方へ指揮棒を渡され、新監督の元「威風堂々」が演奏され幕が閉じました。

何が言いたいかというと、時代の終焉というのを何処で区切りをつけるのかということになるのかと思います。指揮棒を振る方の終り方、世代交代について試される時代なのかもしれません。

筑紫相談役の下記の後記とまったく被りますが、「雷魚」が100号で終刊との後記を拝見し上記と同じように考えるものがありました。世代として考えるに「ゆとり」という個人の自由が尊重された教育方針(参照:wikipedia「ゆとり教育」)、が1980年代以降に取り入れられました。この第一世代といえるのが、昭和35年~40年の生れ、私の世代なのです。これにより個性は重視されるようになりましたが、集団としての存続についてますます力を尽くさない世代へと移ってきているような気がします。それが「結社」存続が難しくなってきている現在と関連している気がしています。またそれは、前衛芸術運動、安保反対学生運動のような運動という名前がつく現象が今後起らないことを示唆している気もします。 (ただ現在の原発反対運動のデモ行進に参加する若者も多く一概には語れません。)だんだん後記が長くなってきました。

「豈」編集人・大井恒行さんより投稿頂きました。因みにこのサイトの正式名称は「-BLOG俳句空間‐戦後俳句を読む」という長いものです。結社、世代の枠にとどまらず俳句ならびに詩歌について多くの方に参加していただけるよう努めて参りたいと思っております。


筑紫磐井

○俳句雑誌「琅玕」が終刊となる。昭和52年に岸田稚魚氏の創刊したこの雑誌は、稚魚氏の没後(昭和63年)手塚美佐が主宰を承継したのだが、その突然の終刊についてこのように理由説明がされている。

稚魚先生が亡くなり私が主宰に推されたとき、10年間だけ主宰を務めましょうと、幹部同人に約束しました。しかし、10年経ったとき約束は反故にされました。幹部同人たちはどなたも私の意向を聞き入れてくださいませんでした

雑誌運営の赤字やスタッフの高齢化などがあったと思われるが、それをカバーする協力が会員同人たちから得られなかったらしい。「青樹」「曲水」など歴史のある俳句雑誌が似たような理由で最近終刊している。

俳人協会の総会に初めて出席したところ、鷹羽狩行会長が近況を報告した中に高齢化による会員の減少を挙げていた。会員の平均年齢が75歳を超えたのだそうである。会長によれば、これは即刻対処しなければならない問題と言うよりは、中長期的な展望に立って今から準備に入ろうという課題だという。しかしこれは、協会のような大きな組織にとっては平均的問題としてそう言えるのかも知れないが、個別に見れば喫緊の課題となっている結社も多いのではなかろうか。

最近、結社雑誌から同人雑誌化している現象を読みとることが出来るが、さらに限られた主宰と一握りの人たちによるボランティア的な奉仕で成り立つ個人雑誌というべき状況になっている気がするのである。手塚氏の言葉を読むと、結社があることで安穏に作品を発表するだけの同人たちに対し、手塚氏の憤懣がまさにうかがえるように思うのである。

○小宅容義、松崎豊、八田木枯氏などの創刊した同人雑誌「雷魚」が小宅容義氏など中心同人8名が退会したという。創刊のとき要となった松崎豊氏、そして八田木枯氏がつぎつぎなくなったことにより存続の意義が薄れたと判断したようである。現在94号が刊行されているが、残った同人たちにしても切りよく100号で終刊にすることが決まっていると言うから、あと2,3年で「雷魚」は終刊することとなるらしい。問題は結社誌も同人雑誌も変わらないのであろう。人が変わる(中心人物が高齢化する、新しい世代に入れ替わるなど)ことにより、より最適の集団が望まれる。その時、結社や同人雑誌を無条件に維持する以外の選択肢も次第に増えてきているようだ。

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