2013年5月31日金曜日

戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟


【十五】津田清子の発見-秋元不死男の《古さと短さ》、また―句集『瘤』のことなど。

1)

先回、天狼第三周年記念の秋元不死男の講演を紹介した。

引き続き、平畑靜塔、永田耕衣、西東三鬼らの説の解説を続けながら、《遠星集》の津田清子の句や山口誓子の《選後獨斷》をみてゆくつもりだが、実はこの読破の途中にひとつの課題が湧いてきた。初期「天狼」を席巻したこの「根源俳句論争」なるものは、一体なんだろう、という疑問である。戦後俳句を見る上ではこの有名な論争を看過できない。赤城さかえ『戦後俳句論争史』(一九六八年・俳句研究社)にもこの詳細な研究があることは承知だが、自分の目で幾分なりともその論議が立ち上がる頃の臨場的気分を得たくなった。それで、その成り行きをしらべてみたくなった。ただし、それには別の項目を立てなければならない。

昭和二十六年十月の彼らの講演は、既に天狼内では出てきている各氏の根源論の中間総括やおさらいみたいなものである。秋元不死男に触れてもうすこしそのことを書いておきたい。

2)

例えば、秋元不死男の《古さと短さ》という講演内容は、じつは「天狼」第三巻第十一號
(昭和二十五年十一月号)の《俳句の前途》というエッセイのそこに直接触れてくる問題意識だ。

秋元は、明治二十五年に書かれた正岡子規の『獺祭書屋俳話』の《俳句の前途》という小文についての感想を述べながら、俳句の短さ(子規に言わせれば「区劃の狭隘」)についての反省をしている。この「区劃の狭隘」たることによって、「俳句は已に盡きたり」と子規はいう。少なくとも、明治時代が終わるまでに俳句は滅ぶのだ、という。これは有名な文章で、筆者も一度ならず読んだことである、おおむね筆者はこの言葉を一種の反語として受け止めていた。現実がそう動いていないが、滅びの兆候は多々感じられるからだ。秋元もそのように受けているが、彼は、正岡子規が俳句に対して幾分冷ややかに書いていることにも触れてもっと踏み込んでゆき、そこからあるべき俳句の姿を浮き上がらせようとしている。

見やうによれば、これは第二藝術論のはしりであつた。しかし、文學(散文)と詩の本質を混同しつつ、俳人の文學的責任に於て、俳句の衰弱を診斷してゐない桑原説とは大いに異る。子規の場合は―これは彼れ自ら説明していないけれど、―文學と詩(ここでは小説と俳句)の本質的な区別といふものを、小説家になるを欲せずといふ決意によつて知り、更に重要なことは表現を通して知り、又、俳句の終末近きことを「罪其人に在りとは言へ」、と一應俳人の文學的責任に問題の場を残してゐることなどによつても察知されるのである。
                   秋元不死男《俳句の前途》「天狼」第三巻第十一號)

と、桑原の大雑把な俳句への理解を批判しながら、批評や小説のように膨大な言葉や、センテンスや材料を駆使できる散文世界に対して、たった十七文字で何が言えるか、という現代につづく俳句の大テーマを改めて、持ち出す。

敗戦後の日本文学では、戦争協力をめぐって文学者の戦争責任が追求されており、その戦後的な特殊性に照らしてみると、子規を持ち出すのはかなり我田引水という気もしないではないが、「天狼」創刊の目的の一つに、桑原武夫の《「第二芸術」論》への反駁、自衛という目的があったのはそのとおりである、とともに、正岡子規を読みながら、明治の自然主義小説流行の中で正岡子規が「俳句の短さ」という欠点を深刻に受け止めていた、という事実の指摘は鋭い。「第二藝術論のはしり」とはよう言い得たものである。

十七音といふ限られた狹まい世界のありやうを眞に知るのでなければ、それを知ることによつて、俳句が自らの生き得る力を知ることにならなければ、俳句の命運は盡きるのだ、と(註・子規は)云つたのである。」さらに、

それは、文學俳句を含めた多くの観念俳句に対する警告でもあつた」(秋元不死男、同文中)
と結ぶ。「文學俳句」というのは中村草田男に対する批判であるのだが、小説という世界に対抗して、俳句で小説や物語世界を書くようなことは、無効であることを言っている。まあ、そのへんは草田男の詩的感覚やイデアリズムの方法がもっと検討されねばならないが、ともかく戦時下の弾圧をくぐってきた秋元不死男は、戦後表現の自由が認められ、弾圧する敵がいなくなったその時に、改めて自分がひきうけた詩型の短さを痛感している。且つ新興俳句が追求した新しさの内実を、伝統意識の不在ないしは貧弱さとして反省しているのである。秋元に限らす、天狼では子規、茂吉への関心や研究がしきりに行われている。

この「根源探求の俳句」という議論が、俳句史上の成果があったとかなかったとかは、もちろん問題ではあるが、「天狼」の創刊時から昭和二十九年、三十年頃まで、このカテゴリーのもとに、俳句の特性について、盛んに語られているということは、ジャンルの内側にかかる切実な反省があったからでもある。戦前戦時下の新興俳句の挫折は、この短い古い詩形を引き受ける表現者としての姿勢を問う作業を自らに強いることとなった。

秋元不死男句集『瘤』が刊行され、「天狼」第三巻第七號(昭和二十五年七月號)には、その書評が載っている。(鈴木重喜《二人居るオヤジ》)。十二月號には平畑靜塔《”瘤 ”の切り株》、という書評がみかけられる。いずれも力作である。これらが現在においても重要な文章であると思えるのは、戦前、戦時下(「土上」「京大俳句」)から投獄を経て、戦後(「天狼」「氷海」)昭和二十六年の時期までの、作家自身の多彩な才能とか、境涯の熾烈さは一応別にして、表現上の転機について関心が集約されている。昭和十五年以前は積極的に連作や無季俳句を推進していた秋元が、戦後「天狼」の大会で、俳句が宿命として傳統をになった短い詩であるこことを、納得するべきだ、と強調するに至る。

「街」「木靴」に於て、それが東京三の本道であるかの如き連作俳句の一連が、この句集には跡形もなく消えて、昭和十五年以来、「無季俳句」を揚棄し、「俳句の場」を強調し、自由律俳句を排除してきたオヤジの戦後作品には、その「場」に執着する余り、人間を祕めては只管俳句的骨格の可能性を実践してゐるような句が多くあつたのは否めない事実である。 
    (鈴木重喜《二人居るオヤジ―句集「瘤」について―)(天狼第四巻七號)

3)

平畑靜塔は、秋元不死男句集「瘤」については,衆人の評価する「獄中俳句」より「極外俳句」に惹かれる、という。秋元に「天狼」の「根源俳句精神」の無いことが欠点であるし、肉体性や暗黒性がなく、知的すぎる、とかまあ友情に満ちた辛口批評の最後に、しかし靜塔がいうには、


誰もが云ふやうに、「瘤」の前書句の心にくさである。

たまたま親を難ずることのあれば 
   父ゆ受けし一羅さへなし蚤の跡  

 「天狼に加はる」 
   師を持つや冬まで落ちぬ柘榴の実


これらの前書句は、現代俳句では一寸類のない完全俳句であらう。「瘤」成熟度は前書句によると云つても過言ではない程、成熟そのものである。/(略)。

   (堀本註、本文三句中一句省略。また実際の表記では文の行頭や、句の引用の場合は一字下げ。)

更に、靜塔はこれは不死男の成長ではなく、「傳統への解消だといわれても成長は成長だ」、と変わったほめ方をする。虚子の前書句の巧さと比べてみると、「進歩のない成熟であるか否かがはっきりするだらう/(略)/新興俳句がこゝまで成長したと云ふことを示すひとつのいい例が「瘤」の前書句によつて示されてゐる。

       (平畑靜塔《瘤の切株》「天狼」第四巻第十二號)

要するに、この句は、秋元不死男個人の才能ということではなく、傳統の形式の力が書かせたものだ、というのである。この指摘は、少なくとも戦前の「京大俳句」史上の句集評にはでてこなかった視点である。単純に先祖返りであったり、転向であるとは言えない、相当深刻な反省が、誓子にも靜塔にも不死男にもあったと考えられる。しかも、ホトトギス虚子流ではない伝統回帰、それを求めていたのである。


秋元不死男については、ここはこれで一應終わるが、問題はやはり「根源論」の諸相をもっと正しく理解すべきであるということだ。とくに秋元不死男は、堀内小花の一元俳句とか、や永田耕衣のような「東洋的無」というような求心的な観念論には入り込まない、即主義の人だから、俳句の方向は西東三鬼に近い。「根源」という理解もさまざまなのである。(この稿了)

 

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