昭和46年(1971)「春燈」5月号に見られる作品は前書きに〈老いては子に従ふといふに2句〉とある。これはきくのの姉が息子夫婦と同居した折りに交わされた会話から引かれている。きくのも65歳となり、姉との会話もいつのまにか老姉妹のそれを感じさせるものとなった。
移りきて遠流に似たる冬といふ
さきたまの越ヶ谷としも干布団
さらに同年12月号には、
いわし雲ひと頼まねばくらされず
と心細い句も発表する。とはいえ、東京にいれば意識せざるをえない年齢も、旅の空では情熱のきくのが舞い戻る。昭和47年(1972)「春燈」1月号には真砂女とともに鞍馬の火祭作品が掲載される。
火祭にゆく亢ぶりはかくされぬ
火祭のこの期に何をたじろぐや
火祭の男たぎらす火の仕業
火祭に火照らせし身のうらおもて
激しい炎に身を火照らせるきくのに年齢は微塵も感じられない。
そして、きくのは駆り立てられるように旅を続ける。
昭和47年(1972)、きくのに講演の依頼がある。その「女性と俳句」と題された講演内容を聞く機会があった。どんな俳人より舞台慣れしているとはいえ、演台でのひとり舞台は格別の緊張を強いられたことだろう。「こんなに長い時間、ひとりで話したのは初めて」と語るきくのの声は、よく響く低音で、そして思いのほか早口であった。印象的だったのは、山の手の「ざあます調」。しかし、取り澄ました感じではなく、ごく丁寧に話しを進める上での言い回しに感じられた。一方で「霙」を説明するのに「氷をぶっかいたような」と伝法な表現が唐突に出てくるあたりに、なんともいえない愛嬌があった。講演は、俳句との出会いから始まる。それは商業学校2年の国語の時間に「猫板俳諧」として何句が挙げられ、そのなかで一茶、千代女の作品に並んで〈林檎食うて牡丹の前に死なんかな〉があり、あまりの短絡さにあきれて先生に質問をしたことで忘れられない記憶となっているというものだ。きくのは蕪村の句として覚えてたが、実際は子規の句である。インターネットで検索すれば容易に作者が判明する現代と違い、よほどのはっきりした確証がない限り、思い込んでいる作者の誤りが正される機会は薄いだろう。
それにしても、別件で戦後の教科書に掲載されていた俳句を追っているが、年配の方が幼少の頃に出会った俳句を一字一句きれいに覚えておられることに驚く。十代のきくのの心に、つまらないと印象付けられたとはいえ、俳句が植え付けられた記念すべき一件ではある。
講演ではあらかじめ配布資料も綿密に作られていたようだが、結局テキストは終盤15分ほど触れただけで、話題はさまざまだった。最初こそ緊張が感じられた口調も、時間を追って自在となり、冒頭に触れていた火鉢の「猫板」が人間の愛情が付けた名だといい、敬愛するユトリロの絵から「道」とは人間の生活そのものであるなど、きくのの俳句や文章に見られる軽快なテンポや才知が随所にうかがえる興味深い講演であった。
昭和49年(1974)には夏遍路に赴き、また手元にお借りしているきくののアルバムは同年の日付でマドリード、カサブランカ、リスボン、そして当時の南回りらしくフィジーを経由する写真が収まっている。海外へも和服を通しているきくのだが、さすがにフィジーではサンドレス姿のスナップも含まれ、しなやかな手足を見ることができる。中年以降、眼鏡を常用していたきくのは、当時の女性が皆そうであった黒縁眼鏡が少々残念ではあるが、現代でもじゅうぶん通用する小顔とすらりとした肢体を保っていることが分かる。
昭和51年(1976年)は末弟を病いで亡くす。きくのは墓所の鎖に取りすがり泣き崩れたという。下記二句目には〈弟新盆〉の前書きがある。愛する者、それも自分より年若い者を失う喪失感に投げ込まれるきくのの姿がそこにある。
遍路笠胸にほとけのまた一人 (昭和51年「春燈」4月号)
名を呼びて覚む短夜のゆめまくら (昭和51「春燈」年9月号)
うつせみや残されて負ふひとの業 (昭和51年「春燈」9月号)
花野の日負ふさみしさは口にせず (昭和51年「春燈」10月号)
新盆を迎えるまでの間に旅した京都では、置き引きに会う。〈京都鴨川の宿にて5句〉と前書きされた「春燈」6月号の作品は、呆然、苦笑、のち指輪が戻ってきたことの驚きへの展開はまるで映画のような仕立てになっている。どれもくやしいという感情より、自身に起こった災難をどこか不思議がっている様子さえ見受けられる。
置引きにまんまとやられ四月馬鹿
笑顔もて逃げ失せたりし春の闇
ハンドバッグ水雑炊の一夜漬
おみくじの失もの出でし柳の芽
亀鳴いて指輪戻りしまことかな
昭和52年(1977)「春燈」7月号にはモロッコ所見とされた作品5句が発表された。
次に挙げる二句は、今までにないほどの大らかさを備え、円熟期を迎えたきくのがよく現れている。歳月が招く、諦めでも、焦りでもない、今を生きることへの慈愛の微笑みがにじみ出てくるような胸板の厚い作品である。
生くるべく地球のまろさ耕すか
地平まで熟れしこの麦手で刈るか
そして、昭和53年(1978)「春燈」5月号には家族への思いが感じられる一句がある。前書きの〈和夫の、壮一の、〉は甥の名である。
すずかけの実のそれぞれに転任す
和夫はきくのの姉の三男で当時ドイツに転勤。壮一は先年亡くなったきくのの末弟の長男で、四国へ転勤というタイミングであった。葉陰になる実のつぶらな様子に、転げ回っていた幼い頃の甥の姿を重ね、また「すず」の響きに寿ぎと彼らの明るい未来を思いやるまなざしが込められる。
きくのの姪にあたる野口さんは大学卒業を前に、和夫氏が赴任するドイツにきくのから旅行をプレゼントされたと聞いた。きくの自身に子はいなかったものの、甥や姪の成長をあたたかく、ときに手を差し伸べながら、愛情を注いできた様子がうかがえる。先の「春燈」での句会の後の、若手を中華に誘う場面にも重なり、面倒見のよい姉御肌のきくのの一面である。
亭主より女房ほしき秋のくれ (昭和54年「春燈」1月号)
きくのが時折作品に見せる愛嬌のなせるつぶやきである。吟行し、俳句を整理し、原稿にまとめ、忙しく過ごすきくのの本音ともいえよう。勢力的に作品を生み出すなかで気になる一句もまた。
露の身の恋の文束焼くとき来 (昭和55年「春燈」12月号)
このとき、きくの74歳。気ままなマンション暮らしにもそろそろ終わりが来たようだ。
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