思えば、第三次「豈」ともいうべき「俳句空間―豈」にリニュアールしてからすでに10年が経とうとしている。1980年創刊の同人誌「豈」は、96年、攝津幸彦を喪い、97年追悼号(筑紫磐井編集)を出したのち、第二次「豈」(発行人・大井、98年1月)として継続し、再スタートを切った。2001年に発行人・筑紫磐井、編集人・髙山れおな新体制に移行、途中35号に記念冊子「黄金海岸篇」(監修・大井)を間に挟み、37号(2003年10月1日発行)特別号「俳句空間」篇(「俳句空間」休刊10周年記念、監修・池田澄子)を出し、発行人筑紫磐井の発案と決断によって、38号から第三次「豈」ともいうべき、内部同人ばかりでなく、同人以外の執筆者の協力を得て、たとえ小さな場であっても、開かれた誌としての「俳句空間」を冠した「-俳句空間―豈」(発行・筑紫、編集大井)として現在に至っている。
ともあれ、新たに冠された「俳句空間」の名称について、これまで色々お尋ねも頂いているので、ちょうどよい機会でもあり、そのいきさつを明らかにしておきたいと思う。
名称の出自については、「俳句空間」(書肆麒麟)1~5号の編集・発行人であった澤好摩がインタビューに概略次のように語っている。
「準備会の時に一人一案ずつ出し合って最終的に『俳句思潮』と『俳句空間』の二つが残り、『思潮』は他にもあるということで無い方にしようというようなことで決まったと思う」。
因みに「俳句空間」の名称の提案者は高橋龍である(本年5月4日にご本人に確認)。
準備会というのは、1985年9月に「俳句研究」が角川書店子会社の富士見書房に売却されたことで、「俳句」に対抗するべき俳句総合誌が無くなり、「俳句研究」の編集に携わっていた澤好摩を囲んだ新たな俳句雑誌創刊の構想が持ち上がった。十数人の参加者であったように記憶するが(26,7年前のことなのでおぼろであるが、澤好摩・糸大八・阿部鬼九男・夏石番矢・高橋龍・太田紫苑・沼尻巳津子・仁平勝など)、福田葉子が会計を担当した(準備会には出席されなかったが、「俳句評論」の会計をされていたことから白羽の矢が当たったらしい)。さしあたり、資本も何もないなかで、寄付金や資金を集め、翌86年には季刊ではあったが、「俳句空間」(書肆麒麟)が創刊されるのである。
その後、第5号まで書肆麒麟で発行されたが、第6号からは発行母体を大井が勤務していた(株)弘栄堂書店に移して、新装刊「俳句空間」第6号・特集「寺山修司」で全国書店への委託販売を行なった。「俳句空間」は、書肆麒麟から(株)弘栄堂書店に譲渡される際に、名称・財産ともにすべての権利を委譲する譲渡契約書を交している。「俳句空間」はその後、第23号(1993年6月)で休刊(実質廃刊)した。当然ながら、休刊後も所有権は(株)弘栄堂書店にあったが、時を経て2008年12月31日に(株)弘栄堂書店は会社解散(奇しくも大井の定年退職日と同日)をしたので、商標上における「俳句空間」に関する諸権利は、そのときに消滅した。
従って、その後の「俳句空間」の名称は、どなたが使用しても自由である。もちろん、詩空間、詩的空間というような言辞と同じで、俳句空間の・・・などとも記述される共通の言語財産でもある。
あえて蛇足を記しておくと「俳句空間―豈」は「俳句空間」と同じではない。「俳句研究」に「新」をつけて「新・俳句研究」と名付けても新雑誌創刊が可能なように公序に反しない。いささか取り留めのない話しになってしまったが、かつての「俳句研究」に髙柳重信の俳句形式に対する志が誠を尽くしたように、微力ながらも私たちに唯一志すことがあるとすれば、時代の激流にもまれ、呑み込まれながらもひとすじ俳句形式に殉じる誠をこそ矜持したい、と思うのである。それが、コントロコレンテ(反流)の謂いではなかろうか。
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