わが家の牡丹
牡丹と知りて紋白蝶とまる
牡丹の咲きし日数を指折りて
牡丹十日母にものいひ過ごしたり
細見綾子は、明治四十年(一九○七年)、兵庫県氷上郡芦田村に生まれた。父・細見喜市は、農業、芦田村村長などを務めた、素封家であったようだ。武蔵野の綾子の家の庭の中央にある牡丹は、この郷里・丹波の生家の裏庭にあった古株を移したもの。四、五歳のころ写した写真に、この牡丹も写っており、綾子はその写真を撮った時のことを覚えていて、それが自分の記憶の始まりだという。
芦田小学校卒業後、兵庫県立柏原女学校に入学。入学を期に、寄宿舎生活を送り、翌年父が病没。牡丹は、その後に出会う悲運の人生を知らず、父母の元で幸せに暮らした少女時代を象徴しているかのようだ。
綾子の師・松瀬青々は、「むらぎもの心牡丹に似たるかな」という句を詠み、綾子は「わけのわからない心というものを、牡丹に似ているのではないかという作者の感慨は言い得ざるものを言い得ている」と評している。
「牡丹の花はこの上ない豊かさともに、他のものには見られない寂しさをあわせ持っている。むしろ寂しさが後に残る。」と、『武蔵野歳時記』に記した綾子。平成六年に、夫の沢木欣一監修の元に、綾子の米寿記念に出版された『綾子俳句歳時記』によると、牡丹を詠んだ句は百七句にも及ぶ。四月二十三日の母の忌日を詠んだ句も多く、牡丹の蕾を鑑真和上の写真と仏壇に供え、亡き母を偲んでいる。母に関しての文章はあまり多くはないが、京都に生まれ、機を織るのが好きで、家族の絣や縞の着物を織っていた。創意工夫を凝らし日々の生活を楽しんだ人のようであり、後年の綾子の印象に通じている。
父の忌
父の忌をあやまたずして白山茶花
山茶花が咲きて日数のみづみづし
山茶花の全身の花夕日まみれ
山茶花咲く二夜ばかりは月夜にて
ポストへの径吾が径に山茶花散る
山茶花は咲く花よりも散つてゐる
掃き寄せる凍てて散りたる山茶花を
綾子の庭の山茶花は、昭和三十一年、武蔵野に越した際に、丹波から、父の育てた百年の古木をトラックで運んできたもので、当時は「山茶花が箱根越えをした」と、語り草になっていたらしいが、昭和六十三年に枯れている。その後、丹波から一緒に持ってきた苗木が育ち、父の命日の十一月一日頃に咲き始めるという。
父が亡くなった時、綾子は十三歳。「早くも別れたせいか、私は父について何ひとつ暗い記憶を持っていない」という綾子の父の思い出は、「百人一首のかるた取りの読み手をしてもらった」「(珠算が苦手な綾子のために)ノートにたくさん練習問題を作成して毎日練習させた」と、たわいもない。異性である父から距離を置くようになる思春期の入口で、家を出て、父と死別した綾子は、一生父恋いの思いを持ち続けていたのだろう。
牡丹と山茶花は、「自分はかなしむことだけを知ってゐるやうに思ふ」と、後に書いた綾子が、まだかなしむことを知らなかった時代の象徴である。
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