2021年3月12日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】13 時間の中を飛ぶ鳥  鈴木牛後

  中西夕紀句集「くれなゐ」(二〇二〇年/本阿弥書店)を読んだ。ここでは、本句集から句を引きながら、一句の中に流れる時間ということについてまず考えてみたい。
  干潟から山を眺めて鳥の中
 ひろびろとした干潟から遠くの山を眺めている。そして、周りにはたくさんの鳥がいるという景。眺めているのは山なのに、作者の関心はむしろ鳥の方にある。そのことは「鳥の中」という結句から明らかだ。たくさんの鳥が虫などを啄むために干潟に集まってきていて、その鳥たちと気配をひとつにして、作者は身じろぎもせずに干潟に立つ。干潟から山までの大きな空間と、鳥の気配に包まれた比較的長い時間を、一句の中にひろびろと描く構成となっている。
  戸を鎖せば谷の深きにけらつつき
 「鎖(さ)す」という表現からはぴったりと戸を閉めるイメージが受け取れる。家の中の音や気配が、外に出て戸を鎖した瞬間に、外の深い幽谷や啄木鳥の鋭い打刻音に変わるという、その変化が鮮やかだ。屋内の淀みから幽谷の澄んだ空気へ、テレビや生活の音から啄木鳥や風の音へ。この句の中にもそういった時間と空間が無駄なく表現されている。
  あをあをと雪の木賊の暮れにけり
 冬になっても枯れずに青さを保つ木賊。雪が降ってもその青さを失うことはなく、かえって雪があるからこそ、木賊の青が引き立っている。夕暮れになり、雪の白、木賊の青がともに闇へと近づいていく。掲句はそれが融け合う直前の、木賊に残る青さを言い留めている。時間とともにある色の移ろいが見える。
  霧に飛ぶ礫は鵟(ルビ:のすり)頭上へも
 霧の中から何かが飛び出してくる。初めは礫のようにも見えたのだが、近くへ来てそればノスリであることがわかった。ノスリという名前は、獲物を狩るために、樹上から急降下して地表すれすれを匍匐飛行することから来ているという。出現し、降下し、上昇し、霧へ消えるというノスリのダイナミックな飛行が読者の脳裏に映し出される。これも時間だ。
 俳句は瞬間を切り取るもの、という言い方がある。角川「俳句」の二〇一七年六月号の特集は「『瞬間』の切り取り方」というものであった。その総論で小川軽舟が取り上げているのは、《霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎》《手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅》《流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子》《古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉》などである。たしかにこれらは「瞬間」を切り取った句であるが、背景には時間の流れが確かにあって、どちらを重視するかは作り手だけではなく、読み手にも委ねられているように思う。ただ、小川の「瞬間論」は精緻に組み立てられていて、ここで紹介する紙幅と私の筆力がないのが残念ではある。
 さて、先に私が挙げた四句のうちの三句には、鳥、啄木鳥、鵟(ルビ:のすり)といった鳥が詠み込まれている。集中に鳥の句が格別多いということではないのだが、作者にはただ鳥を眺めるだけではない独特な把握を見ることができる。
  春光の野に飛ばさるる紙は鳥
 これは厳密には鳥の句ではないが、春の強い風に紙一枚が鳥のように飛んで行くという景。だれかが捨てたレシートのようなものかもしれないが、私は時代劇で見るような、巻くように畳まれた手紙を想像した。風に乗るたびに解けながら春の光を浴びて飛ぶ文。誰かに届くはずだったメッセージと鳥のイメージが重なり合う。
  鶴飛ぶや夢とは違ふ暗さもて
 鶴は亀と並んで長寿のシンボルとして知られる瑞鳥である。夢に出てきたときは光り輝いて見えたのだろう。しかし実際に見れば、それがナベヅルやマナヅルなら黒っぽくて大きな鳥でしかない。それでも鶴が群れている姿は人に感動を呼び起こすには十分であり、夢を越える現実の美しさがそこにはある。
  小鳥来る礎石の穴は水ためて
 これは純粋な写生句。いろいろ書いてきたが、このような写生句にも多くの佳句がある。この礎石は、おそらく遺跡のもので、柱を立てるために穴があけられていたものだ。そこに水が溜まっていて、小鳥がその水を飲むために集まってくる。「小鳥来る」という未来志向の季語と、過去の栄華の残滓である礎石との時間の対比が鮮やか。
 そのほかにもいろいろな句材を多彩に料理していて、その確かな手腕を感じた。
  漢ゐて火を作りをる春磧
  飛火野の小鹿は草の露まみれ
  鹿の声山よりすれば灯を消しぬ
  九蓋草野守の傘をささず来ぬ

などの古い物語を思わせる幻想的な句にも惹かれた。
 句集名は次の句から。
  日の没りし後のくれなゐ冬の山

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