2021年3月26日金曜日

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】10 妖怪側の理屈  小林鮎美

 『火の貌』を読んで最初に感じたのは「著者の篠崎さんは、怖いものがない人なのかも」というものだった。なんだろう、妖怪を見たとしてもそれほど驚かなさそうというか、妖怪側の理屈がわかっていそうな感じがある。

  血の足らぬ日なり椿を見に行かむ

 月経があるせいか、一般に男性より女性のほうが血を見るのに抵抗がないらしい。赤い椿を見ることでそれを吸収し自分のものとするような、妙な強さと怪しさを感じる。

  あかときの夢の断片蝌蚪の紐

 いつか消えゆくおたまじゃくしの尾のように夢の断片をまだ覚えている。「夢」というあちら側の世界に、まだ身体が半分浸かっているような感覚が心地よい。

  洗面器の底に西瓜の種一つ

 小澤實著『名句の所以』でも解説されている句。なぜそんな状況なったのかがわからない(洗面器を食器がわりにしたのか?)のに、一読して景が生々しく思い浮かぶのが不思議でなんだかぞわぞわする。

  子を叱るあの瓢箪に吸はるるぞ

 脅し方に土の匂いがする。これはもう、どちらかというと怪異の側の発言では?

  花見てふ浮世の風呂に加はりぬ

 浮世の風呂! まあ確かに花見には命の洗濯みたいな面もあるし、あの喧騒は大衆浴場っぽくもあるけれど……。花見を一歩引いて見つつも、しっかり参加しているのが可笑しい。

 〈血族の村しづかなり花胡瓜〉〈血統の細くなりゆく手毬歌〉〈花満ちて死者に無限の夜のありぬ〉などからも思うのだけれど、自分が生まれる前に、世界には長い時間(歴史)があって、とても短い現世があって、その後にまた長い死後があることを、篠崎さんは常に意識している人なのだと思う。いや意識しているというか、そういう感覚が自然に備わっているというか。

 死後の長さのことはともかく、この「生まれる前の長い歴史」の、その先に自分がいるという感覚は、現代では稀有なものだと私は感じている。篠崎さんは昭和50年茨城県生まれで、私は昭和61年群馬県生まれなので、そこまで生育環境が異なっているとは思えないけれど、篠崎さんの持つ「血筋」や「共同体」に対する親しみと執着は、私自身にはないし私と同世代や少し年上の友人からもあまり感じたことがない。

 これは生まれ持っての性質によるところも大きいのかもしれない。「血筋」や「共同体」のようなものを受容し受け継ぐには強さが必要で、句を読んでいると彼女は確かにそれを持っているように感じる。

  絵踏せむアダムのあばらより生まれ

 この覚悟。ちょっと悪意がありそうなところも強かさを感じさせる。

  死ぬ前に教へよ鰻罠の場所

 割とちゃっかりもしている。でも教えてくれるかなぁ……。

  太股も胡瓜も太る介護かな

 介護は力仕事であり精神的にもつらい労働。ユーモアだけでは乗り切れないだろうが、それでもユーモアはあったほうがいいのだろう。ユーモラスでありながら土と汗の匂いがする美しい句だ。

  紫陽花の浮力の中を松葉杖

 言われてみれば紫陽花はまるで浮いているように咲いている。幻想的な光景のなかで、杖をついて進もうとする人間の確かな歩みが胸に迫る。

「血筋」や「共同体」を受け継ぐのに強さが必要なのは、それが論理的なものではないからだ。その核となる人間は、いつ病気になったり死んだりするかわからないし、心はもっと予測がつかない。人間に比べると植物のほうがよっぽど論理的だろう。

 そういう不確実なもの・混沌としたものを受け入れる強さ、器の広さが、最初に私が抱いた「妖怪側の理屈もわかりそう」という印象につながっているのかもしれない。

『火の貌』は、美しいもの、怖いもの、なんだかわからないもの、いろんなものが仲良く入っているにぎやかで楽しい句集である。

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プロフィール
小林 鮎美(こばやし あゆみ)
昭和六十一年 群馬県生まれ。「群青」同人
平成十八年頃 句作をはじめる
平成二十三年 第3回石田波郷新人賞奨励賞
平成二十五年 「群青」創刊号より参加

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