【夫の薔薇】
細見綾子の庭には、数株の薔薇があった。富山の人より送られ、寒風の時期に苗を埋めたものが、5月に咲き、その後は、様々な色合いのものが秋も冬も咲き誇っていたという。
深き息せむ夜の粗ら壁に薔薇さして
夜雨はげし薔薇近づけて食事する (昭和32年 『和語』)最初の夫と死別した綾子が再婚したのは、昭和22年、40歳の時である。夫は俳人の沢木欣一。
「戦争から帰って来てから一年あまり、北国の金沢市へこもつたまゝ黙つてしまつた彼が、突然身を起すやうに求めて来たものに、私は、ひかれて行つたのだった」「私は彼と結婚することにしました。(略)私は限りなく揺れて行かうと思ひます」 (『私の歳時記』所収「雪嶺」)
十ニ歳年下の沢木は、復員後の昭和21年、同人誌「風」を創刊し、俳壇の注目を集めていた、才気活発な若者だった。綾子は悩み抜きながら、結婚を決意。その後、俳句に「社会性」を打ち出した「風」は、「社会性俳句運動」の中心となる。綾子は、「風」の指導者として一翼を担いながらも、自らの俳句を生涯貫き通している。
そんな沢木の日常は、同業であり、主宰であることからか、綾子の随筆に描かれることはあまり多くはない。その中で、印象に残るエピソードは、薔薇の世話をする夫の姿である。
男が挿す冬薔薇一本づつ離れ (昭和37年 『和語』)
「夫も薔薇の世話だけはよくしてくれた。鋏を持ち出して花をきるのは、いつも夫である。伊賀焼の花瓶に花をさす。長さ短さを考えず、ただ切って来て、すぽっとさしただけの花が、この伊賀焼によく似合った。私がさした花よりも夫がたださした花のほうがおもしろかった」(『武蔵野歳時記』所収「薔薇」)
「『これは嫉妬かもしれない。』とも思った。そう思えるほど、夫の挿した薔薇は、どのようにも、新鮮味を持っていた」(『随筆集 花の色』所収「薔薇」)綾子の第二句集『冬薔薇』は、昭和27年、長男が誕生した金沢の地で編まれた。同句集で第二回茅舎賞を受賞。第一句集『桃は八重』刊行後の昭和17年から、結婚前年の昭和21年の句までが収録されている。
凛とした気高さ美しさを持つ冬薔薇を、夫婦でありながら、独立した存在であった二人は、愛して止まなかったのではないだろか。
冬薔薇の日の金色を分かちくるゝ (昭和21年『冬薔薇』)
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