冬興帖第五になりました。小津夜景作品シリーズ、外山一機さんの時評と秋の夜長にじっくり閲覧ください。感想、鑑賞などが追いついていませんが、新たな書き手が現われることを祈念しています。
・変わって、ちょっとプライベートな事柄を。
新宿の歌手・渚ようこのコンサートを観てきた。<11月26日(火)・紀伊国屋ホール>
渚は年齢不詳と言われているが1960-70年代の動向に詳しくまたその頃活躍の方々との交流が盛んである。新宿を本拠地とする彼女ならではのコンサートだった。コンサートで、どうしても実現したいとのことで城之内元晴監督『新宿ステイション』が上映された。「ステーションステーション」と叫び声の中で陶酔、錯乱してゆくカメラ目線がエンディングまで続き、ちょっと『イージーライダー』風。『イージーライダー』は暴漢に射殺されてしまうが、『新宿ステーション』ではエンドレスな陶酔のまま終わっていく。彼女はオンタイムで当時の新宿文化を知るよしもないが、あの頃の激しさや哲学的なものに動かされている雰囲気はある。当時の一部の人々は今も陶酔の中にいるのかもしれない。安保闘争がなにか最前線だったのである。
そういえば、最新『面』116号 高橋龍後記に「今も自分は後衛であると思っている。」とあった。部隊でいうならば、前衛に守られ先導されるのが「後衛」ということになる。なるほどわかる気もする。確かに先導される人々に守られながら進むのが「後衛」である。
歌謡路線とは異なっていった感があるが、横山剣と渚ようこの「かっこいいブーガルー」をそのリサイタルで久々に聴いた。歌詞中「かっこいい世界は探せばきっとある、間違いないだろう」というところが印象に残った。歌ができてから10年経過したが、「きっとある、間違いないだろう」という部分が今も生きているように思った。現状は「もしかしたらそういう世界は無いかも、少なくとも今は無い。」という事を含んでいることを思いながら聴いた。先の10年後はどう聴くのだろうか。
・前週のJFK忌に引き続きアメリカの取材番組を見た。番組ではオズワルド単独犯も可能であるという実証がなされたのだが、アメリカ公文書館には司法解剖時の鮮明な写真や映像が残されていることを知った。しかし75年間の国家機密というのだから相当な事件であったことを物語っている。ジャックルビー、オズワルド、バブーシュカ・レディー、まだまだ謎は解明されないまま、機密公開まであと25年を待たなければならない。
コールド・ケース “JFK”~暗殺の真相に迫る~
Lone Wolf Media / WGBH (アメリカ 2013年)
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/131121.html
筑紫磐井
○8日に島倉千代子がなくなった。美空ひばりと島倉千代子がしばしば比較されているが、昭和25年生まれの私には美空ひばりはあまりピンとこない。このころ生まれた東京山の手育ちは、美空ひばりは嫌いだったし、ビートルズもばかにしていたように思う。
では、島倉千代子はといえば、美空のような拒絶感はなく、空気のように周囲にあふれていた歌という印象が強い。「この世の花」はものごころついた時には年中ラジオから流れていたし、「からたち日記」は子守唄のように耳元で歌われていた。
島倉の人生の大半は、野球選手との結婚・離婚・堕胎とか、他人の借金の保証で膨れ上がった巨額の借金の返済、それも何回もの負債で運の悪い人という評価を与えた。聞けば、ファンのテープで失明の危機に陥った時救った眼科医のためにした保証で巨額の借金が発生したというが、その眼科医は島倉の愛人だったと言うし、あるいは、知人の債務の保証で借金が発声したというが直接の債務そのものより、実は後見人(後日著名な占い師となる)がすっかり食い物にしていた、などの記事が溢れかえっている。
こんな生涯は必ずしも珍しいものではないかもしれないが、ここから「島倉千代子は不幸だったか」という命題を検証してみたい。多くのブログには島倉が死によって苦労から解放されたように書かれているが、それはどうだろう。歌手にとっての幸福は、いい歌とめぐり合い、それがファンに受容され(余り賞とは関係ないことだ)、なくなる最後まで歌い続けられると言うことに尽きるような気がする。借金のためにどさまわりで歌わねばならないと人は同情するが、確かに報酬から見たら過酷だったかもしれないし、御殿も持てなかったし、受賞の数の少なかったことは残念かも知れないが、島倉自身にとってファンの前で好きな歌を歌えたわけであり、なくなる3日前にレコーディングできたことは充分幸福であったように思われる。追悼記事を見ながら、あの歌声同様、幸せな人だったと思えてならない。もちろん、島倉を追い込んだ人は地獄に落ちるべきだが。
* *
話題を転じて、「俳人は幸せか」を考えてみたい。様々な賞を取り、大きな結社の主宰となり、多くの句集を刊行し、名誉を重ねてゆくのを、人は俳人の幸せと思っているがそれはどうであろうか。歌手の、「いい歌とめぐり合い、それがファンに受容され、なくなる最後まで歌い続けられる」という幸せの条件を俳人に当てはめれば、「いい俳句を詠み、それが読者に受容され、なくなる最後まで詠み続ける」ということになるだろうか。
このBLOGで広告を出している「俳句四季」の1月号で座談会を一緒した中嶋鬼谷氏と原雅子さん。中嶋氏は、『峡に忍ぶ』という今年一番の素晴らしい本を書いた人で、この本のモデルは馬酔木の閨秀作家馬場移公子であった。
ほとんど、俳壇、マスコミに登場することもなく、2冊の句集をまとめただけで逝ってしまったが未だに多くの人に愛されている。私はその最晩年の作品を馬酔木で鑑賞させていただいた(たぶん最後の鑑賞)ことがあるという不思議な縁を持っており、中嶋さんの本に少し登場する。原さんは私と一緒に『佐久の星 相馬遷子』を書いた。同じく馬酔木の医師俳人で、多くの先輩同僚から愛されていた。決して著名ではないにかかわらず、二人は俳人協会賞を受賞している。地味ではあるが、俳人協会にしかできないいい仕事であったと思っている。馬酔木にはまだまだこうして発掘されるべき作家を何人か持っているはずである。
いずれも、「いい俳句を詠み、それが読者に受容され、なくなる最後まで詠み続け」ただけで終わってしまった、幸せな俳人たちであった。多くの若い作家たちにもぜひ幸せな俳人になってもらいたいと思う。
ちなみに私の最も好きな島倉の歌は「星空に両手を」で、守屋浩(島倉はいいおじさんをつかまえて「守屋くん」といっているのが楽しい)とのデュエットであった。
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