2017年11月10日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(5)いかに子規は子規となったか④/筑紫磐井



●【松山中学入学と漢詩】
明治13年には小学校を卒業して、松山中学校(後の松山東高校)に入学する。子規は、新しく、一年ほど景浦政儀、のち明治13年に漢詩塾千舟学舎を興したばかりの漢学者河東静谿(坤)に詩を学ぶ。興味深いことに、静谿の息子たちには、鍛(黄塔と号し、母方の竹村氏を嗣ぐ)、銓(可全と号す)、秉五郎(碧梧桐と号す)がいたが、彼らはその後の子規と深い縁を持つに至った。
河東静谿の指導を受ける仲間でただちに同親会温知社が組織されたが、子規はこの仲間を「五友」と呼んだ(竹村鍛(静谿の子)、三並良(子規の母八重の従兄弟)、太田正躬、森(安長)知之、そして正岡子規の五人である)。ただ、静谿の塾には、子規の言う五友の他にも、子規の人生に深い関わりを持つ五百木良三(飄亭)、寒川陽光(鼠骨)、柳原正之(極堂)らも学んでいた。千舟学舎はその後の子規の活動の出発点であった。
子規はここでも回覧雑誌を刊行するが、小学校時代とは違って漢詩文を内容としている。回覧雑誌としては、「五友雑誌:5」「五友詩文:10」「莫逆詩文(→近世雅懐詩文→近世雅感詩文と改称):全10集」や、同親会温知社の五友の範囲を広げた明新学舎のメンバーによる「明新社会稿」などが作成されたようである。
この同親会温知社の活動は、子規の若き日の文学活動の基本をなしたもののようであり、詩会を行いその記録を「同親会温知社吟稿」(「同親吟会詩鈔」「秀頴詩鈔」(明治13年)、「吟稿」(14~5年)、「詩稿」(15~16年)、「莫逆詩集」(明治13~4年)としてまとめている。子規は、同親会温知社では香雲の名で発表している。【毎週金曜、年間100回】

この回覧雑誌や「同親会温知社吟稿」からも分かるように、幼い頃から子規の記録癖・収集癖・保存僻は徹底したものがあった。雑誌とは別に自分の文集も編んでおり、「自笑文草1」は明治15年に編まれた文集だが、その内容は明治11~12年の勝山小学校在学中の作文27編(教師の評語つき)をまとめたものである。「文稿1及び3」は、明治14~16年の松山中学在学中の中学校の作文と明新舎(前述の河東静谿の詩塾の若手グループ)会稿(添削評点付き)をまとめたものである。こうした子規の徹底した記録癖・収集癖・保存僻は、大学時代にますます磨きがかかり、やがて早くも二〇代で「俳句分類」や「俳家全集」などを完成させるに至っている。このような膨大な事実記録に基づいた確信がなければ、子規の巨大な事業を進めることは出来なかったであろう。

●【記録癖・収集癖・保存僻とその他の趣味】
すこし後の事業となるが、子規の記録・収集・保存活動がいかにすさまじかったかを「俳句分類」で眺めてみたい。「俳句分類」とは明治24年頃から子規が開始した、史上空前の主題別俳句選集編纂事業である。日本の俳句、室町時代の宗祇から始まり、幕末の月並宗匠たちにまで至る膨大な作品を分類するもので、10年以上にわたる作業で分量は65冊(活版印刷によるアルス版でも12巻)にのぼり、収録句数約10万句となっている。分類としては、俳句を四季雑に分類し、更に四季の各題に分類するもの(甲号と呼んだ)が最も多く、そのほか四季の事物以外の事物や句調の分類も含んでいた。後述する「獺祭書屋俳話」以下の著作の基礎となるデータベースであったと言えばある程度その事業の概略を言うことになるだろうか。
さらにこの「俳句分類」と平行してそこで集められた句を活用して、主要俳人の古人句集である「俳家全集」(133名収録)を編み、また一俳人の秀句二〇句を選んだ「一家二十句」(初稿本150名、再稿本593名)まで編んでいる。あるいはそれら作家や句集を理解するための「俳諧系統」「俳書年表」「日本人物過去帳」なども編纂しているのであるから驚異的である。
直接俳句や短歌には関係ないがこれに類したデータベースとしては、「評語集録」は詩文・絵画・人物の漢語による評語を列記したもので、子規の得意とした漢詩評や人物評で活用されたようである。
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その他の趣味では、絵画がある。明治11年には森(安長)知之から『画道独稽古』を借りて筆写、画の稽古に熱中した。五友の仲間と出会ってからは仲間で書画会を作ってもいる。子規最晩年の「仰臥漫録」時代には爆発したように絵を描き、収集をしているが、その契機は小学校時代の経験に胚胎しているのであろう。前述の回覧雑誌のカットなどを子規自身が書いたりもしており、絵画熱が本格化するのはずっと先であるが、こうした挿絵などへの利用は継続して続いた。
また、明治15年に最初の和歌を作って以来子規はなくなるまで短歌を作っており、これらは歌稿「竹乃里歌」に記録されている。これに対して、俳句の創作は意外に遅く、子規の句稿「寒山落木」には大学予備門(後の一高)時代の明治18年頃の句が載るのが最初である。俳句を作り始めたころには、すでに和歌に関しては、帰省に際し松山の桂園派歌人井出真棹に和歌の添削を受けており、子規の熱中度には差があったようである。おそらく、言志の文学である漢詩に最も近いのは和歌であり、幕末以来の志士の伝統は漢詩・和歌であった。政治的関心の強かった(当時自由民権運動は松山でも盛んであった)子規にとっては、漢詩の次は和歌という道程はごく自然なものであったようである。


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