2017年10月6日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(3)いかに子規は子規となったか(続・子規言行録) 筑紫磐井



□新入社員正岡子規君(25~27年)――『子規言行録』古島一念「日本新聞に於ける子規君」より

●過激な主張で政府から忌まれていた「日本」はしばしば発行停止を受けていた。主筆の古島一念は直接に時事を批評せず、間接的に批評する方法として時事文芸を採用することができないかと期待していた。すでに「日本」では、「評林」という時事漢詩を国分青厓が、「諷叢」という狂言ふうの文章を中川四明が書いたが、もともと「日本」創刊の日(明治22年2月11日)は文部大臣森有礼が暗殺された日であり、当時「廃刀論者包丁を腹にさし(森は廃刀論の主張者であった)」「有礼が無礼のものにしてやられ」の狂句が投書されて以来古島は短詩型の力を有望と見ており、「譚淵」という欄では時事を諷した俳話を載せたりしていた。古島の思惑は、こうした企画に時事俳句で子規を参加させようというのだった。古島は、子規がまだ日本新聞への入社前、「獺祭書屋俳話」の連載こそしていたものの大学中退しようという文学士に何が出来るかと思っていた。ちょうど九月一日から「日本」がまた発行停止を受け、気の利いた一句がないかと子規に口頭試問してみると、子規は即座に
 君が代も二百十日はあれにけり
と自作を詠んだ(9月1日はちょうど二百十日であったのだ)。至極感服した古島は解除停止の前日の「大日本」(「日本」の代替紙)の「譚淵」に、この句を取り上げている(無署名)。子規のこの句は、日本新聞という団体の政府に対するメッセージとなっていたのである。
明治25年12月2日、子規が日本新聞記者としての入社直後の最初の仕事はこの時事俳句であり、「海の藻屑」という文章と俳句であった。これは、直前の11月30日松山市堀江沖で沈没した水雷砲艦「千嶋」(74人溺死)の事件を取り上げたものであった。

奔浪怒濤の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ舩端なくとつ国の舩に衝き当たるよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦まく波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の価問はまし。

 もののふの河豚に喰はるる哀しさよ

テーマは古島から与えられたものらしく、同じテーマを青厓は「評林」で、「轟然響発水雷止。帆裂檣摧不可収。」と詠んでいる。
その後もこうした子規(多くは無署名で)の時事俳句が多く残っている。

子をなぶり子になぶられて冬籠
(明治25年、時の議会を侮るもの)
家もなし水滔々として天の河
(岐阜の天災)
金銀の色よ稲妻西東
(銀貨幣乱相場)
咲きさうにしながら菊のつぼみかな
(延引する行政整理)

さすがに古島もこれが子規の本領であるとは思っていず、こんなことで子規を煩わしたのは気の毒だと反省した。そこで、子規と相談し俳句に代えて川柳を用いることにした。こうして子規以後、足達半顔、藤井紫影、阪井久良伎などに依頼したがうまくゆかず、結局明治36年井上幸一が入社するに及んでやっと人材を確保できた。余談になるが、これが近代俳句の創始者子規と併称される、近代川柳の創始者井上剣花坊の登場であった。
    *
 これも余談となるが、「日本」の編集方針は明治短歌にも少なからぬ影響を与えている。新派短歌は落合直文に始まる。直文の下から、鮎貝槐園、与謝野鉄幹、大町桂月、金子薫園、尾上柴舟らが排出し、やがてアララギと対峙する勢力を構成した。しかし直文がまず世に知られたのは新体詩の方であった。明治21~2年「孝女白菊の歌」や明治22年「於母影」(森鴎外編)ですでに令名が高かった。明治24年以後、日本新聞の古島が後に子規に期待する紀行文を直文や池辺(小中村)義象に書かせて話題を呼んでいた。やがてその直文が、短歌における浅香社を起こしたが、最初に浅香社詠草「野若草」を発表したのは「日本」26年2月11日号であった。この号は「日本」発行記念号付録(日本は明治22年2月11日紀元節の日に創刊)であり、じつは子規もこの時和歌入りの随筆「野のわかくさ」を書いている。やがて古島は、子規に対すると同様、時事短歌を浅香社(直文)にも要請し、これに答えて「馬車(うまくるま)がらすにうつる影見ればかむり(冠)ただせるましら(猿)なりけり(新官人)」「しかご(シカゴ)にもまづおくらまく思ふかなふじの白雪みよし野の花(米国博覧会)」などが発表されている。いずれにしても子規と直文は意外に近いところにいたし、余り関心も持たれない時事作品において活躍もしていたのである。

●順序は逆となるが、このように子規入社後の仕事に対する具体的要請は主筆の古島一念が指示したようであり、その主たる内容は上記の時事俳句の他に紀行文があった。新聞「日本」は欧化主義に反対し国文を振興する趣旨でしばしば和歌入りの紀行文を掲載していたところから、子規にも俳句入りの紀行文・身辺文の執筆を期待したものらしい。これはすでに入社前から打診があったようであり、入社前の「かけはしの記」(25年5月)はまさにこうした文章であり、過激な「獺祭書屋俳話」(25年6月~10月)でさえ、連載開始の冒頭はこうした季節の俳句つきの文章であったのである。けっして卑俗な俳諧において論争を起こして貰いたいなどとは期待していなかったのである。日本新聞の社是は、論文と漢詩と和歌であったからである。

【かけはしの記・冒頭】明治25年5月
浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も或病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし。腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿と知らぬが仏の御力をツエにたのみてよろよろと病の足もと覚束なく草鞋の緒も結ひあへでいそぎ都を立ちいでぬ。

 五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉

知己の諸子はなむけの詩文をたまはる。

 ほととぎすみ山にこもる声ききて木曽のかけはしうちわたるらん 伽羅生

 卯の花を雪と見てこよ木曽の旅 古白
 
 山路をりをり悲しかるべき五月哉 同


又碧梧桐の文に(以下略)

【獺祭書屋俳話・第1回(明治25年6月26日)】
     時鳥
 連歌発句及び俳諧発句の題目となりたる生物のなかにて最も多く読みいでられたるものは時鳥なり。此時鳥といふ鳥はいかなる妙音ありけん昔より我国人にもてはやされて万葉集の中に入りたるもの既に百余首にのぼる位なれば其後の歌集にもこれを二なく目出度ものに詠みならはし終には人数を分けて初音の勝負せんとて雲上人の時鳥ききにと出で立てることなど古きものの本に見えたり。されば其余流を受けたる連歌俳諧に此題多きも尤もの訳にて若し古今の発句にて時鳥に関したるものを集めなば恐らくは幾万にもなるべからんと思はるるなり。(中略)
 時鳥に関する古人の発句十数首をあぐれば


  時鳥なかぬ初音ぞめづらしき     一遍上人

  山彦の声より奥や郭公        宗碩

  ほとゝぎす思はぬ波のまがひ哉    宗牧

  鶯の捨子ならなけほとゝぎす     守武

  郭公大竹原をもる月夜        芭蕉

  時鳥時鳥とて寝入りけり       涼菟

  ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁り    丈草

  蜀魄なくや雲雀の十文字       去来

  ほとゝぎす雲踏みはづし踏みはづし  露川

  目には青葉山ほとゝぎす初鰹     素堂

  子規二十九日も月夜かな       蓼太

  川舟やあとへ成たる郭公       士朗

  子規啼て江上数峯青し        道彦

  この雨はのつ引ならし時鳥      一茶


【解説】
近代をいつから始まり現代をいつから始まるかは議論があるところである。現代俳句が子規から始まるのか、虚子から始まるのか、いろいろな視点が有り得る。これについてはまた色々議論したいと思うが、しかし、まずは前者の近代は、間違いなく子規から始まると見てよいであろう。
とすれば、以上から伺えるように近代俳句の創始は「社会性俳句(時事俳句)」であった。政府を非難する俳句であり、より大枠(政治的枠組み)から言えば欧化主義に反対する国粋主義の運動であった。こうしたパッションがなければおよそ文学運動など起こりはしないのである。だから子規の基準は、その後の虚子のように守旧派VS新傾向、あるいは伝統俳句VS社会性俳句・前衛俳句なのではなく、欧化主義VS国粋主義、官憲VS民権なのであった。その意味で間違いなく、子規は金子兜太の血の繋がらない祖父であったと言ってよいであろう。


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