初めて所属誌以外に文章を書くということで過去分(西村麒麟特集)を覗いてみると執筆陣は僕でも名前を知っている著名俳人の方ばかり、しかも論客ばかりである。少々気後れしつつもどんなに頑張っても感想文の範疇でしか書けないことは自分がよく知っている。いや、寧ろ『御意』評、黄土眠兎論には論客よりも僕のような俳句愛好家のおっちゃんの感想こそが相応しいのだ。
句会に出始めた頃、季語に対して「付き過ぎ」「離れ過ぎ」「付かず離れず」という選評に戸惑った。付くとか付かないは俳諧(連句)での前句と付句との関係に対して使う言葉である。俳句=発句(の発展形体)だと思っていた僕には発句とは眼前の現実との関係であり、一句を季語とそれ以外の措辞とに分けてその関係として読む習慣が無かったのだ。暫くして二句一章という俳句用語を知り、付合が長句短句一連で短歌として成立させるところを季語+12音の17音にしたような句だと知ることになる。付合は二句間で「転じ」がおこなわれていなければ付合とは言えないが、概ね季語+12音の俳句では良く言えば「季語+その季語の本意の具象化」だが「季語+その季語の本意の説明、言い換え」とも言える。俳諧の視点からすると発句とも平句とも言えない奇妙(俳)な句ということになる。しかし、季語+12音の俳句でも分離不可能な程に付き且つ見事に転じているものも稀にあるのだ。
御降や青竹に汲む京の酒 黄土眠兎
最後には噛みくだく飴日脚伸ぶ
アマリリス御意とメールを返しおく
菱形の臍を褒めらるすいつちよん
末枯やペン持つ前に考へる
掲げたらきりがない。黄土の二句一章の句はそのどれもが季語と季語以外の措辞と季語の本意とは異なる同じ「匂い」で強固に結びつき第三の意味を作り出している。それは、蕉風俳諧の「匂い付」の手法そのものである。黄土は匂い付を俳諧から学んだわけでは無く体感でできるのだろう。
『里』誌で黄土の作品を読む度に季語の使い方の上手さに感心すると同時に匂いとしか言いようのないことに句評の書きづらさを感じてきた。匂い付を用いて作句できる俳人は特別な才の持ち主だと思っていたのだが、『里』誌、特に吟行句会の句会報の黄土の句を読み考えが変わってきた。それは、黄土の最大の魅力とも言える目線にあるのではないか。
香辛料多き俎始かな 黄土眠兎
菜の花が八百屋に咲いてしまひけり
北京ダックまでは前菜花氷
白桃の指の形のまま凹む
あつぱれや古道具屋の熊の皮
どの句も生活者の目線で「今」「此処」が描かれている。俳諧の発句が俳句となり新興俳句、前衛俳句を経て多様化してきたが、今、現代俳句として目にする8割くらいは17音ポエムと呼びたくなる作品も含み平句であると感じている。残り2割の内の殆どは形式こそ発句体ではあるが形骸化し(和歌としての)連歌の発句とも思える。又、前衛を志向する作品は単なる談林回帰であろう。貞門風の言葉遊びの句すらある。それでも蕪村ら天明俳諧を含む蕉風の系譜は生き残っているのだ。
コンビニのおでん水道水を足す 黄土眠兎
僕にとって俳句とは「詩」ではなく「現代を生きていることを伝える手段」である。正岡子規によると韻文はその民族の知的レベル、文明が発達する程に長くなるのだという。だとしたら17音の俳句が伝えるべきことはくだらなければくだらない程良い。
「水道水を足す」たったこれだけの措辞で、これまで幾万と詠まれてきた句によって「おでん」が纏ってしまった昭和ノスタルジーや演歌的詩情が剥ぎ取られ、「コンビニのおでん」としての本情が露になっている。それは、食べ物は少しでも美味しく食べたいという生活者の目線であり、詩人から生活者が「おでん」を奪い返したとも言える。(『里』2018年4月号)
貴族から庶民が詩歌を俳諧として奪い、知的エリートや詩人に奪われた俳句を再び生活者が奪い返したのだ。痛快である。
俳句は眼前の風物(若しくは事象)と作者との関係であるならば生活者の目線により詠まれた句はより多くの共感を得ることができる。それは同時代人だけの共感ではない、
オリーブの花咲く店のAランチ 黄土眠兎
90年代のイタ飯ブーム以降オリーブの鉢を置く店が増えた。スパゲッティはパスタとなり喫茶店にも○○のパスタとメニューにある。「コンビニのおでん」句同様に韻文として子々孫々へ伝達され何百年後かに平成の風俗を垣間見ているかもしれない。
俳句は百数十年前に西洋かぶれの田舎者のあんちゃんがその卓越した頭脳で俳諧の発句を近代文芸へと生まれ変わらせようとしたものである。それは「詠読分離」を目指したものでありテレビやイベントで「僕にも私にも俳句ができる。」と俳人の数を増やすことでは無かったと思う。これまでにも田中裕明、櫂未知子と俳人以外の読者を獲得できるチャンスは何度かあった。現在なら北大路翼、佐藤文香にその可能性があるように思える。そして、ここに黄土眠兎が加わるのではないか。その意味において冒頭で述べたように『御意』評、黄土眠兎論には論客よりも僕のような俳句愛好家のおっちゃんの感想こそが相応しいのだ。
天宮風牙 里・塵風
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