導入
現代俳句の行方について、平井照敏は「俳句を律する二要素に詩と俳(新と旧)の因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきた」という独自の仮説を提示した。ここでの「詩」とは、「文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求」であり、「俳」は「伝統、守旧、俳句性」であると述べられている。
この視点に立つとき、俳句史は「詩と俳」といった相反する要素の関係の中で生成され、展開してきた特異な歴史であると捉えられるであろう。伝統と革新、二項対立のなかで言語の可能性を模索する営みは、時代と共に複雑化されてはいるものの、依然として現代俳壇においてもなお、有効な構造である。
ここで示したのは俳句史全体を俯瞰した一つの見取り図にすぎない。しかし、この見取り図は単なる枠組みにとどまらず、個人の俳句作品の内側でどのように機能しているのかという地平を、逆に切り開きうる契機ではないだろうか。まさに、平井照敏はこの対立軸を、自身の表現内部において具体的に実現しているのではないかと考える。
本稿では、平井照敏の第一句集『猫町』(一九七四)に焦点をあて、彼の作品が「詩と俳(新と旧)」という二項をいかに止揚し、それを詩的形式へと転化しているかを検討する。
略歴
平井照敏(一九三一―二〇〇三)は昭和期から平成期にかけて活動した俳句評論家・詩人・フランス文学者である。東京において平井一男・ゆきの長男として生まれ、一九五四年に東京大学大学院人文科学研究科に入学。この時期、東京大学比較文学会への入会も果たしており、比較文学的視座の獲得が窺える。一九五九年、博士課程を満期退学後、同年に第一詩集『エヴァの家族』(思潮社)を刊行し、詩人として出発を果たした。
教育者としての歩みは、都立目黒高等学校の非常勤講師(英語)の就任に始まる。一九六二年には青山学院女子短期大学非常勤講師(フランス語)に就任し、以後、同校を本務校としつつ、フランス語・フランス文学を講じた
平井の俳句への本格的な関与は、一九六七年に俳誌「寒雷」へ投句を開始したことに始まる。この転換点において注目すべきは、青山学院女子短期大学に在籍していた加藤楸邨の存在である。平井は、同学の国文学科に教授として勤めていた加藤と出会い、師事するにいたる。平井自身、それは短詩型への関心の高まりと軌を一にしていたと語っている。一九六九年には第一回寒雷集賞を受賞し、翌一九七〇年には「寒雷」同人となる。さらに、一九七一年、同誌の編集長に就任したことは、俳句界における平井の地位が確立されたことを示している。
一九七四年に『槇』を創刊・主宰、さらに同年、第一句集『猫町』(永田書房)を上梓した。
その後も、句集『天上大風』『枯野』『牡丹焚火』などの作品を相次いで刊行し、精力的に句作を展開した。他、季語辞典『新歳時記』の編纂にも携わるなど、多面的な活動を展開した。
句集『猫町』
以下では、平井独自の表現方法が顕著にあらわれ、かつ「詩と俳」「新と旧」の関係を体現していると思われる作品を取り上げ、その特徴を検討する。
(一)主客滲透
平井の句を詠むとき、その一助として用いたいのが「主客滲透」という理念である。「主客滲透」とは平井の師、加藤楸邨が提唱した理念であり、現実を直視することで、主体と対象とが相互に滲み合う詩的世界を目指すものである。これは、外界の事物や現象を、単なる客観的対象として捉えるのではなく、主体の内面へと浸潤させ、詩的に再構成するというプロセスをたどる。このとき、観察とは単なる外界の把握にとどまらず、自身の感覚や認識を媒介として、外界を内へと招き入れる行為へと深化する。対象はただの自然物ではなく、心理的空間における内的現象として再編されるのである。
平井の俳句もまた、こうした楸邨の理念を踏まえつつ、より感覚的・身体的な領域へと「主客滲透」を、手法として推し進めている。以下にいくつかの作品を取り上げ、その詩的構造を検討する。
身のうちに草萠えいづる微熱かな
この句は、「草萠え」という春の自然現象を、「身のうち」に取り込むことによって、内面的な感覚へと深化させている。この句において「微熱」とは、季節の変化に対する身体の繊細な反応であるといえるだろう。すなわち、「草萠え」は単に視覚的に観察された対象ではなく、身体的な体験として立ち現れている。
盲人の目のうらに入る五月晴
この句では、「五月晴」という季語が、視覚障害を持つ「盲人」の「目のうら」に入り込むという、ふつう捉えがたい感覚が書かれている。「目のうら」とは文字通りの視覚器官の内側であると同時に、深層の感覚による空間でもある。そこに「五月晴」が「入る」という動詞によって、天候の光が心理的な次元にまで潜っている。
この句において光は、物理的な光ではなく、むしろ心理的・象徴的な「感覚の光」である。それは視覚を欠いた存在において、かえって強調される内的感覚の豊かさを示唆しているとも言える。
(二)象徴性
具体的な物や現象が、心理的空間のなかで象徴的存在へ移しかえることのできるこの「主客滲透」の手法は、平井にとってどのような効果をもたらしたのだろうか。
平井の俳句は、表面的な描写にとどまることなく、言語を通じて外界の奥に潜む形而上学的な真実へと迫ろうという希求に貫かれているように思う。詩人は、現象を自身の内面に深く潜り込ませることによって、それを詩人自身を超越した位相へと昇華させるのである。それは、定型という形式のなかで高度な象徴性を実現し、表現の極限性と芸術的完成度を追求した成果である。
そこには、「至上芸術」としての俳句をもとめる志向がうかがえる。「主客滲透」とは、近代詩やフランス文学などジャンルを超えて詩に親しんできた平井が持つ「詩」が、定型詩のセオリーとして存在する「俳」と接続するための手法の一つではないだろうか。
寒卵地球をくらく抱きけり
「寒卵」というミクロな存在が、「地球」というマクロな存在を「くらく抱く」という大胆な逆転の構図である。卵は通常、命を秘めた閉ざされた容器として捉えられるが、ここではその閉じた存在が、宇宙的スケールの地球を抱擁する。これは物理的現実を超えた心理的空間における象徴的な操作である。
卵は「生」であると同時に、その殻の暗さや、幾何学的で無機質なそのフォルムによって「死」をも予感させる。暗く、閉じた卵の内部に地球を抱くというイメージは、世界が生命を孕んでいるという肯定と、同時にその命が密閉され、孤立しているという不安とが共存する。
いとど跳ぶ時間の瘤のごとくなり
昆虫の飛翔という一瞬の生命の輝きが、「時間の癌」として捉えられている。ここでも対象は単なる虫の動きではなく、時間という抽象概念に侵食をもたらす象徴として移し替えられている。「瘤」は制御不能で、内側から生を蝕む存在であり、それが「跳ぶ」という運動と結びつけられることで、諧謔のなかに差し迫った恐ろしさが混じる。時間という普遍的な流れの中で、生命の動きがすでに破滅を含んでいるという発想は、単なる比喩にとどまらず、時間そのものに対する根源的な不信や不安を内包しているのではないだろうか。
(三)詩と俳
ここで意識すべきなのは、「俳」をもって「詩」に学びにいったのではなく、「詩」を持って「俳」に応答しているという点である。
この句集が上梓された一九七四年は、おおざっぱにいえば兜太・重信による「詩」の時代と澄雄・龍太による「俳」の復権の時代の過渡期に位置する。つまり、「詩」への接近がひとつのピークを迎え、熱を失いつつあった時期だとも言える。こうした時代状況の中で、俳句形式に「詩」の感性や構造を導入しようとした他の俳人たちが、ある種の潮流を形成していたのに対し、平井はそうした動向に同調するというよりも、あくまで個人の試作の推移の中で、自身にとっての「詩」と「俳」の遭遇がなされていると思われる。平井の作品において、「詩」も「俳」も等価値におかれ、等身大のまま共存している。それは、表現そのものに根ざした、確固たる二項共立の形である。こうした平井の試みは「詩と俳」の相克の歴史の中で、一つの可能性を示しているといえるだろう。
参考文献
藤田湘子監修『平井照敏』花神コレクション、花神社、1995年
平井照敏『蛇笏と楸邨』永田書房、2001年
【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、
馬場叶羽:➀TV番組「にほんごであそぼ」を見て小学生から作句開始。始めてしまったので続けています。➁作家=高山れおな③考え中。
【筑紫磐井感想】
文学と芸は俳人にとって重要な関心事であると考えられている。詩人でもあり俳人でもある平井照敏がこれに答えを与えようとしているのは間違いない。しかし、平井だけがこれに挑戦してきたというのは正確ではない。この問題について先行している代表的な一人に中村草田男がいることはよく知られている。中村は俳句においてこの問題を最大の課題と考えられていることは彼の様々な文書で知られている。とすれば、まず問題は、この二人のアプローチにどのような違いがあるか、二人の考察がどのように止揚されるかである。従って論者が平井に沿って考察を進めるのは妥当であるが、次の課題として草田男との対比のための第一段階でありそれだけで完結するわけではない。第2段階は平井と草田男の比較に進まなければならない。さらに平井以降文学と芸を考察した研究者、作家は多くいたから、それらを包含した第3段階の研究もまっているはずだ。そういう途上問題として読ませてもらった。その意味では、眼目となる「(三)詩と俳」が薄い感じがした。
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特に読み進むうちに、この問題を解決するには、さらに遡って、文学とは何かにも答えなければならないと気付いた。俳句というジャンルで「文学」と「芸」を対比するためには近代における「文学」という基軸は今まだ明らかではないからである。我々が不注意に「文学」と呼んでいる言葉は、俳諧・俳句よりはるかに新しい言葉であるからだ。
確かに子規は、「俳句は文学の一種なり」(「俳諧大要」明治28年)といったが、わずか2年前の「文界八つ当たり」(明治26年)では、小説を文学の中で最も高く評価し、韻文では漢詩を一位に推し、和歌を二位に置き、俳諧は改良の望みなしと断じている。近代俳句が生まれる前後は、子規においてすらこのような混乱状態であったのである。
江戸時代には「文学」という言葉はなかった。いやなかったというと誤解がある、ありはしたがもっと広範な意味であった。儒学ですら含んでいた(「文学は精神に属する者」(「国法汎論」明治5年)。帝国大学法学部に哲学科、心理学科が入る所以である)。
ただ明治になって文学(literature)という言葉が欧米の文化の導入に伴い新たな言葉として生まれ、過去の日本文学史をさかのぼると正確には文学ではないが、日本固有の文芸ジャンルが浮かびだし、文学の範疇が見えて来る。
直近の江戸時代の文学史を後付けで眺めると、仮名草紙―浮世草子―赤本・黒本―黄表紙―洒落本―滑稽本―人情本―合巻―読本と系譜をたどることが出来る。特に江戸時代後半は、戯作と呼ばれたものが文学を形成することが分かる。これを第一段階の文学と呼ぼう。しかしまだ、この文学を以て平井や草田男の「文学」に当てはめることはできない。
明治になってこの状況は変わる。明治初期文学(明治20年頃まで)を眺めると大きく4つの文学があると思われる。
➀仮名垣魯文『安愚楽鍋』(明治4年)「高橋阿伝夜叉譚」(明治12年)に代表される明治戯作。
➁『小説神髄』(明治18年)と『当世書生気質』(明治18年)を書いた坪内逍遥、『浮雲』(明治20年)を書いた二葉亭四迷、そして尾崎紅葉、幸田露伴と続くのだが、立派な理論書『小説神髄』に比較して実作は前代の戯作の影響を強く受けていた(『当世書生気質』は全体がそうだし、『浮雲』も第1編は顕著である)。実は小説を最高位に置いた正岡子規であるが、露伴の影響を受けて美文を尽くした戯作「月の都」を書いている(24年執筆、27年新聞「小日本」に連載)。それぞれの作家の内部で次第に「文学」らしい文体、執筆態度に変わって行く。
③翻訳文学
これに比して翻訳文学は明確だ。すでに欧米に対象があるからだ。坪内逍遥・訳「該撒(シーザー)奇談 自由太刀余波鋭鋒」(明治17年)、二葉亭四迷訳「あいびき」「めぐりあい」(明治21年)、森鴎外等の訳詩集「於母影」(明治22年)、若松賤子訳「小公子」(明治23年)黒岩涙香「鉄仮面」(明治25年)等の翻訳文学が後世に大きな影響を与えた。これを草田男や平井の文学の源流に当てはめることはできるだろうが、どうもここには芸は見えない。
④混合文学
しかし、実は以上のほかに、何れともつかぬ混合文学というべきものがあった。そしてこれが何より大きいのだ。「鳥追阿松の伝」(明治10年)等の新聞小説(これは明治戯作と軌を一にしていたとも言えた)、矢野龍溪「経国美談」(明治16年)、末広鉄腸「雪中梅」(明治19年)等の政治小説、三遊亭圓朝口述「牡丹灯籠」 (明治17年)等の速記講談がある。
こうした渾沌とした文学現象の中で、明治の「文学」が形成されてゆく。
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このような明治初期の「文学」の中で文学と芸が対立的に表れることはまだなかったようだ。唯一「芸」が顕著に表れるのは速記講談であった。
その前に、速記講談を文学の中でレベルの低いものと考えるのはやめておきたい。これが対象としたのは、確かに落語、浪曲、講談などの大衆向けの寄席であった。しかし意外に落語は西欧文学とは関係が深い。特に三遊亭圓朝は、『死神』『名人長二』等の西洋小説の翻案を得意とした。また当時最先端音響技術が取り上げたのは桃中軒雲右衛門の浪曲の数々であった。一方講談を取り上げたのは現在まで大出版社として続く講談社(正式には「大日本雄弁会講談社」という。当初は「大日本雄弁会」という雑誌「雄弁」を刊行する弁論雑誌会社であった(当時演説会が盛況であった)が、時代の要請を受けて主流を速記講談に移し「講談社」を加えた)である。特に興味深いのは、出版権益をめぐって速記者今村次郎との対立から速記者を必要としない「書き講談」「新講談」へと移行し長谷川伸や吉川英治等多くの作家を輩出した。彼らを擁した『講談倶楽部』は一世を風靡した。日本の大衆文学が確立したのはこの『講談倶楽部』によるものだと言える。そしてこの書き講談が手本としたのは当代の名人講釈師たちの語り口だった。まさに大衆文学はこうした口承文学の語り口を芸として消化したのだった。
多くの文学ジャンルの中で、文学と芸が語られる例はあまり多くはない。上からも言えるように「芸」が登場するのは速記講談のような口承文学・伝統文学の意識を持つジャンルに限られるようなのだ。論者が言うように、我々は俳句と芸は重要な関心事項であるが、なぜそういう思考がなされるかはよく考えて見ないといけない。それは伝統俳句の中に浸りきっているからこそ生まれる問題提起なのかもしれない。
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この問題の参考のため、文学側の事情を見てみよう。イギリス文学を研究し東京帝国大学でも文学を講じるとともに、漢詩や俳句にも造詣が深く明治時代最大の文豪と呼ばれた人物が文学――特にイギリス文学と日本文学の比較を論じている例を紹介したい。それは夏目漱石である。かれはイギリス留学の後、大冊の『文学論』(明治40年)、『文学評論』(明治42年)を上梓している。前者で、漱石は序文で誠実なる態度で自らの研究態度位に触れつつ「漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」と述べている。その中で、18世紀を中心としたイギリス文学と東洋の文学――特に、漢詩、俳句、謡曲などを比較しながら何が異種類のものであるかを具体的に論じている章がある(別章では「文芸上の真と科学上の真」という水原秋櫻子を先取りした論も書いている!)。細密な分析をしているが、私が読む限り、イギリス文学の知と東洋文学の情の現われ方にあると考えているようである。決して「芸」には原因があるとは考えていないようである。余談になるが、こうした考察が文芸作品として、併行して初期の傑作小説『草枕』(明治39年)に現れているのは間違いない(「知に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。」)。はたして「芸」は正しいのであろうか。論者の問題設定の前に、一度考えてみたい。