(2012年05月25日/06月01日/06月08日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
蟻の笑いのない貌がはたらく地面 昭和28年 注①
笑いとは快感や満足を表現するものであり、大別するとラーフとスマイルに分類され、それは大脳皮質、特に前頭葉に関連しているそうである。それ故、哺乳類では無い昆虫のアリに笑いが無いのは当然であるが、社会性昆虫の代表格であり、肉食性動物ではアリが人間のバイオマスに匹敵するほどの大きなバイオマスを誇っているそうである。
そこで掲句だが、蟻と人間は背中合わせの存在とも受け取れ、戦後復興期に黙々と地を這う如くに働く人間の姿を髣髴とさせるものがある。人間の本質とは何か、蟻とはどう違うのか、との疑問を投げかけている様でもある。又、その類想の句もある。
力をもって蟻がひく 昭和22年 注①
心のきれつぱし黒く蟻になり地を這う 昭和25年 〃
蟻に投影されたこの緊張感がほぐれた処からカントの言う「笑い」(注②)が生まれるのだが,そこに至るまでに幾多の苦難があった。
圭之介は昭和51年10月11日、山頭火の三十七回忌に河童洞(自宅)に山頭火句碑(注③)を建て、下記の様な句を作っている。
月夜またしぐるるしぐれの碑なり 昭和51年 注①
冬蝶 碑を超えていった 昭和52年 〃
ほどほどに時雨す石ぶみの声す 昭和58年 〃
「しぐれ」はその句碑の作品に添うものであると共に、山頭火の代表作「うしろ姿のしぐれてゆくか」をも想起させる。また「冬蝶」は山頭火その人を指すと思われ、下記の句が下敷になっていると思われる。
冬の蝶々よ 旅立つという山頭火よ 昭和15年 注①
この句の前書きに「昭和15年1月12日、風来居(山口市)を引き上げ松山の一草庵へ移るという 一泊して去る」とあり、それが山頭火との永久の別れとなったようである。
白い蝶が 彼はひとりきりの昼にする 昭和25年 注①
これは山頭火が其中庵(小郡)に居た時の事を思い出しての句である。一匹の白い蝶は山頭火の孤独感を深めるものだが、圭之介は白い蝶を別の意味でも用いている。
原爆で死ぬとき紋白蝶空にびっしり見たい 昭和60年 注①
枯れまさる 両手どっと紋白蝶放ちたい 〃 〃
カタストロフィに際しての思いは紋白蝶の群舞する世界であり、それは既出句「失イツクシ。蝶残ル」(第14回テーマ「春」:平成6年作)へと収斂してゆく。
注① :「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注② :「笑いとは、緊張した予期が突然無になることから生じる情動である」
カント “Kritik der Urteilskraft”
注③ :「へうへうとして水を味ふ」 山頭火
「音はしぐれか」 〃
上記2基の句碑(石柱)を建てる。
●―2 稲垣きくの【テーマ:流転】平河町時代/土肥あき子
今日からのアパートぐらし秋の風 『榧の実』昭和34年
昭和の高度成長期に住居表示化を併せて地名の大規模な統廃合が行われ、福吉町も近隣の田町、新町、一ツ木町、中町、氷川町、丹後町、新坂町という情緒豊かな町とともに赤坂1〜9丁目とそっけなくまとめられてしまった。そして、昭和29年(1954)に書かれたエッセイ「騒音地獄」にあるように、近隣の様変わり、ことに東隣にあった黒田侯爵家の大邸宅の焼跡を帝産オート(現:帝産観光バス)が買収し、バス車庫となったことが大きな原因となり、きくのは赤坂の家を手放すことを考える。きくのが丹精して手を入れた赤坂の家は、万太郎に賃貸し、万太郎の終の住処となる。万太郎の死後は楠本憲吉を通じ高級料亭として使われた時代を経て、現在は赤坂霞山ビルになっている。
掲句には「平河町に移る」の前書がある。「アパートぐらし」に吹っ切ったような、諦めたような寂しさが言外に漂う。この年、きくのは53歳。そろそろ大きな屋敷をひとりで取り仕切るより、使い勝手のよい鍵ひとつで生活できる部屋の方が気楽と思える年齢である。しかし、その玄関が部屋が、照明のひとつひとつが、今までと違うことを日々あらためて思い知らされるのである。
赤坂を去る数年前の昭和31年(1956)に鈴木真砂女の句集出版記念会の折り、万太郎からきくのにも句集出版の誘いを受けるが、安住敦から「まだ早い」と反対される。それもあってか、まずは「春燈」に掲載されたエッセイをまとめた随筆集を上梓した。随筆集『古日傘』は昭和34年(1959)5月、その秋きくのは平河町へ引越している。出版することで、きくのの気持ちもひと区切り付き、あらたな生活へと踏み出す機会となったのかもしれない。
『古日傘』には万太郎が祝句が扉に書かれている。
春ショールはるをうれひてまとひけ里 久保田万太郎
愁いをまといつつも、新天地となるはずの平河町だったが、きくのの体調はおもわしくなかった。
腸の疾患にて東大に入院
どの室で鳴る鳩時計夜長かな 昭和34年
麻布、杉原医院へ移る
看とられて松も過ぎしとおもふのみ 昭和35年
昭和34年(1959)から37年(1962)まで、そのほとんどを病院で過ごしながら、わずか3年間のアパートぐらしだった。
●―3 短詩として読む俳句【テーマ:死の風景】②/北村虻曳
いもうとは水になるため化粧する 石部明 遊魔系 2002
私のわずかばかりの川柳の知識によると、死の風景と言うことで言えば誰よりも石部明を挙げたい。冒頭掲出句は、エロスと死という定番と言えるだろうが、まったく個性的な舞台を作りだしており彼の最高傑作と見る。
「賑やかな箱」(1988)は、
指で輪を作ると見えてくる霊柩車
やがて手も沈んでいった春の海
あおむけにそのまま眠る花の底
紐を引くどこかで誰かが死ぬように
見くらべて等身大の箱を買う
なんでもないように死体を裏返す
など、さまざまな死に満ちている。物体となってしまったものを前に、いろいろなことを考えてしまうから「なんでもないように」と言う語が出てくる。俯せにして、死者と視線を交わすことはない。ましてや取りすがることは無益である。これは彼の覚めた無慈悲さとか、逆にセンチメントであり、優しさである、と言いきってしまうと少し語弊がある。情と非情を兼ねた幅の広さが持ち味である。
たましいの揺れの激しき洗面器
月光を浴びる荒野のめし茶碗
うっかりと覗いてしまう橋の下
なども死を暗示しているように読むことが出来る。「たましい」の句は、河縁(かわぶち)で育った彼の記憶の中、洗面器の振動しやすさや、捕った魚を放したときの暴れのイメージから生まれたものであろうが、魚を死に抗うたましいと変容させたことで死を暗示する詩となった。めし茶碗は、電灯の下、テーブルと言うよりもちゃぶ台の上で、もっとも親しい生命活動に関わっていたものだが、いまは捨てられて荒野に転がり冷たい光を浴びている。俳句の中における死と比べてより身近である。この句に限らず、媒体として用いられるものはどこか身体に結びついていて生活的であり、あちらの世界に行ってしまわない。川柳の出自を物語っている。
「遊魔系」(2002)には、死と言うよりも、死んだ、あるいはされるがままの身体がたびたび登場する。
靴屋きてわが体内に棲むという
折鶴のほどかれてゆく深夜かな
体から誰か出てゆく水の音
戸板にて運ばれてゆく月見草
ぼろぼろに黄ばんでしまう人体図
真っ暗なからだの奥の水祭り
肉体は生命の器と言うよりも不如意なもの、何者かに勝手に使われる場である。
肉色にかがやく午後の遺体かな
は、その肉体の昂然たる反抗、居直りであろうか。投げ出されてまぶしい死体、技巧を越えて迫力が印象に残る。この「遊魔系」、
梯子にも轢死体にもなれる春
で始まり、
縊死の木か猫かしばらくわからない
で終わる。感傷を排し、非情であらねばという独自の倫理が見える。誰かの周到な技巧の句を並べてもそれを無化してしまう無造作、ひいては無頼を感じる。石部明については、俳句・川柳の句会でしばしば同席したことがあるが、「賑やかな箱」の寺尾俊平の解説にある以上には身上について知ることはない。しかし勝手な推測で言えば、彼は私同様、生来おそれに対して感受性の強い人なのではなかろうか。おそれはより強い恐怖や毒の言葉でのみしのぐことができ、それを繰り返すうちにその刺激が身に付き、動じない無頼のペシミズムを形成する、そのようなことを考えてしまう。
目礼をして去ってゆくおそろしさ
目礼されるときの恐ろしさ感じる人であり、また静かで恐ろしい目礼をする人ではあるまいか。
●―4 齋藤玄の句【テーマ:虫】/飯田冬眞
ある筈もなき蛍火の蚊帳の中
昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
人の目とは不思議なもので、見えないものを見てしまうときがある。理由はわからないが、その瞬間はたしかにそう見えていたのである。しかし、目を凝らしてみるとその姿は掻き消えて、ありきたりの見知った景色があるばかり。見たくて見たわけじゃない。まさに“見えてしまった”のである。
掲出句は、そんな晩年の齋藤玄に見るともなく見えてしまった「蛍火」の句。
一読、句中の〈蛍火〉は玄の身から抜け出た魂のことだろうと思った。それは、次の古歌を思い出したからだ。
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 『後拾遺和歌集』 1162
言わずと知れた、和泉式部の代表歌。夫に捨てられた式部は、京都鞍馬の貴船の社を詣でて、その悩みを神に告げ、祈る。その帰路、御手洗川のほとりで蛍が飛び交うさまを見て詠んだとということが詞書にある。内容から恋の歌のように思っていたが、『後拾遺和歌集』では、「神祇」の部立に収められている。「もの思へば」の歌のあとには貴船の神の「返歌」が載せられている。神と人との歌のやり取りが勅撰集に収録されているということも和歌本来の持つ対話性をうかがわせて興味深い。
掲載句の〈ある筈も〉ないのに見えてしまった〈蛍火〉について、自註に玄はこう記す。
蛍火などもう絶えて見たこともない。随分昔の思い出の中にしかない。が、青々とした蚊帳の中では、今も蛍火が見えるという期待を持つ。(*2)
この末尾に記された「今も蛍火が見えるという期待を持つ」という述懐からわかるとおり、〈蛍火〉は玄の眼前にはない。しかし、〈蚊帳〉を目の当たりにしたとき、その〈蚊帳の中〉にかつて見た〈蛍火〉を見てしまったのだ。蚊帳の中で浮遊する〈蛍火〉の幻想的な光景はあくまで記憶の中のものである。記憶の中の〈蛍火〉と現実の〈蚊帳〉を一句の中で読むことは教条的な俳句作法を順守する立場の方たちからは非難されるかもしれない。しかし、作者である玄には“見えた”のである。たとえ観念の中の蛍火であったとしても、それが読者の目にありありと浮かぶが如く伝わったとしたら、それはもはや、観念とは言い難い。詩的造形物とでも名付けるしかないものだろう。
見えるものを見続けて、対象から何がしかの真実をつかみとるというのが俳句における写生の技法だとすれば、記憶の中のものであろうが、現実のものであろうが、区別する必要はない。この句はまぎれもない写生句なのではないだろうか。あえていうならば、幻視の写生とでも分類されるべきものである。
『雁道』および齋藤玄の晩年の俳句には、掲載句のように、対象を描写しているように見せながら、実は作者の観念による屈折をともなった作品が多い。
前回は〈裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈〉ほか、「鯉」の句をあげて、対象に観念的操作を施すことで、作者自身の内面を描写するという作り方を「観念的同化」と名付けた。今回はそれを確認する意味で、遺句集『無畔』から蛍の句を抽出してみることにする。
葦原を出づる嘗(かつ)ての蛍の身 昭和54年 『無畔』
一句目は、葦の群生する湿原で蛍を見たという原体験がこの句の背景にはあるのだろう。〈葦原を〉離れるわが身は、前世、蛍であったに違いないという詩的断定の句。宿世観を発想の基底においた俳句はそれほど珍しいものではない。しかし、露まみれの蛍の姿を見つめ続け、忘我の時を過ごした作者にとって、葦原から去りがたい思いを抱いたのは疑いない。その心残りを、感情語を用いずに表出するとすれば、前世、わが身がこの葦原で蛍として飛んでいたからだ、としか言いようがなかったのだろう。
掲出句同様、この句にも「観念的同化」作用が認められる。
見ぬ蛍ひとりの糧(かて)は水のごと 昭和54年 『無畔』
二句目は、かなしくうつくしい句である。上五〈見ぬ蛍〉によって眼前の蛍ではないことは明らか。もう、蛍を見なくなって幾年月を経たのだろう、という詠嘆的な断定がこの〈見ぬ蛍〉には込められている。〈ひとりの糧(かて)〉という語から晩年の孤絶感が伝わる。病躯を養うために一人で摂る食事は〈水のごと〉くである、とは、直腸がんを患っている玄の食事が流動食であったことを想起させて痛ましい。にもかかわらず、この句にはどこか明るいうつくしさがある。流動食で命をつなぐ老人の姿がいつのまにか、水を求めて乱舞する蛍の姿にすり替わって見えてくるからだ。むろん水を求めて遊んでいる蛍は、無明の闇の中にしか存在しない。孤独に絶望した闇を照らすのは観念の中の蛍に過ぎないのが哀しい。
現実には見えていないものを観念の中で凝視する。すると、観念の中でしか存在しないものが現実の作者を取り巻くなにかに入れ替わって立ち現れるという詩的変容が生じる。この句で言うならば、〈蛍〉も〈水〉も現実には存在せず、作者である齋藤玄の記憶の中にしか存在しない。記憶の中で蛍が水を求める姿を思い浮かべながら、只今現在の私はただ一人で夕餉を囲んで生きながらえている。そこに、そこはかとない可笑しみと生きることの根源的なかなしみがこの句を読むと伝わってくる。
観念的同化から観念的転移へと変容した最晩年の佳句である。
冥(くら)きより冥きに出づる蛍籠 昭和54年 『無畔』
『法華経』化城喩品に「従冥入於冥 永不聞仏名」(冥きより冥きに入りて 永く仏名を聞かず)の偈頌(げじゅ)がある。経文の意味は、私たち凡夫は生まれては死ぬことを繰り返し、永遠に真理を悟った仏になることはできない存在だ、ということ。この一節を踏まえた古歌が『拾遺和歌集』にある。
冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月 『拾遺和歌集』 1342
作者は雅致女式部(まさむねのむすめしきぶ)、つまり、和泉式部のこと。歌意は、煩悩の闇から闇へと迷い込んでしまいそうな私に真理の道に導くように遥か彼方まで照らしておくれ、山のすぐ上に輝く月よ、というもの。
和泉式部の古歌に比べると玄の句はやはり、理に落ちているきらいがある。句意は、闇から闇へと時を隔てながら浮かび出ることでしか、その存在をあらわすことができない、それが蛍籠というものだ、ということになろうか。表層の意味だけみるとやはり経文の実存的真理を具象化したに過ぎないようにみえるが、下五の〈蛍籠〉によって、古歌にはない生存の可笑しみが立ち上がっているように思う。
見えないものを見てしまったとき人はふっと笑いをもらす。齋藤玄の蛍の句は、どれも、そのふっと漏らした息のようなさりげない姿をしている。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●―9 上田五千石の句【テーマ:虫】/しなだしん
五千石の「虫」の句といえば〈啓蟄に引く虫偏のゐるはゐるは〉がある。この句は昭和五十六年作、第三句集『風景』所収。季語「啓蟄」は動きようもないが、理が勝っているのは否めないし、このような句の造りはありふれているように思う。だがこの種の句は早く作ったもん勝ち的なところがあって、これはこれで五千石の一つの代表句として存在すべき作品といえる。
◆
今回の「虫」の句で選び出したのは次の二句。ともに第一句集『田園』所収。昭和三十二年作。
羽繕ふ間も黒蝶の華麗な生
鉛筆で火蛾の屍除くる貧詩人
一句目「羽繕ふ」の自註には〈「華麗な生」などと、映画の題まがいの語句が臆面もなく使われている。人生のテーマは愛と死だ、とか口にしていた観念的で、しあわせな時代〉とある。
二句目「鉛筆で」の自註には〈詩人を志すことは、貧乏を覚悟することであるが、貧乏していれば、立派な詩が書けるかといえば、そういう訳にはいかない〉とある。
この二句の制作年、昭和三十二年は五千石、二十四歳。上智大学文学部新聞科を卒業した年。生家の「上田テルミン」を継ぐべく、東京鍼灸学校三年課程に入学する。鍼灸師の修行の傍ら、「氷海」に拠り、精力的に俳句に打ち込んだ時期である。自註にある通り、貧しいと感じられる暮らしぶりであったのだろう。だがそれゆえに胸中には熱い情熱を抱いていたに違いない。
◆
この二句の面白いのは、まず非常にエモーショナルで詠い過ぎである点。これは一句目の自註にある通りの、そういう年齢、時代だったこということだろう。
次に、五千石が自註を書いたのが、昭和五十三年一月、四十六歳であったが、この頃でも自らを「詩人」であるという認識でいること。掲句の二句の制作年、昭和三十二年と意識は変わっておらず、「俳句」という「詩」を「詩人」として作り続けていたのである。
◆
冒頭の〈啓蟄〉の句は既に手練の俳句(決して悪い意味ではない)になっているが、掲出の昭和三十二年の二句からは真っ直ぐに詩を作る意識しか見えて来ない。
●―10 楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井
アイリスや妻の悲しみ国を問わず
昭和59年。『方壺集』より。
これは自らの妻のことではない。「およそ、妻と言うものは」という意味であろう。他の作家であれば、俳句のような一人称欠如文学では一般的な妻と自分の妻の像が解け合うのだが、憲吉の場合はそういうことはない。憲吉の妻のような悲しみは、国を超えても希有だからである。
自句自解によれば、日韓文化交流協会の文化交流訪韓団団長として憲吉が韓国を訪れたとき、慶州仏国寺石窟庵を訪問。その一行の中に二人の幼児を連れた宮崎から来た親娘がおり、仏国寺訪問の日がその娘の主人の命日であったという、石窟庵訪問が在りし日の主人の熱願であった由。ちょっとした小品のエッセイになりそうな素材であるが、舞台役者のように派手な憲吉の詠みぶりは、ポーズたっぷりな句になり、じめじめさを払拭している。それはそれで大上段の演技で悪くはないと思う。
ただ自解を読まなければ、普遍的悲しみ、例えば徴兵で戦場に出かけた男の妻のような例がまず思い浮かぶ。大上段すぎるからだ。
話は変わって、同時に詠まれた句が次の句。
チューリップ女王へ葉みな捧げ銃
出典は同上。上記日韓文化交流の主軸に日韓親善華展があり、楠心華道の作品に俳句を付けて展示した。チューリップの尖った葉が「女王様へ捧げ銃」をしている兵士のように見えたというのである。単純な見立てであるが、憲吉の見立てはこのようなドライで西欧画風の明るい構図が多い。
この時、憲吉は韓国との文化交流を積極的に進めたいと思ったらしいが、この時代ではまずらしい方ではなかったか。交流の対象に、演歌と俳句を考えていた。今生きて韓流ブームに大喜びだったであろう。
●―12 三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】48./ 北川美美
48. 野を蹴って三尺高し父の琵琶歌
誤読その1.
三尺高いのは父の琵琶歌の声のトーン、あまりに甲高い琵琶歌のため、われは家にいられなくなり心乱れて「野を蹴って」みるが耳の奥にいつまでも父の高音域の琵琶歌が聴こえる。しかし、唄方・杵屋三七郎に尋ねると、邦楽で音階調子を「尺」で表現することはないらしい。
誤読その2.
下図は『三橋敏雄俳句カルタ』(読札:三橋敏雄/イラストレーション:ナムーラミチヨ)の読札と絵札である。
【戦後俳句を読む (25- 1)三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】48./ 北川美美 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト】
『眞神』の世界観を表す構図があるように思え絵札を凝視する。この絵がこの句の全てなのではないか。読札も絵札も、見る側に寡黙でありつづける。評論や鑑賞などは敏雄にとり無意味なのではないだろうかと無力さに打ちひしがれる。
絵を観て思う。まず、三層の構図。野/空中/琵琶を奏でながらの父の素足。上五・中七・下五の下から上へあがって行く構図。エイヤー!と野を蹴りあげ、ベンベンベン~と琵琶の音色と悲しみが響き渡る野という空間、それを観ている「われ」がいる野、われが感じる空気、音、父の存在・・・句が作りだす空間を絵札から体験した。そして絵札の中心を占めているのは、「空」(くう)、大きな空間であることに気づく。
絵から句に戻る。
野を蹴って
三尺高し
父の琵琶歌
三尺は約90㎝。「三尺去って師の影を踏まず」のことわざがある。三尺高いのは、父の存在そのもの、父と自分(われ)との距離。野という茫茫とした空間にただ茫然と立つわれ。空(くう)に広がる琵琶の低い弦の音、世の無常を歌う父。
なぜ三尺分「高し」なのか。そこに影を踏めない父の存在の高さがある。「高い」という表現に、「高笑い」「高楊枝」「高圧的」など、自分よりも相手が高いという意味合いがあり、そこに昔ながらの家督としての父の威厳が直結してくる。「父」は常に高い位置にいる。その父を表現するに敏雄にとって「琵琶歌」が直結したのだろう。ナムーラさんの描く「野」には父の足の影は全く描かれていない。父という存在の空虚という音に託したのだ。
敏雄の観念が弧を描いているようだ。誰もいない野で見た幻想の世界なのかもしれない。しかし、その観念は「野を蹴る」という力強いリアルな表現を得て、確信を得ている。蹴って飛びあがったからこそ琵琶歌が三尺高いところから聞こえてくるというリアリティ。観念をリアルに変え、原因と結果の相関関係がまさに弧を描いてみえる。
野にでれば、父がいる。
晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ
野に打込まれた杭に父を投影する。父が登場するわれの立ち位置は野である。『眞神』における父の存在。
更に何故、字余りにしてまで「父の琵琶歌」を書いたのか。
鐘消えて花の香は撞く夕べかな 芭蕉
The temple bell stops –
but the sound keeps coming
out of the flowers.
BASHO (translated by Robert Bly)
芭蕉句はアメリカ人ピアニスト、グレン・グールドの関連書籍の扉に引用されていた。
(『グレン・グールドは語る』グレン・グールド/ジョナサン・コット/ちくま学芸文庫)
漱石自身が俳句的小説と評する『草枕』に心酔した音楽家・グレン・グルードの眼を通し、上記の芭蕉の句が音を奏でる哲学的意味をもつように読める。音はせずとも鳴り続く、耳の奥で。搗きつづけるのは、空虚そのものであり、音は心の中にあるもの、というように読める。テーマ「音」の論考ですでに敏雄句から実際の音が聴こえてこないこと、音がミュートになっていることを述べたが、芭蕉に通じていることを改めて思う。この芭蕉句は、敏雄の「野を蹴って」の句そのものではないだろうか。何もない野に「父の琵琶歌」が響き渡る。荒涼とした野に広がるものは、まさに空(=空虚)であり、父の琵琶歌が心の空虚をつき続けているということというように読めてくる。「父の琵琶歌」でなければ、つけない空虚なのである。
敏雄直筆の読札に掌を置き、様々に位置を変えながら読んでみる。
「野」-「琵琶歌」/野に出てこそ聴こえる琵琶歌
「蹴る」-「高し」/蹴ったので高い 原因と結果
「三尺」―「父」/ 常に三尺高い父の存在
「父」-「琵琶歌」/父だけが歌う琵琶歌
「野」-「父」/ 野に出れば父がいる
実際の言葉があらゆる相関性をもちこの句が躍動的に廻っているように見えてくる。読札から不思議な空転体験をしているようだ。
敏雄の父親は実際に琵琶歌を歌い、その歌声は高い音程であったと敏雄が話していたと伺ったことがある。「父の琵琶歌」のキーが高いと感じた第一印象はそう外れていない。それは敏雄の句作の動機付が作者に伝わったということだろう。
敏雄の句は、回転する。まるでそれは、コンセプチャルアートのインスタレーションの中にいるような、「言葉の世界の体感」を感じ得ることができる。
絵を描くこと、言葉を紡ぐこと、詩を書くこと・・・何かを作ろうとする作り手の動機と、実際のリアルであることの誤差を幾重にも頭の中で線を引きなおし描きなおしていく。読者に解ってもらうことなどどうでもよく(読者に迎合する意味)、言葉がぐるぐると繋がりを持ち、手を結んでいた。
ナムーラさんが実際に48枚の絵札を描きあげた制作期間はたった半年だったという。おそるべき集中力。この句が48句目であることも何かの縁のように思えた。まさに48句目にして、ようやく登山道入口に辿いたところだろうか。この地点から未だ『眞神』の山は、高く険しく崖のように聳え立ってみえる。
『眞神』神社にて入山の禊の御払いをし息を落ち着かせたい。
●―13 成田千空の句【テーマ:虫】/深谷義紀
螻蛄ひそむ農の重みの足跡や
第1句集『地霊』所収。
螻蛄は、昼間地中に潜み、夜になると地中から出てくる。よく「みみず鳴く」といわれるのは、実はこの螻蛄の鳴き声である。千空は若い時分この螻蛄を題材とした句をよく作った。いくつか引いてみる。
螻蛄の闇野鍛冶は粗き火を散らす 『地霊』
母の屍ゆ別れきれねば螻蛄の闇 『地霊』
「螻蛄の闇」というフレーズからも分かるように、千空の作品世界において螻蛄はそれが持つ暗いイメージ、とりわけ螻蛄が鳴くと言われる夜の闇が醸し出す「死」の印象に結びついている。やはり、戦前から戦中にかけ胸を病み、己の死を意識しながらの療養生活を余儀なくされ、更に空襲により青森市内の自宅を焼け出されてからは句友と隔絶された開墾地において孤独な句作を続けた若き日の千空にとって、螻蛄はひときわ親近感を覚える季題だったのだろう。しかし歳を重ねるにつれ螻蛄の作例は少なくなり、第2句集以降には見当たらない。過酷な時代が終わり、孤独な生活環境が変化するにつれ、千空もこうした暗い精神世界から脱却したようにも思える。
そうした観点から鑑賞すれば、掲出句の「重み」には様々な思いが込められているように思う。農作業を終えた男の足跡が、彼の体格のよさにより深い窪みとなって残される。あるいは鍬をはじめとする様々な農具の重さも加わったかもしれない。そのことを嘱目した写生句と見えないことはない。しかし、その足跡が残る土の中には、夜になるとジーッと低い鳴き声を立てる螻蛄が出番を待っているのである。即ち、すぐ足許には螻蛄が象徴する「暗黒の闇の世界」が横たわっており、明日の我が身にも暗い影を投げかけるのである。だとすれば、この「重み」は農作業あるいは現実生活の苦衷を詠んだものであり、足跡の深さは人生の重さの象徴にも思えてくる。
津軽の農村、しかも千空が実際に体験した戦後間もない時期の開拓生活の様子が垣間見える作品である。今も、あの畑に螻蛄は鳴いているのだろうか。

