「震災短歌ノート」は宮城県に生まれ現在も在住する梶原さい子が「東日本大震災に関わる短歌」についての考察、鑑賞、証言をまとめた本だ。その目的、意義について梶原自身が「はじめに」で触れている。
東日本大震災後、夥しい数の、震災に関わる短歌が詠まれた。それらの多くは類型的であるとの批判もあった。しかし、なぜ、類型的なのだろう。類型的なことは、いけないことだろうか。その疑問が強く心に残った。むしろ、その共通する要素にこそ、意味があるのではないかと思った。(中略)
そして、わたし自身も短歌に対して、それまでとは異なる実感を抱いていた。(中略)短歌とは何かということを、身をもって考えざるをえなくなった。
梶原は高校教諭として勤務していた学校で被災、唐桑町(現・気仙沼市唐桑町)の生家付近も津波にみまわれた。震災の5ヶ月後、所属結社『塔』の有志達と冊子の発行を始めた。誌名は震災からの日にち数で一冊目は「99日目」、2025年には「5133日目」が刊行された。
本書には同誌からのものを含む短歌作品とエッセイ、論考、自身の講演録、広く震災を詠んだ短歌の鑑賞、岩手・宮城・福島の歌作に関わる人々への聞き書きが収められている。
四六判、350ページ余のボリュームに、これだけの濃密な内容をまとめあげた、まずはその労を驚きとともに受け止め、労いたい。本書には記録性のほか、大きく三つの特徴がある。
ひとつは「震災短歌」の鑑賞について。「わかる」「確かに」といった、詠まれた内容、感情について理解、共感を示す評言が頻出する。このことについては、「はじめに」にことわりがある。
ここでの短歌を読む方法は一般的なものではなく、実際の被災の様相や、震災後のその時々の実感に大いに基づいている。
一般的な読み、とは、作品から情報を読み取り、修辞から表現の完成度を問い、一首がどのように立ち上がっていくかを見ること、だろう。テキストの外の、その背景情報は加味しない。詠まれた題材、経験そのものの珍しさ、新しさではなく、「ことば」でいかに表現されているかを見るべし、と。
震災短歌に限らず、それが唯一絶対の方法なのだろうか。書かれたことが未知のことであれ、既知のことであれ、連ねた言葉から手がかりを探していくのが誠実な読みだと筆者は思う。表現を高めるという目標は、時に書かれたものを置き去りにしていく。当事者性をどのように読みとして勘案するか、それは個個の作品に沿う――というのは、無責任なことだろうか。共感をもって読解にあたる。その立ち位置で、梶原は震災を詠んだ歌たちに果敢に取り組んでいる。
迫りくる津波見ながら体育館にひたすら走る友らと共に
いわき市 大和田元子
山状に膨らみ迫り来る波に泣きつつ登る高き避難所
八幡平市 及川 棱
ここで、この動詞が選ばれたことを重く受け止めたい。鳥瞰としての歌とは異なる位置関係の厳しさ。それは、「迫りくる津波見ながら~走る」の「ながら」「泣きつつ登る」の「つつ」という、動作の並行を意味する助詞と取り合わされていることからもよく分かる。津波を見ながら、ひたすら走り、登らねばならない主体。波が身に「迫り来る」ことを強く意識して読みたい。
(第一章「東日本大震災における津波の歌」)
テレビで津波の映像を見た者、筆者自身もその一人だ。それら映像の、高い位置から見たのではわからない、大きさ、強さ、速さの衝撃、そこに思いを馳せ、共感する。多くの震災短歌が鑑賞されているが、実際本書を読むまでわからなかったこと、わかり得なかったことがたくさんあった。細かなことである。その細かなことに衝撃を受け、言葉を紡いだ人がいる。鑑賞に添えられた補足によって、歌への理解の解像度があがる。感情的に過ぎる評言かもしれない。しかしここでは、歌と評言が呼応している、そう思う。
ふたつめの特徴は、梶原自身の15年分の「声」がまるごと収録されている点だ。先述したように、梶原は勤務していた高校で震災に遭った。第二章に講演録とエッセイがおさめられているが、15年分、省略も集約もなく、その時々の考え、思いがそれぞれ綴られている。
まさか歌など作れないと思ったのですが、やっぱり何かを書いてみたくなって、懐中電灯の明かりの中でペンを持ってみたら、ばーっと十数首の歌が出てきました。
書き始める時、とても怖かったんですね。でも、書き出せました。(中略)
もし、短歌が型を持っていなかったら、詠い出せなかった気がします。一度言葉を発してしまったら、どういうものがどれだけ出てくるかが見えないというのは、とても怖いことだからです。「型」が、その時の気持ちを受け止めてくれたと感じています。
(「講演録 震災と短歌 ――私の場合」2014年10月26日)
⑫ 震災詠はもういいぢやない 座布団の薄きの上に言はれてをりぬ (翌十二月)
上句は、歌を作っている横浜の人に言われました。その方は、私を心配する意味で「震災詠ばかり作っていると歌が痩せるから。」とおっしゃったのですが、そう思うのか、と思って、ショックでした。と同時に、仕方ない、これしかできないんだから、とも思いました。
(「講演録 震災と短歌 ――私の場合」2014年10月26日)
みるみるうちに景色も、人々の考えるべきことも変わった。変わらなくてはならなかったこの三年間にあっては、その途中の「いま」は、すぐさま失われてしまった。ものすごい量の情報――抽象的な意味でなく――が、刻々と更新されていく。(中略)「いま」の目盛が細かく刻まれる。だから、その時々に感じる「いま」を、後から、詠うことはとても難しくなった。(中略)「いま」の過ぎるスピードが速すぎて、永遠に失われてしまったものも、確かにあった。
(「三度目の新年」『短歌研究』2014年3月号)
「震災」を詠んで十年。今、感じていることを挙げてみたい。
一つは、〈震災〉が自分の中にすっかり染み入り、詠むのがいよいよ自然になってきたこと。(中略)二つ目は、それとやや矛盾するかもしれないが、震災を詠むことがつらい時がある。今まではそうでもなかった。震災自体はつらかったが、詠むことをつらいとはあまり感じていなかった。歌は向こうからやってきたし、私がどうこうできるものでもなかった。
(「3666日目 東日本大震災から十年を詠む」2021年7月発行)
散文の推敲という意味では、重複を整理し、特徴的な部分をまとめ、整えて提出する、ということも考えられる。そうしなかったのは、記録文学としての重要性を梶原本人が痛切に自覚しているからだろう。
一年後、五年後、十年後と、月日の経過と共に、心情、考え方にも変化がある。混乱しているところもある。葛藤が顕著な文章もある。文章において、同じことを繰り返している部分もある。書かれたものの中には、今はもうない心境もあるだろう。その変化も含め、自分と震災短歌との歴史を「そのまま差し出す」ことの重要さを、つよく挙げたい。
三つめの特徴は、第四章「聞き書き」に特に顕著に表れている、短歌をつくるとは/読むとはどういうことか、歌人たちの内省が丹念に紡がれているところだ。
聞き書きの対象者は、家族を津波で失った人、勤務先の生徒、同僚を失った人、郷里を離れ東京に避難した人、とそれぞれ違った立場にある。
短歌も、言霊入るけども、言葉選ばなきゃいけない。その言葉がなかなか出てこなくて苦しむんですけどね。そのとき、言葉の整理と一緒に心の整理もある。
(内海えり子さん(六十七歳)「第四章 聞き書き」)
震災直後はとにかく記録しようと思ってて、でも、それは感情を記録していたのではなかった。それが、三ヶ月経って、短歌を書き始めたのは、やっと感情が零れる時期になったんでしょうか。
(千葉由紀さん 「第四章 聞き書き」)
私、自然を詠うの好きだったんですけど、原発事故後に一番困ったのは、自然への見方が変わったこと。被災地の桜とか見てもあまり綺麗だと思えないんですよね。
(遠藤たか子さん(六十八歳) 「第四章 聞き書き」)
千葉由紀歌集『境界線』は、第二章の小文「私を作った歌集」で紹介されている。津波被害で教え子を失い、職場が避難所、遺体安置所となった。集中して詠んだ短歌を『境界線』にまとめ、以後は歌作から離れている、という。
一時的に歌作に没頭するもの、結社に依らない地域の歌会に参加していたが、震災によってコミュニティが維持できなくなったもの、時間をおいて歌作に復帰したもの、さまざまな作歌の場面があり、それぞれが自分と短歌との関わりを振り返っている。第二章の梶原自身の文の中にも、さきに引いたように、書くことそのものへの懐疑、言葉を紡ぐことへの恐れが率直に記されている。書かずにはおれないという面もあれば、書いていいのだろうか、書くのが恐ろしい、葛藤がある。
それでも定型によって、取り出すのが難しい、輪郭をもたないようなことごとがかたちを得た。定型とはいったい何なのだろうか。
そして、書かれた作品をどのように読むのか。振り返るよすがとしている者、変化は避けられないというもの、それもさまざまだ。ページを繰りながら、読むということの在り方について、考えは尽きなかった。
*
本書は「震災短歌」を包括的にまとめた書ではない。たとえば、震災後もっとも多くメディアに登場した震災短歌の一首である俵万智の「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」は収録されていない。震災後いちはやくその名を冠した歌集『震災歌集』を刊行した俳人・長谷川櫂も出てこない。
本書は著者の梶原が考え、触れ、渉猟した「震災短歌」を現地から世界に向けて放射するものだ。その視点の位置こそが、本書にとっては重要だった。
そもそも「震災短歌」を包括的に論じるなどということはできるのだろうか。包括――すべてが終わりを告げた時、蓋を開けて振り返る、というのなら、「すべての終わり」とは、福島第一原子力発電所の廃炉が技術的に終わり、二万六千人(2026年2月現在)の避難者たちが避難を終えるときだろう。「すべての終わり」がいつになるのか、今、誰もその答えを持たない。福島第一原子力発電所廃炉の予定は示されつつ、15年を経た現在も、事故炉内部の状況把握も、処理方法の決定も為されてはいない。作業計画は延期に延期を重ね、完了時期の見通しは立っていない。
私の手元に「短歌で読む昭和感情史」(平凡社新書)という本がある。1979年から80年にかけて刊行された『昭和萬葉集』の編纂に携わった編集者・菅野匡夫が著した、『昭和萬葉集』収録歌のみならず、選にもれた歌も含め、副題の「日本人は戦争をどう生きたのか」を歌によって丹念に辿る内容だ。まえがきにこんな一節が引用されている。
事実はおぼえていても、それがおこったときに、(自分が)どんな感覚や情感をもったか、忘れがちである。(短歌に)書きのこしていけば、(感覚や情感を)あとで想い起こすよすがになる(鶴見和子「わかれみち」―『昭和萬葉集』月報8)。
どんな感覚や情感をもったか、忘れないこと、思い起こすこと。人の情感に触れること。戦後80年を越え、その重要性がより痛切に実感される時がきている。銃後でも、戦地でも、占領地でも歌は詠まれた。厖大な歌群がその時々の人々の息吹を伝える。
戦争と災害を同列には語れない。語れないが、長期間、広大な範囲に根本的な変化を来した事象という意味で、「震災短歌」は詠み継がれ、読み継がれていくものだと思う。
「震災短歌ノート」はその厖大な営為を照らす灯台であり、読みすすむ者にとっての杖でもある。その杖は人を支え自らを支え、灯器のひかりは、生きている人、今はもういない人をひとしく照らしている。
よきことを思ひて生きむ傷み負ふ地のうへに死ぬいのちなれども
柏崎驍二
しまおうと思うんですと並びたる五つの位牌を眺めやる父
千葉由紀
夏草が至る所に伸びているそこになくてもいいところまで
井上雅文
この線は常世の国へ繫がりぬ目を閉ぢ語らむ「風の電話」に
大沼智惠子
震災の他でつらかった経験を聞かれて失恋と答えたり
逢坂みずき
冷却水 汚染水 そして処理水と呼び名が変わるとき風は立つ
三浦こうこ
それでも朝は来ることをやめぬ 泥の
乾 るひとつひとつの入り江の奥に
梶原さい子