2026年5月29日金曜日

俳句の虚構―西躰かずよし「窓の海光」論―  金光 舞

 一、はじめに

二、西躰かずよしの略歴

三、先行研究概観

四、虚構性の定義

五、構造における虚構性

 五―一、空の描写 

 五―二、児の描写 

 五―三、私の描写

 五―四、構造における虚構性とは

六、口語表現における虚構性

 六―一、分析 

 六―二、読み取り

  六―二―一、消失の口語   

  六―二―二、吊られた空間

  六―二―三、遺棄された身体 

  六―二―四、無言化される口語

  六―二―五、災厄化する自然 

  六―二―六、状態化される死

  六―二―七、主体喪失の動詞 

  六―二―八、継続する未完了

  六―二―九、方向だけが残る 

  六―二―一〇、変成の動詞

七、結論


一、はじめに

 私小説に関する新書を読んだ。安藤宏(二〇二三:一八二―三)は、「『私をつくる』近代小説の試み」で「『事実』の『報告』を前提に出発するからこそ、逆に作者は『いかにも事実に見えるウソ』を表現することができ」、「虚構とは、こうしたダブルバインド(二重拘束状態)を仕掛けていく技術の謂にほかならない」。「『私小説』の虚構性を問題にするためには、こうした仕掛けそのものを読み解いていく視点が不可欠なわけで、その意味でも『私小説』の『私』とは、あくまでもよそおわれ、演じられた『私』なのである」と述べる。この視点は私小説に限った話ではなく、とりわけ作者の〈私〉が強く意識される俳句表現においても大きく関わる視座であるように思われた。この指摘を西躰かずよしによる句集、『窓の海光』に照らし合わせ、西躰の句における虚構性を考える。


二、西躰かずよしの略歴

 一九七二(昭和四七)年、京都府福知山市に生まれる。現在「鬣TATEGAMI」同人。『窓の海光』発行時は京都府舞鶴市に在住しており、『窓の海光』は五〇〇部限定で発行される。掲載句は二〇〇五年から二〇一六年にかけて『鬣TATEGAMI』に発表された作品が殆どを占める。


三、先行研究概観

 西躰かずよし『窓の海光』には句集巻末に「季刊・俳句誌『鬣』TATEGAMI」発行人の林桂による解説が付されている。林(二〇一七:一〇二)は、『窓の海光』にて


〈西躰かずよし〉と肉体の西躰かずよしがどのような関係にあるのか、本当のところはわからない。放哉や山頭火や顕信がそれぞれ一人の『境涯』像を結ぶとするならば、『窓の海光』の〈西躰かずよし〉は、複数の像を結びそうでもある。時に少年の像を結んでしまいそうでもある。作者は、〈西躰かずよし〉の『境涯』を差し出す一方で、西躰かずよしの肉体を隠蔽する。もちろん、〈西躰かずよし〉のためにである。つまり、〈西躰かずよし〉は、多分に仮構された『境涯』の名前である。そのために肉体は不要な存在である


と指摘し、ここでは俳句における作者像が、事実的な自己告白ではなく、表現上の操作によって成立するものであることが示唆されている。このような肉体の隠蔽や作者像の仮構をめぐる問題は、西躰かずよしの句集に特有の現象にとどまらず、近年の現代俳句全体においても注目されつつある。例えば、小川楓子(二〇二五:一四)は『不透明な時代の透明で不透明な体(現代俳句)』で、「三十代以下の現代俳句の潮流にレトリックの多用や透明化する身体という特徴があ」り、「現実と非現実の曖昧な作品は増え続け、レトリックは益々凝らされてゆく」と述べる。これらの先行研究は、俳句において作者の〈私〉や身体が自明なものとして提示されるのではなく、虚構的に構築され得るものであることを示している。しかしながら、こうした作者像の仮構性を、具体的な作品表現の読解を通して虚構の技術として捉え直す試みは十分に行われているとは言い難い。

 先行研究では、西躰かずよしの句において、作者の肉体が後景化し、複数の〈境涯〉像が仮構されている点が指摘されてきた。しかし、それらの指摘は主として作家像や時代的傾向の把握にとどまり、虚構がどのような表現上の技術・仕掛けとして句の内部に組み込まれているのかについては、十分に検討されていない。本稿は、安藤宏の虚構論を手がかりに、西躰の俳句における〈私〉を、演じられた存在として捉え直し、その虚構性がいかに句の表現構造を支えているのかを具体的に考察するものである。


四、虚構性の定義

 本稿において、俳句に虚構性があるとする時の定義を考える。浅川芳直(二〇二〇:一九六―七)は、『俳句と虚構(俳壇)』で、「短詩という俳句の性質上、その基準は、内容上のリアリティが欠けている場合を除きテクスト上には存在しない」としたうえで、「ある句が虚構かどうかを解釈するには『作者の意図』を考慮するほかない」と述べる。さらに、作者の意図について「『作者の本当の意図を探るのが俳句の読みではないが、解釈手続きの根幹には作者の意図への考慮がある』と改訂すればよ」く、「作者の創作態度、内容の問題から要請されない限り、遠く虚構の世界からわざわざ作中主体を召喚する必要性もまたない」と指摘する。

 以上の浅川の議論を踏まえ、本稿では俳句における虚構性を、事実か否かという内容上の問題ではなく、作者がどのような意図や創作態度のもとで〈私〉や情景を構成しているかという、表現上の在り方として捉える。すなわち、本稿でいう虚構性とは、現実の再現ではなく、作者によって意識的に組み立てられた〈私〉や世界が、句の中に立ち現れていることを指す。


五、構造における虚構性

五―一、空の描写 


夜、置き去りの月がある

空のかんざしとなって昼の月

冬空に架ける放射線の昼

空がつめたい火事となっている

しずかな空に縊死がある

空の向こうに無言の手紙届く

月光につめたい胎児を入れる

呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空


 『窓の海光』では、空の描写を内包する句が多数収録されている。しかし、これらの句に描かれている空は、実際の風景をそのまま写し取ったものとは言い難い。〈夜、置き去りの月がある〉や〈空のかんざしとなって昼の月〉では、月が「置き去り」にされたり、「かんざし」になったりしており、現実の空の描写というよりも、作者の感じた心象が強く反映されている。ここでいう空や月は、目に見える事実としての自然ではなく、意味を帯びた存在として表現されている。

 また、〈空がつめたい火事となっている〉〈しずかな空に縊死がある〉では、空という本来無機質で広がりのある存在に、火事や死といった強いイメージが結びつけられている。現実の空が火事になることや、縊死が存在することはありえないが、それでもこれらの句は読者に強い実感を与える。これは、作者が事実を語ろうとしているのではなく、空というイメージの中に、感情や観念を重ね合わせて表現している為であると考えられる。

 さらに、〈月光につめたい胎児を入れる〉〈空の向こうに無言の手紙届く〉では、空や月光が、何かを包み込んだり、伝えたりする媒体として描かれる。ここに現れる〈私〉は、自分の体験をそのまま語る存在としてより、世界をこうした形で見てしまう視点として、句の中に置かれているように思われる。この点において、句の中の〈私〉は、作者自身と完全に重なるものではなく、表現のために構成された存在であると言える。

 以上のように、『窓の海光』における空の描写は、現実の風景を写実的に再現するものではなく、作者の意図や表現上の操作によって成り立っている。そのため、これらの句に見られる虚構性とは、事実ではないことを語っているという意味ではなく、〈私〉の感じ方や世界の捉え方が、空というイメージを通して意識的に組み立てられている点にあると考えられる。


五―二、児の描写 


向日葵の夜駆け抜けて少女逝く

忘れ物取りに行く児が雪を数える

海の色に会いに行く父子

冷たい昼のこす児等のアリア

夜間飛行にそよぐ麦畑の少年

亡クシタ児ト食事シテイル

夜を拾う孤児に薄荷の匂い

遺児のため二月の詩集燃やす


 『窓の海光』には児をモチーフにした句も多い。だが、これらの句に登場する児もまた、実在の子どもをそのまま写した存在というよりも、どこか現実からずれた、不安定な像として描かれている。〈向日葵の夜駆け抜けて少女逝く〉では、生命力の象徴である向日葵と、少女の死という出来事が結びつけられており、現実の時間や因果関係から離れた印象を受ける。ここに描かれる少女は、具体的な一人の人物というよりも、象徴的な存在として句の中に置かれているように思われる。

 また、〈忘れ物取りに行く児が雪を数える〉や〈夜間飛行にそよぐ麦畑の少年〉は、児の行動が現実的である一方で、その行為が置かれている状況はどこかフィクション的である。忘れ物を取りに行きながら雪を数えることや、夜間飛行と麦畑が同時に現れる場面は、現実には起こりにくい。ここでは、児は物語の主体というよりも、作者の見ている世界のあり方を映し出す存在として機能していると考えられる。

 さらに、〈亡クシタ児ト食事シテイル〉や〈夜を拾う孤児に薄荷の匂い〉〈遺児のため二月の詩集燃やす〉では、死んだ児や孤児、遺児といった存在が、ごく自然に日常の行為や感覚と結びつけられている。死者と食事をすることや、夜を拾うという行為は現実にはありえないが、これらの句は幻想的でありながら、どこか静かな現実感を孕んでいる。この現実感は、事実の再現によるものではなく、作者が意識的に構築した世界によって生まれているものだと考えられる。

 このように、『窓の海光』における「児」は、作者の実体験に基づく人物像として描かれているのではなく、喪失や記憶、感情といった抽象的なものを表すために置かれた存在である。そのため、ここに見られる虚構性とは、子どもが実在するかどうかという問題ではなく、児という像が、表現のために作り出された役割を担っている点にあると言える。句の中の〈私〉もまた、こうした児の像を通して世界を見つめる視点として構成されており、そこに『窓の海光』独自の虚構性が表れている。


五―三、〈私〉の描写


白蝶の夜を殺めるドアの音

さびしさで汚れた両手を洗う

私の真ん中に雪が降っている

昼のつきあたりに立っている

夜の台所にクレヨンを折る

死者ニ置ク向日葵ノ束

銀紙で空のかたちをつくる午後

名前をなぞると甘夏の匂い


 最後に、『窓の海光』における〈私〉について考える。これらの句には、「私」という語が直接用いられているものもあれば、明示されていなくても、誰かの視点が強く感じられるものが多い。ここに現れる〈私〉は、自分の体験をそのまま語る語り手というよりも、世界をこうした形で見てしまう存在として句の中に置かれているように思われる。

 〈私の真ん中に雪が降っている〉では、雪という自然現象が、身体の内側に降るものとして描かれている。現実には起こりえない表現であるが、違和感よりも静かな実感が先に立つ。この〈私〉は、事実を説明する主体ではなく、内面の状態を雪というイメージに置き換えて示すために構成された存在だと考えられる。

 〈さびしさで汚れた両手を洗う〉や〈名前をなぞると甘夏の匂い〉では、感情や記憶が、手触りや匂いといった感覚的なイメージとして表現されている。ここでも〈私〉は、自分の気持ちを直接語るのではなく、感覚を通して間接的に示す役割を担っている。このような〈私〉のあり方は、作者自身の告白というよりも、表現のために作られた視点として理解する方が自然である。

 さらに、〈白蝶の夜を殺めるドアの音〉や〈死者ニ置ク向日葵ノ束〉といった句では、〈私〉の存在は前面には出てこないものの、出来事をそのように捉える視線が確かに感じられる。夜を殺める音や、死者に向けて花を置く行為は、事実の描写というよりも、世界を象徴的に切り取る視点によって成り立っている。ここにある〈私〉は、行為の主体としてよりも、意味を与える存在として句の背後に立っていると言える。

 前述より、『窓の海光』における〈私〉は、作者の実在と重なる固定された人格ではなく、感情や記憶、死や孤独といったものを表現するために、その都度立ち上がる存在である。そのため、本稿でいう虚構性とは、〈私〉が嘘を語っているということではなく、〈私〉そのものが、表現の必要に応じて演じられ、構成された存在であるという点にある。〈私〉は現実の作者を直接指すのではなく、句の中で世界を成立させるための装置として機能しているのである。


五―四、構造における虚構性とは

 「五、構造における虚構性」では、安藤宏の虚構論を手がかりに、西躰かずよし『窓の海光』における虚構性について考察してきた。先行研究では、西躰の俳句において作者の肉体が後景化し、複数の〈境涯〉像が仮構されている点が指摘されてきたが、本稿では、それらを踏まえつつ、虚構を句の内部に組み込まれた表現上の技術として捉え直した。

 まず、空の描写においては、現実の風景を写実的に再現するのではなく、感情や観念が重ね合わされた空が描かれていることを確認した。ここでの空は、自然そのものというよりも、〈私〉の感じ方や世界の捉え方を映し出す装置として機能しており、その点に虚構性が見られる。

 次に、児の描写に注目すると、少女や少年、孤児や遺児といった存在は、実在の人物として描かれているというよりも、喪失や死、記憶といった抽象的なものを表す象徴的な存在として配置されていた。これらの児の像もまた、作者の体験をそのまま語るためのものではなく表現のために構成されたものであり、虚構的な役割を担っていると考えられる。

 さらに、〈私〉の描写においては、「私」という語が用いられている場合でも、その〈私〉は現実の作者と直接重なる存在ではなく、感情や記憶を表現するために、その都度立ち上がる視点として句の中に置かれていることを論じた。〈私〉は告白の主体ではなく、世界を成立させるための表現上の装置であり、ここに『窓の海光』の虚構性が端的に現れているといえる。

 以上の考察から、『窓の海光』における構造の虚構性とは、事実ではないことを語ることではなく、〈私〉や情景を、作者の意図や創作態度によって意識的に組み立てることにあると結論づけられる。ただし、これらの句がどこまで作者自身の経験と結びついているのか、また虚構と実感の境界がどこにあるのかについては、本稿では十分に明らかにすることができなかった。今後は、他の句集との比較や、同時代の俳句との関係を通して、さらに検討していく必要があるだろう。


六、口語表現における虚構性

六―一、分析

 「窓の海光」を整理すると、Ⅰ(二八句)、Ⅱ(二〇句)、Ⅲ(四〇句)、Ⅳ(三五句)、Ⅴ(四〇句)の全てを口語で構成している。六、口語表現における虚構性では各口語表現のもたらす効果について考える。


六―二、読み取り

六―二―一、消失の口語

 最初に、「いなくなる」「遺される」「置き去り」といった、主体のフェードアウトを示す日常的かつ平明な言葉遣いが、いかにして世界に強烈な不在の気配を刻みつけているのか。その変奏を三つのアプローチから分析し、本句群が到達した静謐な詩学的意味を明らかにする。まず注目すべきは、主体の身体そのものはすでに画面から消去され、日常空間に微かな視覚・聴覚・嗅覚の残響だけが「痕跡」として遺されている表現群である。


風しみるポストに残る靴音

海の色褪せて少年の匂いのこす

クレゾールの匂いのこす椅子

鉄格子の匂いのこる空

レンズを汚す手がのこる


 これらの句において、「残る」「のこす」という口語の動詞は、かつてそこに誰かがいたという事実を、きわめて淡々と報告する役割を果たしている。「ポスト」「椅子」「レンズ」というあまりに日常的な物質を媒介にすることで、「靴音」という聴覚の残響や、「匂い」という嗅覚の痕跡、さらにはレンズの「汚れ」という行為の跡だけが、事後的にクローズアップされる。

 ここには主体の叫びもドラマもない。口語が持つ説明的な平明さが、かえって「通り過ぎていった者」の決定的な不在を際立たせ、読者に取り残された世界の虚しさを生々しく伝えている。


 次に、事態をただ客観的に同定・記述するだけの「〜がある」「〜ている」「〜を置く」という平易な構文が、逆説的に主体の消失を突きつける表現群である。


夜、置き去りの月がある

まぶしい声の背中だけある

夜にもたれている椅子がある

名前忘れている歯ブラシ

空のはじめに片方の靴を置く

昼のつきあたりに立っている

しろい病院の庭に来ている


 ここでは、「夜、置き去りの月がある」に象徴されるように、主語を欠いたまま「ただ、そこにそれがある(いる)」という事実のみが提示される。「まぶしい声の背中だけある」に見られるような、顔や全体像(=人格や主体)を奪われ、後ろ姿という不完全な輪郭だけが世界に置き去りにされている恐怖。あるいは、「名前忘れている歯ブラシ」のように、持ち主のアイデンティティそのものが日常の道具から消えかけているフェードアウトの様相が、淡々と記述される。「片方の靴を置く」という失踪や死を強烈に予感させる行為や、「立っている」「来ている」というどこか浮遊感のある状態描写は、ドラマチックな感傷を注意深く排除している。その即物的なフレームワークこそが、本来そこにあるべきはずの空白を、より深く穿っているのではないだろうか。

 そして、主体やそのよすがが、現実の境界線を越えて世界そのものへと同化し、消滅していくプロセスを報告する表現群である。


五月に溶ける少女の楽譜

呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空

空の向こうに無言の手紙届く

遮断機の向こうの空にゆく

咳止マズ、夜ノ一部トナル

剃刀の匂いの昼が消失する

冬の匂い消え映写機廻る


 ここでは、消失は一瞬の断絶ではなく、世界という背景へのなだらかな「融解」として描かれる。少女の存在のよすがである「楽譜」が季節に溶ける姿や、肉体の苦痛としての咳の果てに「夜ノ一部トナル」というカタカナ混じりの冷徹な報告は、主体が世界からフェードアウトし、背景そのものへと変貌していく死のプロセスそのものである。

 「空にゆく」「手紙届く」といった平易な言い回しや、「消失する」「消え」という直接的な語彙は、映画のカメラが次のカットへと静かに切り替わるかのような冷徹さを持つ。劇的な感傷に溺れることなく、世界の変転として消失を処理するからこそ、その余白には逃れがたい寂寥感が立ち込めることになる。

 句群「窓の海光」における〈消失の口語〉は、死や別離を特権的な悲劇として祭り上げることを拒絶する。作者が用いる「〜がある」「〜のこす」「〜となる」といった日常の平明な言葉のフレームは、世界の側に残された者たちの視線そのものである。

 主体が世界から静かにフェードアウトした後に残される、微かな匂い、靴音、そして無言の空間。それらをただ淡々と指し示す口語の平明さこそが、読者の胸に、叫び声よりもなお深く、生々しい不在の痛みを響かせ続けている。


六―二―二、吊られた空間

 「窓の海光」を読み解くうえで、〈消失の口語〉と双璧をなす重要な空間構造が、この〈吊られた空間〉である。ここで描かれる「空」や「冬空」、「上方」といった領域は、決して人間を包み込む大らかな自然の背景ではない。それは、時に身体を緊縛し、時に重力を狂わせる、冷徹な「吊るす装置(ギミック)」として機能している。特筆すべきは、本来なら抽象的なイメージや心理的メタファーにとどまるはずの比喩が、平明な口語によって具体的な物理空間として表出している点である。本論では、この空間の垂直性と物質化のメカニズムについて、句群から抽出した作品を基に三つの視点から考察する。

 まず、空という実体のないはずの領域が、手触りのある物質や、何かを固定・懸垂するための面として立ち現れる表現群である。


しずかな空に縊死がある

空のかんざしとなつて昼の月

銀紙で空のかたちをつくる午後

セロテープ五月の空をくっつける


 もっとも象徴的なのは「しずかな空に縊死がある」だろう。縊死(首吊り)という極限の死のあり方が、空という空間に「ある」と即物的に同定されている。ここでは、空そのものが肉体を吊り下げる装置として機能している。

 また、昼の月を「空のかんざし」と見立てる視線や、「銀紙でかたちをつくる」「セロテープでくっつける」という行為は、空を加工可能な「物質」として扱っている。比喩が頭の中のイメージにとどまらず、三次元の物理的な手触りを持って空間化されることで、読者は上方に存在する不穏な「硬さ」を感知することになる。

次に、「吊るす」「架ける」といった動詞や、浮遊と落下のダイナミズムを通じて、空間の垂直軸を際立たせる表現群である。


夜に吊られた時計ある

冬空に架ける放物線の昼

屋上にブランコひとつ

夜間飛行にそよぐ麦畑の少年


 「夜に吊られた時計ある」は、本テーマを最も直接的に体現した句である。暗闇のなかに宙吊りにされた時計は、時間の経過そのものが垂直方向への緊張感(いつ紐が切れるか分からないサスペンス)を孕んでいることを示す。また、「冬空に架ける放物線」という表現は、何かが上方へ投げ上げられ、頂点で一瞬だけ「宙吊り」になり、やがて落下していく重力の軌跡を視覚化している。「屋上のブランコ」や「夜間飛行」も同様に、地面という絶対的な足場から切り離され、上方の虚空へと引き上げられた存在の危うさ(浮遊感)を暗示する。

 最後に、主体が上方へとアプローチし、あるいは本来足場のないはずの上空に接触する、身体性の変容を捉えた表現群である。


理由のない昼に背がとどく

何時カ空ニ届ク指

空のはじめに片方の靴を置く


 「背がとどく」「空に届く指」という描写は、日常の口語でありながら極めて異様な空間認識を提示している。本来なら無限に遠いはずの「昼」や「空」に対して、人間の身体が異常に延伸して接触している、あるいは空間の天井が不自然に低くなって身体を圧迫しているような感覚を与える。

 極めつけは「空のはじめに片方の靴を置く」である。上空の、まさに空間が始まる境界線に、あろうことか「靴を置く」という、本来ならあり得ない物理的接地が行われている。これは、主体がすでに重力を失って上方に浮遊しているか、あるいは空という装置に完全に「囚われ、固定されている」ことの領収にほかならない。

 「窓の海光」における〈吊られた空間〉は、生を根底から揺さぶる重力の檻であるように思われる。作者が提示する空や上方世界は、精神的な解放区ではなく、むしろ縊死のロープやブランコの鎖、放物線の軌跡によって、生や死が「宙吊り」にされる緊迫した現場なのだ。

 日常的で平明な口語が、この狂った物理空間をあたかも最初からそうであったかのように淡々と報告するとき、私たちは天を仰いだまま身動きが取れなくなるような、静かな眩暈を経験する。


六―二―三、遺棄された身体

 「窓の海光」において、死や生、そしてそれに付随するシンボル(胎児、月、子供、死体)は、決して情緒的な悲哀のなかで温められることはない。ここで執拗に繰り返されるのは、本来ならば最もいたわられ、保護されるべき聖なる対象が、あたかも無機質な物品のように扱われ、処理されていく手続きである。ここで駆動するのが、〈遺棄される身体〉という空間フレームである。作者は「入れる」「置く」「埋める」といった日常的かつ事務的な動詞を動員し、それらの対象を淡々とパッキングし、配置し、あるいは放置していく。本論では、この口語の事務的な運びがもたらす乾いた暴力性とそれが生み出す独自の虚構性について考察する。

 まず、本来は形を持たない概念や、厳粛に扱われるべき生命の骸が、日常のチープな容器へと事もなげに「収納」されていく表現群である。


月光につめたい胎児を入れる

靴下に真昼の死を入れる

行間に死んだ児を埋める

洗面器にかなしみ入れる

鍵盤に夜の雨音つめたい


 「月光につめたい胎児を入れる」「靴下に真昼の死を入れる」という表現において、胎児や死という特権的な重みを持つ存在は、まるで引き出しに小物を片付けるかのような手つきで「入れ」られている。ここにあるのは、主体の倫理観の欠如ではなく、言葉の「事務的な手際の良さ」が生む暴力である。さらに、「洗面器」という生活雑器に「かなしみ」を注ぎ、「行間」というテキストの隙間に「死んだ児」を「埋める」。抽象的な感情や凄惨な現実を、サイズ感の合わない日常のフレームへと機械的に梱包していく口語のフラットさが、現実世界の生々しさを脱色し、高度に洗練された不条理な虚構性を立ち上げている。

 次に、対象をある場所に定位させる、あるいは主体がそこから関与を放置することで、存在を記号へと突き落とす表現群である。


夜、置き去りの月がある

空のはじめに片方の靴を置く

死者ニ置ク向日葵ノ束

プールの水面に死の匂い置く

月明りそっと歯ブラシを置く


 「置く」という動詞は、人間の意志のなかでも最も平熱の動作を指す。それが「死者」「死の匂い」といった非日常の域に対して心理的抵抗もなく接続されている。プールの水面に「死の匂い」を、空のはじめに「靴」を、チェスの駒でも進めるかのように「置く」という静かな動作は異様である。そして、天体であるはずの月すらも「置き去りの月」として空間に放り出されている。これらの句において、世界は巨大な「遺棄の現場」であり、あらゆる存在はケアされることなく、その座標にただ「置かれたまま」フリーズしている。口語の説明的な平明さが、世界の圧倒的な冷たさを事後的に証明する役割を果たしている。

 本来なら最も保護・愛撫されるべき「子ども」や「肉体」が、徹底的に風景や機能の一部として客観描写される表現群である。


オキシフル発火する幼児の死体

亡クシタ児と食事シテイル

夜を拾う孤児に薄荷の匂い

点滴につながれたまま子といる


 もっとも凄惨でありながら、もっとも乾いているのが「幼児の死体」だろう。幼児の死という最大級の悲劇が物理現象へと還元されている。そこには感傷の入る余地はなく、ただ現象としての死体がそこにある。「亡クシタ児と食事シテイル」という状況の異常性も、カタカナ混じりの事務的な報告体によって、まるで既定のスケジュールであるかのように淡々と遂行される。「点滴につながれたまま」管理され、あるいは「夜を拾う」という奇妙な労働に従事させられる子どもたち。彼らは愛される主体ではなく、世界という実験室のなかに「遺棄され、観察される客体」として存在しているのである。

 「窓の海光」における〈遺棄される身体〉は、私たちが現実世界で用いる「生の尊厳」や「死への哀悼」といった道徳的コードを無効化する。作者が用いる「入れる」「置く」「埋める」といった事務的な口語の運びは、悲劇をドラマとして消費することを許さない。保護されるべきものが冷徹にパッキングされ、放置されていくそのプロセスを、取扱説明書のような平明さで記述すること。この乾いた暴力性こそが、読者に対して、世界の底に横たわる本質的な寂寞と、詩的虚構としての底知れない深淵を突きつけてくるのである。


六―二―四、無言化される口語

 口語とは本来、他者へ向けて開かれた発話であり、コミュニケーションを前提とする文体であると私は考えている。しかし、「窓の海光」において駆動する口語は、その本質的な役割を完全に反転させている。ここで用いられる「声」「手紙」「受話器」といったコミュニケーションの媒体は、他者とつながるための機能を喪失し、ただ決定的な断絶や沈悶を強調するためだけに配置される。本来なら誰かに届くはずの言葉が、誰とも通じないまま空間に凍りつく。この〈無言化される口語〉という逆説が、いかにして世界の沈黙を増幅させているか、三つの様相から論じる。

 まず、手紙や電話、便箋といった「メッセージを運ぶはずのメディア」が、その中身を徹底的に剥ぎ取られ、記号的な不通状態として提示される表現群である。


空の向こうに無言の手紙届く

まぶたに色落とす便箋白い

受話器の向うの雨をみている


 もっとも象徴的なのは「空の向こうに無言の手紙届く」である。「手紙が届く」という日常口語の平易な報告体でありながら、その中身は「無言」という空虚そのものである。通信は成功しているにもかかわらず、そこには伝達されるべき意味が最初から存在しない。「まぶたに色落とす便箋白い」における便箋の「白さ」や、「受話器の向うの雨をみている」という聴覚メディアを通じた視覚的な景色の忘我は、いずれもコミュニケーションの回路が決定的に目詰まりを起こしていることを示している。口語という「語りかける文体」が、メッセージの不在という冷酷な事実を運ぶパラドックスが提唱されている。

 次に、人間の発話の最たるものである「声」や「うた」が、他者と共鳴することなく、ただ風景の中に「遺棄された遺留品」のように響いている表現群である。


呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空

夜の病院の母のうたごえ

まぶしい声の背中だけある

とおく産声だけの昼となる


 「呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空」において、カタカナで表記された「呼ブ声」は、誰かを呼び止め、対話を始めるためのものではない。それは、発話者という主体が消え去ったあとに、冬空という物理空間にぽつんと取り残された残響にすぎない。「母のうたごえ」や「とおく産声だけ」という描写も同様である。それらの声は、誰かの耳に届いて応答されるためのものではなく、夜の病院や昼の虚空という、無菌室のような閉ざされた空間を満たすだけのモノローグ(独白)として、あるいは単なる環境音として処理されている。「声」が響けば響くほど、それを聞き届ける他者の不在が逆照射され、世界の静けさが耐えがたいほどに増幅していく。

 言葉によるコミュニケーションの原初的な形態である「手をつなぐ」「手をあてる」といった身体的アプローチが、ことごとく無効化され、孤立へと追い込まれる表現群である。


窓に病んだ手をあてる

手をつなぐことなく冬の影

何もない手のひらが海になる


 「手」は本来、他者に触れ、言葉以上に雄弁に意思を伝える伝達器官である。しかし「窓に病んだ手をあてる」とき、その手の先にあるのは冷徹な境界であり、世界の向こう側への接触は遮断されている。「手をつなぐことなく冬の影」という諦念、そして他者を握ることをやめた「何もない手のひら」がそのまま茫漠とした「海」へと変貌していくプロセス。ここには、他者とつながることを拒絶した、あるいはつなぎ損ねた人間の、徹底的な孤立の風景がある。日常の平易な口語が語るのは、温かな連帯ではなく、指先から始まる関係性の不通だ。

 「窓の海光」が達成した逆説は、口語俳句でありながら、誰とも通じない沈黙の詩学を完成させた点にある。

 作者が用いる「届く」「遺していく」「声がある」という平明な言葉の数々は、一見すると読者との距離を縮めるかのように思わせる。しかし、その言葉が指し示す中身は、無言であり、白であり、不通である。話し言葉のフレームを用いながら、その中身を徹底的に空虚さで満たすこと。この文体と内容の引き裂かれた関係性こそが、叫び声よりもなお冷徹に、私たちが生きる世界の根源的な無言性を浮き彫りにしている。


六―二―五、災厄化する自然

 「窓の海光」が提示する自然の相貌は、そうした情緒的な交感の場ではない。ここで描かれる空、月、昼夜、そして海は、人間を脅かす、あるいはすでに静かに崩壊しつつある災厄の現場そのものへと変形している。ここで特筆すべきは、自然の異変やディストピア的な破局を描くにあたり、大袈裟な恐怖の叫びや主観的な感傷が徹底的に排除されている点である。作者は「〜となっている」「〜が来る」といった、きわめて平明かつ説明的な口語を用いる。この文体のフラットさが、かえって描写される世界の異様さと現実感の崩壊を際立たせる。本論では、この〈災厄化する自然〉のメカニズムを考察する。

 「〜となっている」という状態の同定や、「〜が来る」という客観的な事実の推移を示す口語が、世界の物理的なバグを平然とドキュメントしていく表現群である。


空がつめたい火事となっている

原因不明の夜が来る

夕焼ニ私トイウ現象


 「空がつめたい火事となっている」という句において、本来なら熱を持つはずの「火事」が「つめたい」という形容を帯び、それが空の全域に広がっている。この致命的な世界の変転を、作者は「〜となっている」という極めて平易で説明的な事務口語で処理する。ここには驚きも嘆きもなく、ただ冷徹に処理された事実だけがある。「原因不明の夜が来る」も同様である。夜という日常的な天体現象が「原因不明」という不穏なエラーコードを付与され、それが不可避のタイムラインとして「来る」と報告される。叙情を廃した客観的な報告文のような佇まいこそが、読者に対して「すでに手遅れとなった世界」の冷たい現実感を突きつけてくるのである。

 次に、自然風景の中に「放射線」や「放物線」といった、科学的あるいは人工的なベクトルが侵入し、空間そのものを不穏に歪めていく表現群である。


冬空に架ける放射線の昼

鉄格子にセロファンの海燃やす

晩夏撃つピストルとなる


 「冬空に架ける放射線の昼」に見られる、本来は目に見えないはずの脅威が、昼の光のなかに構造物のように「架ける」とされる異様さ。ここでの自然の光は、地上を均質に照らす安全なものではなく、空間を侵食する暴力的なエネルギーのように世界を満たしている。「鉄格子」の向こうで「セロファンの海」を「燃やす」という行為や、晩夏が「ピストルとなる」という物質化。これらは、人間が自然と調和して生きることを拒絶された極限の管理空間、あるいは破局のあとの荒涼としたディストピアを想起させる。

 海、夕焼け、昼といった自然の構成要素(エレメント)が、その本来の性質を反転させ、あるいは毒々しく変異していくプロセスを捉えた表現群である。


向日葵ノ首夕焼ケル

楽譜につめたい夕やけを塗る

剃刀の匂いの昼が消失する

オキシフル発火する幼児の死体


 夕焼けは古来、哀愁や美の象徴であったが、ここでは「向日葵ノ首」を物理的に焼き尽くすような、あるいは「楽譜に塗る」化学塗料のような、人工的で暴力的な熱量として描かれる。さらに、「昼」は「剃刀の匂い」という金属的な鋭利さを帯びて空間から「消失する」。

 自然界のエレメントがすべて変異し、化学物質や凶器のメタファーへと変換されていく光景は、もはや私たちが知る「地球」の風景ではない。幼児の死体に作用する「オキシフル」の発火現象に象徴されるように、あらゆる自然物と生命が、冷酷な化学反応の実験台へと引きずり下ろされている。

 「窓の海光」における〈災厄化する自然〉は、私たちが慣れ親しんだロマンティシズムや、自然への信頼を根底から打ち砕く。作者が用いる「〜となっている」「〜が来る」という平明な口語は、破局のただなかにありながら、その異様さを異様として叫ばない。あたかも世界の終わりが日常のルーティンであるかのように淡々と記述されるその報告文のスタイルこそが、自然の美しさを剥ぎ取り、その下に隠された剥き出しの災厄を、生々しく、そして不気味に浮かび上がらせる。


六―二―六、状態化される死

 一般に「死」とは、生からの断絶を意味する動的な出来事として捉えられる。「人が死ぬ」「命が失われる」というように、それは時間軸上の一点における劇的な変化、あるいは不可逆的な移行の瞬間を指す動詞的現象である。だが、「窓の海光」において、死はその動的な性質を完全に剥ぎ取られているように思う。ここで表現される死や災厄は、発生するものではなく、あらかじめそこに「配置」され、固定された動かしがたい環境、すなわち「風景」として立ち現れる。それを可能にしているのが、「ある」「なっている」「〜ている」という、日常の口語においては極めて平凡で平熱な述語の選択である。本論では、これらの述語が死を「事件」から「状態」へと変貌させるメカニズムと、その底に横たわる「死が既にそこにある」という不気味さの正体について考察する。

 「死」やそれに直結する極限状態が、感情の起伏を伴わずにただそこに存在するという静的な光景として同定される表現群である。


しずかな空に縊死がある

まぶしい声の背中だけある

夜にもたれている椅子がある

月明りに湿ったナイフある


 「しずかな空に縊死がある」の首吊り(縊死)は、今まさに遂行されたショッキングな事件ではない。それは、まるで空に浮かぶ雲や月と同じように、その空間の構成要素として最初から「ある」と描写される。「背中だけある」「ナイフある」という表現も同様である。それらは突発的なアクシデントとして立ち現れるのではなく、静物画のモチーフのようにあらかじめ画面に配置されている。動詞としての「死ぬ」を、名詞としての「死(の存在)」へとすり替える「ある」という日常口語のフレームは、死を特権的なイベントから、ありふれた背景へと常設化してしまうのである。

 変化やプロセスの瞬間ではなく、それが完了し、持続しているアスペクトを固定することで、破局を日常の延長線上に位置づける表現群である。


空がつめたい火事となっている

一月の死を待っている

体温計汚レテイル

昼のつきあたりに立っている


 「空がつめたい火事となっている」において、火事という動的な災厄は「となっている」という持続・定着の口語によって、持続的な状態へと凍結されている。炎は燃え上がる劇的な瞬間ではなく、つめたい静寂のなかで永遠に持続する世界の初期設定に変形する。「死を待っている」という時間の引き延ばしや、「体温計汚レテイル」というカタカナ混じりの客観描写も、いま起きている異変ではなく、すでに完了し、淀んだまま動かない時間を指し示している。これらの句において、世界は破局の瞬間ではなく、破局がすでに定着したあとの日常として、淡々と記録されている。

 死や死への予感を、日常の容器や座標へと機械的にレイアウトすることで、最初からそこにあることを決定づける表現群である。


靴下に真昼の死を入れる

プールの水面に死の匂い置く

空のはじめに片方の靴を置く

少女の匂いに抱かれる死


 「靴下に真昼の死を入れる」「プールの水面に死の匂い置く」という手つきにおいて、死はもはや生物学的な現象ですらない。それは、部屋の模様替えの際に小物を配置するかのような、事務的で静かな作業として遂行される。死はこれからやってくる恐怖ではなく、すでに引き出しの中にしまわれ、あるいは水面に浮かべられた既製品だ。「少女の匂いに抱かれる死」という名詞句による死の客体化・状態化も、その不気味さを補強する。死があらかじめ空間のなかに過不足なく配置されているというこの感覚は、読者に対して、逃れることのできない絶対的な檻としての世界を予感させる。

 〈状態化される死〉は、死の恐怖を劇的に煽ることをしない。むしろその逆である。作者が駆使する「ある」「なっている」「〜ている」という、手垢のついた平凡な述語の数々は、死や災厄を特別なものとして扱わず、日常の景色と同質の「静物」へと融解させていく。

 死が発生するのではなく、既にそこにある。この、世界の側にあらかじめ死が内蔵されているという倒錯した不気味さこそが、この句群の持つ独自の静謐なホラーであり、私たちが日常のふとした隙間に覗き込んでしまう、底知れない深淵の正体なのである。


六―二―七、主体喪失の動詞

 「窓の海光」が試みているのは、その口語の親密さを利用した、極めて洗練された主体の解体劇である。ここで執拗に繰り返されるのは、「入れる」「架ける」「撃つ」といった能動的かつ具体的な動詞でありながら、その行為を「誰が」行っているのかという主体の徹底的な省略である。

 本来なら主体の定位を必要とする口語でありながら、主語が消去されることで、「自分がやっているのか」「誰かにやられているのか」、あるいは「世界そのものが自動的に行為しているのか」という境界が完全に曖昧になる。本論では、この〈主体喪失の動詞〉がもたらす不気味さと、その詩学的効果について三つの位相から考察する。

 まず、「入れる」「架ける」「くっつける」といった、空間や対象にドラスティックな変更を加える能動動詞から、人間的な主体が注意深く剥ぎ取られている表現群である。


月光につめたい胎児を入れる

冬空に架ける放射線の昼

靴下に真昼の死を入れる

セロテープ五月の空をくっつける


 「胎児を入れる」「空をくっつける」という行為には、本来なら明確な意図を持った人間の手が介在していなければならない。しかし、これらの句には「誰が」という動機も責任の所在も描かれない。

 その結果、読者は奇妙な錯覚に囚われることになる。これは「私」という人間が狂気の中で行っている私的な儀式なのか、あるいは見知らぬ「誰か」によって遂行されている光景の目撃なのか。それとも、人間という存在を置き去りにしたまま、世界というシステムそのものが自動的にその不条理な営みを執行しているのか。口語の平明さが、かえってこの主体の特定不能性を加速させ、世界そのものが非人間的に駆動しているような不気味さを生み出す。

 次に、「あつめる」「折る」「洗う」といった、極めて身辺的かつ身体的な動作を含みながらも、それが発話者である「私」の領分なのか、風景の一部なのかが判然としない表現群である。


海に報いるためにピストル撃つ

両手で夕焼あつめる

夜の台所にクレヨンを折る

夜中にスプーンを洗う

海をきれいな折り紙でつくる


 「夜中にスプーンを洗う」や「夜の台所にクレヨンを折る」といった日常の卑近な行為は、一見すると「私」の極私的なモノローグのようにも読める。しかし、主語が注意深く伏せられているため、その身体性は「私」という個体の中に閉じ閉じ込められない。

 「ピストル撃つ」「夕焼あつめる」という行為の主体は、「私」であると同時に、世界に遍在する無名の「誰か」でもあり得る。あるいは、境界線を失った肉体が世界そのものと融解し、環境の要請によって「撃たされ」「折らされている」かのような、奇妙な受動性を帯びた能動態(中間態的なニュアンス)へと変質している。口語という身近な文体でありながら、その核心にあるべき「私」の輪郭が内側からスカスカに霧散していく恐怖が、ここにはある。

 そして、「埋める」「刺す」「捨てる」という、倫理的なサスペンスや加害性を孕んだ動詞が、誰の罪でもないかのようにフラットに配置される表現群である。


雨の余白に埋める

行間に死んだ児を埋める

昼顔につめたい針金を刺す

非常口にマッチ捨てる

剃刀のすべてを消しつくす


 「死んだ児を埋める」「針金を刺す」という行為は、通常であれば劇的な展開を呼び寄せる。しかし、主語を伴わない口語の淡々とした運びは、それらの行為から「罪悪感」や「加害者性」を完全に脱色してしまう。誰が埋めたのか、誰が刺したのか。その主体が消失した空間において、これらの凄惨な行為は、あたかも工場のベルトコンベアの上で淡々と進む事務的な処理のように記述される。加害の主体すらも匿名化されるディストピア的な冷徹さは、読者に対して、個人の意志を超えた巨大な不条理の作動を予感させる。

 〈主体喪失の動詞〉は、口語俳句という形式が内包する最大の逆説を突いている。それは、「生々しい話し言葉のフレームを用いながら、その言葉を発しているはずの『人間』を完全に解体する」という試みである。

 主語を失った動詞の数々は、宙吊りのまま空間に放り出され、誰のものでもない「行為そのもの」として自立し始める。自分がやっているのか、誰かにやられているのか、世界が勝手に動いているのか。その答えを永遠に保留されたまま記述される匿名の風景こそが、この句群の持つ底知れない空虚であり、主体の拠り所を失った現代的な生のあり方を、残酷に活写しているのである。


六―二―八、継続する未完了

 近代の詩歌において、時間の移ろいやその一瞬の切り取りは、生の儚さを情緒的に表現するための主要な手法であった。だが「窓の海光」における時間感覚は、そうした流動的な叙情とは根本的に異なっている。繰り返されるのは、「〜している」「〜となっている」という、現在進行や状態の持続を示す口語の語尾である。

 この「〜ている」という相は、今まさに何かが進んでいる継続だけではなく、過去の動作が今に及んでいる結果状態や完了を内包しその境界をしばしば曖昧にする。この句群においては、その曖昧さがかつて事件が起きた、そして終わったという歴史性を剥ぎ取り、異変や災厄、あるいは死の気配が今この瞬間も、そしてこれからも永遠にあり続けているという、終わりのない永続性を生み出す。本論では、この〈継続する未完了〉が世界の時間をどのように凍結させているか考察する。

 本来なら一時的な気象現象や人間の知覚行動が、「〜ている」の語尾によって終わりなき環境へと固定されていく表現群である。


私の真ん中に雪が降っている

受話器の向うの雨をみている

背中の真ん中がしぐれている

手をつないでいる雪のおと


 「私の真ん中に雪が降っている」という句において、雪の降下は始まりも終わりもない。雪が降ったという過去の事実ではなく、降っているという未完了の持続である。それは主体の内面に常におり続ける、永遠の背景と化している。「受話器の向うの雨をみている」における視線も同様である。それは一瞥ではなく、終わりなき忘我の持続を指し示している。日常の平明な口語が、現象の始まりの劇性と終わりの救済を等しく剥奪するとき、読者はそこに、時間が摩耗することなく永遠にループし続けるような、底知れない閉塞感を感知することになる。次に、生や死、あるいは時間の経過そのものが、ある特定のフェーズでピタリとフリーズし、その状態のまま持続している不気味さを捉えた表現群である。


蛇口で時間が止まっている

一月の死を待っている

亡クシタ児と食事シテイル

夜にもたれている椅子がある


 「蛇口で時間が止まっている」は、このテーマを物理的に反転させた表現である。時間が止まったという完了ではなく、止まっているという状態の継続。つまり、時間が停止したという異常事態が、いまなおリアルタイムで継続しているという強烈なパラドックスがここにある。凄惨なのは「亡クシタ児と食事シテイル」だろう。すでに失われた生命との交流という破局的な状況が、カタカナ混じりの事務的な「シテイル」によって、現在進行形の日常のルーティンとして維持されている。ここには死の衝撃はない。ただ、死を待っている時間や、主を失ったまま夜にもたれている椅子の時間が、完了することなく不気味に引き延ばされ、固定されているのである。

 世界の物理的なバグや、境界線へと向かう足取りが、「〜となっている」「〜ている」によって、その世界の初期設定として定着していく表現群である。


空がつめたい火事となっている

昼のつきあたりに立っている

衿元に風ためている向日葵です


 「空がつめたい火事となっている」において、火事という突発的な炎上イベントは、「となっている」という結果状態の口語によって、持続的な環境へと融解している。火事が「起きた」のではない。その世界は、最初から「火事であり続けている」のだ。「昼のつきあたりに立っている」という描写も、移動の果ての到達ではなく、そのつきあたりに、永遠にピン留めされたように佇み続けている主体のあり方を指している。変化のプロセスを切り取るのではなく、変異しきったあとの世界を「〜ている」という平熱のフレームで持続させること。これによって、世界は元に戻ることのない致命的な確定形として、読者の前に立ち塞がる。

 「窓の海光」における〈継続する未完了〉は、読者から「時間が経過する」という救いを奪い去る。作者が多用する「〜ている」「〜となっている」という平明な語尾は、過去・現在・未来の境界線を融解させ、終わらない現在の檻へと閉じ込めてしまう。災厄も死も、一度きりのドラマとして消費され、過去へと葬られることはない。それが今も、そしてこの先もずっと「そこであり続けている」という圧倒的な不条理、この出口なき時間の持続こそが、日常の口語という最も身近な文体から立ち現れる、詩的ホラーではないか。


六―二―九、方向だけが残る

 「窓の海光」における言葉の運動性を決定づけているのが、「届く」「遺す」「行く」といった移動や伝達を意味する移動系の動詞である。通常、これらの動詞は出発点から到達点への移動を描き、そこに関係性の完結や、メッセージの回収というカタルシスをもたらすために機能する。しかし、本句集において重要視されるのは、移動の結果としての到達や成就ではない。ここで前景化されるのは、どこか遠くへ向かって放たれる方向性そのものである。言葉や身体は、ある確かな宛先へ向けて駆動を始めながらも、決してその先で誰かに受け止められ、回収されることがない。日常の話し言葉であるはずの口語が、他者との親密な会話の言葉(ダイアローグ)として機能することをやめ、ただ虚空へと消えていく一方通行の送信へと変質していくプロセスを分析する。

 「届く」という移動の完了を示す動詞を用いながらも、その到達した先が絶対的な空虚であるか、あるいは中身そのものが消失している表現群である。


空の向こうに無言の手紙届く

空の向こうに無言の手紙届く (※リフレイン)

夜の窓へひかりが届く


 「空の向こうに無言の手紙届く」という句において、「届く」という動詞は本来なら通信の成立を祝すはずの言葉である。しかし、その手紙が届けられたのは「空の向こう」という、人間が決して触れることのできない不可能性の領域であり、なおかつその中身は無言である。

 ここでは、届くという行為のベクトルが鮮明に描かれ、その中身の回収は最初から拒絶される。口語の平明な報告が、むしろ「届いたところで誰もいない」「届いても何も伝わらない」という世界の断絶を冷徹に際立たせるのである。

 次に、「行く」「ゆく」「遺す」といった、現在の座標からの離脱や分離を示す動詞が、後に何も残さない不可逆の方向性として作動している表現群である。


呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空

遮断機の向こうの空にゆく

春のまんなかへ歩いてゆく


 「呼ブ声ヲ遺シテ行ク冬ノ空」において、冬の空を横切っていく何者かの移動(行ク)が描かれる。しかし、そこには目的地の幸福な予感はない。ただ「呼ブ声」という過去の遺留品をその場に「遺す」という、引き裂かれるような方向のベクトルが残される。「遮断機の向こうの空にゆく」「春のまんなかへ歩いてゆく」も同様に主体は、日常の安全な足場から、遮断機の向こうや季節の深淵という、帰還不能なあちら側へと向かって歩みを進めていく。ここでの移動動詞は、出会いのための移動ではなく、この世界からの「退出」という一方通行の矢印としてのみ機能している。

 本来なら他者との交感や物理的な接触を伴うはずの動作が、相手を欠いたまま、あるいは境界線に突き当たることで、ただ虚しく放電される表現群である。


海に報いるためにピストル撃つ

窓に病んだ手をあてる

とおく産声だけの昼となる


 「ピストル撃つ」という行為は、弾丸という圧倒的な物理的ベクトルを対象へ向けて放つ移動の極致である。しかし、その宛先は「海に報いるため」という、極めて抽象的で回収不能な対象に向けられている。「窓に手をあてる」行為も、ガラスという境界線によって向こう側への接触は遮断され、手の指向性だけが窓ガラスの冷たさに吸い込まれていく。

 これらの句において、口語は誰かに語りかけ、応答を待つための手段ではない。それは、暗黒の宇宙へ向けて電波を放ち続ける観測機のように、ただ「一方通行の送信」を繰り返すための孤立した文体なのである。

 「窓の海光」における〈方向だけが残る動詞〉は、言葉のキャッチボールという人間的な幻想を剥ぎ取る。作者が用いる「届く」「行く」「遺す」という口語の移動表現は、読者に対して、どこかへ向かおうとする強い推進力を感じさせる。しかし、その矢印の先には、受け止めてくれる他者も、救済としての目的地も存在しない。放たれたベクトルは回収されることなく、ただひたすらに遠ざかり、虚空を穿ち続ける。話し言葉のフレームを用いながら、それを徹底的な一方通行の送信へと追い込むこと。この終わりのない方向性のなかにこそ、本句群が描き出す、他者と交わることのない現代的な生の孤独が、最も鮮烈に刻印されているのである。


六―二―一〇、変成の動詞

 「〜になる」「〜となる」という変化を意味する動詞は、通常事態の自然な推移や、予測可能な結果を報告するために用いられる。しかし、句群「窓の海光」において「〜となる」という変成の動詞は、その安定した役割を根底から覆している。ここで駆動するのは、ある事物がまったく別の異物へと変身を遂げる変身構文である。この動詞の作動によって、世界は確固とした固定形を失い、月がかんざしへ、空が火事へと、絶え間なく変形し続ける。口語が持つ平熱で説明的な佇まいでありながら、その内実にはきわめて強烈な幻想性が宿るという、本句群の核心的な逆説について考察する。

 まず、「〜となって」という結合の契機により、本来なら交わるはずのない二つの名詞が物理的に融合し、新たな物質へと変容を遂げる表現群である。


空のかんざしとなって昼の月

咳止マズ、夜ノ一部トナル

晩夏撃つピストルとなる


 「空のかんざしとなって昼の月」という句において、天体である「昼の月」は、空という巨大な空間を髪に見立てた「かんざし(装飾品)」へと変成している。ここでは、比喩が単なる頭の中の連想にとどまらず、「〜となって」という動詞によって物理的な実体を伴って変身させられている。さらに、「夜ノ一部トナル」というカタカナ混じりの冷徹な報告や、終わりゆく季節が「ピストルとなる」という変異も同様である。主体や季節といった輪郭の曖昧なものが、夜という空間の肉片や、ピストルという硬質な凶器へと変形していく。口語の平明なフレームが、この物質的なトランスフォーメーションを当然の事実のように語ることで、読者は現実のルールが書き換えられていく鮮やかな目眩を知覚する。

 変成の動詞が「〜ている」という状態化の語尾と結びつくことで、変形しきったあとの不気味な世界線がそのまま永続していく表現群である。


空がつめたい火事となっている

理由のない昼に背がとどく(※変成の果ての空間的定着)


 「空がつめたい火事となっている」では、空が火事に変形するという、世界の本質的なバグ。それが「となっている」という結果状態の口語によって処理されることで、世界は変形し続けている真っ最中のまま凍結される。火事が「起きた」という一過性のイベントではなく、空が火事という異物へ変成した状態が持続する。この終わりのない変形の現在進行形は、私たちが知っている安定した現実のストッパーを外し、世界がつねに流動し、いつでも別の破局へと姿を変えうるという潜在的な恐怖を呼び起こす。

 そして、「〜となる」という変成の構文が、宇宙的なマクロ(空、夜、季節)と、身辺的なミクロ(かんざし、ピストル、日常の道具)の境界線を融解させ、それらを等価に交換していく。


何もない手のひらが海になる

五月に溶ける少女の楽譜(※変成を伴う融解)


 「何もない手のひらが海になる」というダイナミックな変成において、人間の極小の肉体である手のひらは、一瞬にして茫漠たる「海」というマクロな自然へと反転する。ここにおいて、世界を構成するあらゆるパーツのサイズ感や質量は無効化されている。手のひらが海になり、月がかんざしになる世界。それは、すべての事物が固定されたアイデンティティを持たず、言葉ひとつで容易に別の存在へと裏返ってしまう、極めて危うい虚構空間である。作者は「〜になる」という子供の絵本のような平易な動詞を使いながら、その実は世界を根底から解体し、再構成する不条理な物理学を実践しているのだ。

 〈変成の動詞〉は、口語俳句が到達した「日常の言葉による、非日常の開拓」の極致を示している。「〜となる」「〜になる」という、誰もが使う平明な変化の表現。それは本来、読者を安心させる日常のタイムラインを形作るはずの言葉である。しかし作者は、その手垢のついた述語を用いて、世界を絶え間ないメタモルフォーゼの渦へと突き落とす。月も、空も、肉体も、次の瞬間には別の異物へと変形しているかもしれないという終わりのない流動性。この文体の平熱さと、内容の幻想性・不条理さの幸福なマリアージュが、本句群に底知れない詩的魅力と、静かな変革をもたらしている。


七、結論

 本稿では、安藤宏の私小説における虚構論を出発点とし、西躰かずよし句集『窓の海光』における虚構性を、単なる事実の有無という内容上の問題ではなく、句の内部に組み込まれた具体的な表現上の技術、および作者の創作態度として捉え直すことを試みてきた。

 「五、構造における虚構性」においては、作中に頻出する「空」「児」そして「私」の描写を検討した。そこでの「空」は写実的な自然ではなく感情や観念を重ね合わせる媒体であり、「児」は実在の子どもではなく喪失や死といった抽象概念を担う象徴的な役割として配置されていた。さらに、明示・暗示される〈私〉もまた、作者の実在と重なる固定された人格ではなく、世界をそのように見つめる視点としてその都度立ち上がる存在であった。これらは、作中主体や情景が、表現の必要性に応じて意識的に組み立てられ、演じられた「装置」として機能していることを示しており、ここに本句集の構造的な虚構性が認められる。

 「六、口語表現における虚構性」においては、全編を規定する口語表現がもたらす詩学的効果について、十のアプローチから多角的に分析した。本句集における口語は、他者との親密なコミュニケーションを目的として機能していない。むしろ、「〜がある」「〜のこす」「〜となっている」「〜ている」といった平明かつ事務的な述語の選択によって、主体の消失や身体の遺棄、自然の災厄化を淡々と記述し、死を動的な事件から静的な「状態(風景)」へと凍結・常設化させている。さらに、主語を奪われた能動動詞は主体の解体を推し進め、移動系の動詞は回収されない一方通行の方向性を虚空に刻みつけ、変成の動詞は世界を絶え間ないメタモルフォーゼの渦へと突き落とす。話し言葉という親密なフレームを用いながら、その内実を徹底的な不在、不通、そして不条理さで満たすという「文体と内容の引き裂かれた関係性」こそが、西躰の口語俳句が達成した虚構のレトリックの核心であった。

 以上の考察から、西躰かずよし『窓の海光』における虚構性とは、平熱の口語という仕掛けを逆手に取ることで、現代的な生の孤独や世界の根源的な無言性を、叫び声ではなく静かな眩暈として読者に感得させる高度な表現技術であると結論づけられる。これは、安藤の言う「いかにも事実に見えるウソ」を表現するダブルバインドの技術が、短詩型文学の口語表現において極めて先鋭的な形で駆動している好例である。

 ただし、本稿では『窓の海光』内部の構造および文体の抽出に終始し、虚構と実感の境界のあり方については未だ議論の余地を残している。今後は、林桂の指摘する〈西躰かずよし〉という仮構された「境涯」像の系譜をより深く掘り下げるとともに、小川楓子が提起した「身体の透明化」や「レトリックの多用」といった三十代以下の現代俳句の潮流を視野に収め、同時代の他作家・他句集との比較検証を通して、西躰の試みが現代俳句史において果たす地平を体系的に位置づけていくことが今後の課題である。


【取り上げたもの】

・西躰かずよし『風の花冠文庫二二 窓の海光』(鬣の会 二〇一七年)

・安藤宏『「私をつくる」近代小説の試み』(岩波新書 二〇二三年 一八二―三頁)

・小川楓子『不透明な時代の透明で不透明な体』(現代俳句 第七二〇号 二〇二五年 八月号 一四頁)

・浅川芳直『俳句と虚構』(俳壇 第三七巻 一二号(通号四六八号 二〇二〇年一一月 一九六―七頁)