2026年5月29日金曜日

【短期連載】シンポジウム「昭和俳句、何が争点?」速報  井上泰至

現代俳句協会・日本伝統俳句協会共催シンポジウム「昭和俳句、何が争点?」


日時:2026年4月30日(木)江東区芭蕉記念館で、

参加者:報告者:井上泰至(伝統俳句協会会長)、筑紫磐井(現代俳句協会副会長)

コメンテーター:岸本尚毅(俳人協会理事)、後藤章(現俳専務理事)、堀田季何(現俳常務理事)


シンポジウムの内容:

第1部「昭和20年代、ふたつの現代俳句―山口誓子vs石田波郷・山本健吉」、

第2部「昭和30年代、現代俳句の分裂と俳壇の動向―金子兜太vs角川源義」


経緯:

 第1部・第2部を通じて、井上・筑紫が資料を使って報告、これに対してコメンテーターから発言があった。第2部の最後では、筑紫から「未来俳句宣言」の提案が行われ、最後は会場の数人と質疑が行われた。

 以下井上の使用した資料を示す。


資料1 昭和俳句関係年表

昭和二年  高浜虚子、花鳥諷詠を提唱(大阪毎日新聞社講演)。

昭和六年  水原秋櫻子、「ホトトギス」を脱退。

昭和八年  小林秀雄ら「文學界」創刊。

昭和九年  改造社「俳句研究」創刊(編集、山本健吉)。

昭和一二年 ※日中戦争勃発。

昭和一四年 人間探求派結成(「俳句研究」)。

昭和一五年 京大俳句事件。

昭和一六年 ※太平洋戦争開戦。

昭和一七年 大日本文学報国会発足(菊地寛・久米正雄・高浜虚子)。

昭和二〇年 ※終戦。

昭和二一年 桑原武夫「第二芸術」(「世界」)。

      山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」)。

      小林秀雄『無常といふ事』(創元社)。

昭和二二年 現代俳句協会発足。

昭和二三年 山口誓子「天狼」創刊。

昭和二四年 ※中華人民共和国成立。

昭和二六年 山本健吉「純粋俳句」(「馬酔木」編集長、石田波郷)、『現代俳句』上巻。

      ※サンフランシスコ講和条約。

昭和二七年 角川源義「俳句」誌創刊、昭和文学全集大ヒット。

昭和二八年 「「俳句と社会性」の吟味」特集(「俳句」)

昭和三〇年 ※五十五年体制。

昭和三四年 高浜虚子没。

昭和三六年 俳人協会発足。

昭和四九年 山本健吉、「「軽み」の論」(「すばる」)。

      金子兜太『種田山頭火 漂泊の俳人』(講談社現代新書)

昭和五〇年 角川源義没。

昭和五一年 俳句文学館落成。

昭和六二年 金子兜太、朝日新聞俳句欄選者に。

日本伝統俳句協会発足。

昭和六三年 山本健吉没。


資料2 誓子vs波郷・健吉、虚子派と東大俳句会

井上『俳句の伝統―虚子と健吉』(KADOKAWA 二〇二六年)8頁

 試みに現代俳句協会が出来たとき、どのあたりを「現代俳句」の始発と考えていたか確認してみると、それは山口誓子を起源とする、というのが共通認識であったようだ。俳句史を眺めてみても、最初に「現代俳句」の名を、明確な意識を以て冠した書物は、東京三(秋元不死男)の『現代俳句の出発』(昭和十四年)だった。序文は当の誓子が書いている。当時新興俳句の旗手であった誓子の句を題材にして、多角的に分析してみせたものである。

 ただし、「現代俳句」は誓子を起点として出発した、と断言したのでは、素朴に過ぎる。誓子のエッセイに「分離」という、およそ詩的でないタイトルの興味深い内幕を明かした一文がある(『春夏秋冬』昭和二十六年)。誓子が、タッグを組んでいた水原秋櫻子の「馬酔木」から「分離」するきっかけを作ったのは、友人から聞いた石田波郷の発言であったことを明かし、仕掛けた波郷が「馬酔木」の編集長にちゃっかり収まったことを皮肉交りに語っているのだ。

 昭和の俳句史は、水原秋桜子が虚子の膝下から飛び出し、これに山口誓子が加わった「分離」と「糾合」から始まったことは常識の部類に属する。しかし、秋桜子と誓子の俳句世界は、誰の眼にも異質で、そこに「分離」の芽はあった。二人が「馬酔木」で一緒にやっていることの問題は、早くから指摘がある。昭和十四年七月の「俳句研究」の座談会「俳句さまざま」のメンバーは、虚子派の大番頭富安風生五十四歳、同じく虚子派のインテリで4S(素十・秋桜子・青畝・誓子)の名付け親山口青邨四十七歳、虚子の懐から飛び出した青邨と同い年の水原秋桜子、それに作家の久保田万太郎五十歳である。

 自由な立場の万太郎は、秋桜子と誓子が、俳人としての「鉱脈」「本質」の点で異なり、にもかかわらず「馬酔木」の二枚看板をやっているのはおかしい、と秋桜子本人に迫る。もともと東大俳句会の仲間だった風生と青邨は、秋桜子・誓子両雄並んで「馬酔木」を大きくしている、と秋桜子の弁護に回る。

 秋櫻子は、風生と青邨も作家として違うではないかと切り返すが、万太郎はこれを否定する。美の世界の理想を追う秋桜子と、モダンで現実の残酷さに目を背けない誓子とは、決定的に異なる、というわけである。それでも、誓子は秋桜子と決別しなかった。ようやく戦中戦後、三重県に疎開した折、波郷は誓子の友人に対して、異質な秋桜子と誓子は、むしろ「分離」して、互いに火花を散らすことでこそ、芸術上の進歩があると熱弁、その友人が疎開先の誓子にこれを伝え、これを受けて誓子は「天狼」を創刊して、「馬酔木」から出ることになったらしい。

 ところが「厳正中立」な「観戦外国武官」だったはずの波郷は、時を同じくして「馬酔木」の編集長に収まってしまう。全てが波郷の仕掛けがどうかは今確認すべくもないが、誓子の立場から見れば、これはしてやられたと書きたくもなるだろう。というのも「馬酔木」の編集長になった波郷は、親友の山本健吉に「挨拶と滑稽」の続きの位置づけで「純粋俳句」(昭和二十六年)を書かせて、誓子を中心に出発した新興俳句を攻撃しだすのだった。

 健吉の名著として今も定評のある『現代俳句』は、誓子を冷ややかに評し、「天狼」系の俳人にはさらに厳しい言辞を連ねている。その一方で、波郷は最大の賛辞を受けている。誓子からすれば、芸術上必要な「分離」であったもののはずが、実は生々しい党派形成の延長線上にあったことを感じざるを得ない。

 俳壇上の「分離」も「糾合」も、きれいごとではすまない生々しさがあって、それが俳句史のダイナミズムというものなのだ。


資料3 源義・龍太・澄雄vs兜太

井上『俳句の伝統―虚子と健吉』(KADOKAWA 二〇二六年)250頁


 昭和四十年代後半は、既に虚子復権の狼煙が上がっていた。「俳句」誌昭和四十八年一月号の「座談会 同じ世代の側から―伝統と前衛」(飯田龍太・角川源義・金子兜太・森澄雄)で角川はこう斬り込んでいる。

 私が雑誌「俳句」を始めたとき、富安風生さんが「反ホトトギスでいくんですか」と聞く。びつくりして、「どうしてですか」と逆に聞くと、昔改造社でやつていたときの「俳句研究」は反ホトトギスで成り立つんだと。で、こんども反ホトトギスでいくのか、といわれるわけなんだ。ところが戦後の俳壇というのは、反ホトトギスが必ずしも旗印でなくなつてきていることが一つの特徴だと思うんだ。金子みたいな勢い盛んな人が出てきて、(笑)そつちのほうがお盛んになつちやつてね。将来、花鳥諷詠というのはどういうのか判らなくなつて、これは無形文化財で保存しておかんと、よき時代のよき俳句のやり方というのはわからない、という時期が来るかもしれない。キミ(金子兜太―井上注)はいまむきになつて虚子はどうのこうのというが戦前の俳人たちが同じようにムキになつていた。今はもうその時期は過ぎているんだ。

 源義が亡くなる二年前、虚子の再評価をぶち上げ、伝統俳句に傾いた『現代俳句大系』シリーズを刊行していた時の座談会での発言である。これによると、源義から仕掛けた俳人協会の創設や俳句文学館の建設は、前衛俳句への対抗の意味合いが濃いと確認できる。風生の養女遠藤風琴の証言によると、東大俳句会以来の盟友風生が亡くなった時、かけつけた秋櫻子は心臓が悪く、それでもわざわざゆっくり階段を上がって、最後の対面をしたという(「花鳥諷詠」令和六年正月号座談会)。


 「俳句」の座談会では、源義と歩調を合わせ、「花鳥諷詠」を再評価していく森澄雄が、こう発言してもいる。

虚子をずつと過小評価してきたのは、虚子以後の俳句運動が全部一種の反虚子的啓蒙運動なんだ。その啓蒙運動のために虚子を蔑視してきたわけだよ。だけどもうこの時期にきて、正当に評価していく必要があるな、おまえさん(金子兜太―司会注)もいままで啓蒙主義でやつてきたわけだ。

 兜太の前衛俳句の運動に明らかな陰りが確認できた昭和四十年代、源義を勧進元として、龍太・澄雄、それにこの三人の同志である山本健吉らの一連の動きは、虚子再評価の一点で歩調があっている。湘子もその流れに乗ったと言えよう。前節で指摘したように、そもそも反

虚子のご本尊の秋桜子自体が、若手への指導では、「ホトトギス」時代への本卦帰りを、半ば認めてしまっていたほどなのである。源義の盟友となっていた風生が、『現代俳句大系』の編集を振り返って、俳句は「芸」の面があると主張したのとも符牒が合う。